氷室が、明日香は風邪で休みだと告げた時、珪は空いている席を見てやっぱりと思った。
昨日、なんだか様子が変だったのは、体調が悪かったからなのだ。
すぐに廊下に出て、携帯に掛けたが、繋がらない。
休み時間ごとに掛けたが繋がらず、どうやら電源が入っていないようだった。
家の電話に掛けても、誰も出ない。
家に帰ってからもう一度掛けて、やっと弟が出た。
「姉ちゃんなら、風邪で寝てるから」
それはもう、わかっている。珪が知りたいのは、その程度なのだ。
「どうってさ、」
弟の尽がイラついているのが、電話越しにも伝わってきた。
「熱は高いし、すぐ吐いて、何も食べられないし、ずっと寝てるけど苦しそうだし・・・あのさ、俺が言うことじゃないけどっ」
病状を並べ上げると、尽は怒りをぶつけるように言い立てた。
「もうちょっと姉ちゃんのこと、ちゃんと見ててやってよ!姉ちゃん、ぼんやりだし、すぐ無理するし、それぐらい知ってんだろ?」
「・・・そんなに、調子悪かったのか?」
「傍で見てれば、そんくらいわかるだろ?とにかくさ、今は父さんたちの部屋で寝てるし、電話に出れるような状態じゃないからっ」
良くなったら電話させると、一方的に切られてしまう。
『傍で見てれば、そんくらいわかるだろ?』
尽の言葉が、心に突き刺さっていた。
「ごめんな・・・俺、気付けなかった」
火曜日は祭日で、水曜日になっても、明日香今日子は学校を休んでいた。
相当、悪いらしいという噂は、近所の病院に明日香の父親が娘を抱いて駆け込んだのを見たというクラスメイトの一言から、あっという間に広まった。
授業中、いつものように居眠りもせず、沈痛な面持ちでいる葉月の様子が噂の広がりに拍車を掛け、手芸部の後輩が教室まで確かめに来た。
綾瀬は、葉月が受けたのとは格段に違う対応で尽から病状を聞いていたが、脱水症状を起こしかけて病院に連れて行かれたなどと、教えられる筈もない。
風邪をこじらせて、用心の為に病院に行っただけと、部長を引き継いだ篠宮を帰らせた。
お昼に、葉月の様子を見かねた楠本が声をかけ、学食へ誘った。
言われるまま付いて来た葉月だったが、まったく、食が進まない。
「風邪なんやろ。そないに心配すな」
志筑に引っ張られた姫条は、男4人のむさ苦しいテーブルに不満を訴えようとしたが、自分が病気みたいな顔色の葉月を前に、渋々、慰めの言葉を口にした。
「気付かなかったんだ、俺・・・」
ほとんど口をつけていないカレーのスプーンを置く。
「寒いって、言ってたんだ。いつもより全然話もしなくて、変だって思ったのに」
「それなら、明日香だって少しは自覚してた筈だ。下手な我慢する方が悪い」
志筑の言い分は、冷たいようだが、もっともだった。
「まぁ、そう言うなよ。明日香にしてみれば、無理してでも行きたかったんだろ」
「とにかく、葉月が落ち込んだところで、明日香が良くなる訳じゃない。様子を聞いて、見舞いにでも行ってやればいいさ」
志筑のわかりづらい慰めを聞いているのかいないのか、カタ、と椅子を引いて立ち上がった。
「悪い・・・俺・・・」
食器を下げて、学食を出て行ってしまう。
「何やってんだかなぁ、あいつら」
葉月の去った方から視線を戻し、楠本はランチセットのカップスープを取り上げた。
「どっちでもいいから、早く告ってまとまってくれ。俺はこういうモタモタした展開の話は、好きじゃないんだ」
「俺らには分からん事情があるんやろ」
「放っておけ。下手に外野が手を出さない方がいい」
1ヶ月以上、舞台の準備で行動を共にしているうちに、聡いこの3人は余計なことに気付いてしまった。
「事情ったってな、あるとすりゃ仕事絡みだろうが、例えば、事務所から女作るの禁止ってクギを刺されてたとして、あいつがおとなしく従うと思うか?」
志筑の忠告を無視して楠本が問えば、
「ないな。大体、そこまで仕事に打ち込んでないやろ」
姫条までも話に乗ってしまう。
学内公認のカップルの筈が、実は未だに、葉月珪が片想いをやっているという事実。
見ないフリ、気付かなかったことにしようと申し合わせた筈なのに、目の前でこうも苦悩する様を見せつけられると、黙っていられなくなる。
「まさか、ほんとに仲がいいだけの友達としか思われていない、なんてことは・・・」
この際だと、楠本はずっと心にあった疑問を口にしてみた。
「ない」
「ありえへん」
即座に否定される。
「だよな」
妙にほっとして、唐揚げを口に運んだ。
「例のポスター、明日香のあの表情。どう説明する気だ?」
「あれで気付かへんのはアホやで、ほんまに」
互いに想い合っているのは明らかなのに、告げない理由が彼らにはさっぱり分からない。
素知らぬフリを続けるにしても、消化不良のストレスは溜まる一方だった。
告白をしないのではなく、諦めて帰ったまま一時停止状態にある珪は、あの日、ひどく落胆していた。
なぜこうも、タイミングが合わないのか。
何かに八つ当たりしたい気分で一杯だった。
どうしようもない馬鹿だと、珪は自分を罵っていた。
毎日、顔を合わせていたのに、一緒にいたのに、何も気付いてやれなかった。
俺は、あいつのことを、何もわかっていない。
ただ、望むだけ。
欲しがるだけ。
今日子の家の前で、珪は立ち尽くしていた。
一度、チャイムを鳴らしたが応答はなく、誰も出てこない。
手紙を添えて、お見舞いを置いて帰ろうかと思ったが、この扉の向こうで今日子が苦しんでいると思うと、動けない。
何が出来るという訳でもないのに。
どれぐらい、そうしていたのか。
「君は・・・」
声に振り向くと、文化祭でちらっと見かけた、今日子の父親が立っていた。
挨拶をして、提げていた紙袋を、お見舞いと言って渡した。
果物なら喉を通るかもしれないと、風邪に効くビタミンCの多い柑橘類を、思いつくまま詰めてもらった。
「じゃあ、俺、これで・・・」
お見舞いを渡せた以上、もう、ここに留まる理由はない。
(早く、良くなれ)
二階の、今日子の部屋の窓を見上げ、心で祈った。
「待ちなさい」
呼び止められた。
「今は、眠っている。薬を飲んだばかりだからな。だが、眠りが浅いから、もう少ししたら目を覚ますかもしれない」
玄関の鍵を開け、扉を開く。
「よかったら、コーヒー一杯飲む間だけ、待ってみるかい?」
否と、言う筈がなかった。
暖かいリビングのソファで、珪は落ち着かなかった。
奥のキッチンで、今日子の父はコーヒーを淹れる仕度をしている。
扉の内側に入れたことで、気持ちの抑えがきかない。
我慢出来ず、立ち上がった。
キッチンとの境に立ち、
「あの、」
声を掛ける。
「伺っても、いいでしょうか?」
こちらを振り返った今日子の父は、特に表情を変えることもなく、無言だった。
「今日子、さんの、具合はどうですか?」
少しは回復したのか、それともまだ、苦しいままなのか。
「だいぶ落ち着いたよ。熱も下がってきた」
ほっと、全身の力が抜けた気がした。
「すみませんでした」
自然と、頭を下げていた。
「俺が、はばたき山に連れて行ったから・・・俺、今日子の具合が悪いのにも、全然、気付かなくて、」
本当に、気付いてさえいれば、あの日、ちゃんと休ませていれば、倒れることなどなかった。
君のせいじゃないと言われても、悪いのは自分だと、頑強に珪は思い込んでいた。
ダイニングテーブルの椅子に掛けるよう勧められ、従った。
「文化祭の疲れもあったんだろう。あの子はもともと、限界まで無理をする悪いクセがあってね」
「これから、気を付けます」
責められないことが、かえってつらい。
今更遅いとわかっていたが、そうとしか言えなかった。
コーヒーを淹れる今日子の父の手許を、見るともなしに見ていて、珪は気付いた。
「どうした?」
訊ねられ、
「そのコーヒーの淹れ方、今日子、さんにそっくりだったので」
親の前で呼び捨てはまずいだろうなと、既に一度、そう口にしていることに気付かず、慣れぬ呼び方をする。
「そりゃ、教えたのは私だからな」
アルカードで、家で、何度も見てきた今日子の仕草。
そうか、お父さんから、教わったのか。
仲、いいんだなと思う。
家族のつながりを目に見える形で示されて、不思議な感じがした。
コーヒーを飲みながら、少し話をした。
「葉月君は、モデルの仕事をしているんだってね」
「はい」
「いつから、やってるんだい?」
よくある質問だった。
「中学の頃からです。……親戚に頼まれて、それで」
「それから、ずっと?」
「はい。仕事が無くならなくて」
間をつないでくれているのだと思い、いい加減ではなく、真面目に答えた。
このまま今日子が目を覚ますのを待っていてもいいのだろうか、迷惑ではないのだろうか。
問いかけようとした時。
カチャッと、音がした。
静かな部屋で、その音を珪は難なく捉え、リビングへの扉が開いた音だとわかって、椅子から腰を浮かせた。
這うように、床に身体を屈めているのが今日子だと気付くまでに、数秒かかった。
君は動くなというように、肩を押さえられるまでもなく、珪は声も出せなかった。
今日子の父が、素早く傍に行って、助け起こした。
「どうした」
「二階に、戻る前に、何か、飲もうと、思って」
切れ切れに届く、か細い声。
「吐いたのか?」
「ううん・・・気持ち悪い、だけだった・・・食べて、ないからかな。ちょっと、クラクラする・・・」
パジャマ姿で、ぐったりと扉にもたれ掛かった顔は青白く、目を閉じた表情は苦しげに歪み、血の気のない唇で浅い呼吸を繰り返す。
父親に抱き上げられ、今日子が二階へと連れて行かれるのを、珪は馬鹿みたいに突っ立ったまま見ていた。
悪いとは、聞いていた。
だが、これほどとは、思わなかった。
弟が、姉を心配して怒りをぶつけてくるのも、無理はなかった。
鞄を手に、玄関の上がり口で、今日子の父が階段を降りてくるのを待った。
「俺、帰ります。コーヒー、ごちそうさまでした」
ここにいても、自分が出来ることは何もない。
今日子の父も、止めなかった。
「ほんとに、申し訳ありませんでした」
謝ることしか出来ない。
家に帰る道すがら、珪の頭の中に、忘れたい光景が甦っていた。
工房で、胸を押さえて倒れた祖父は、二度と目を開けなかった。
心臓を悪くしていて、次に大きな発作が起きたら最後だと言われていて、完成した家に引越しを終えたら、再び入院することになっていたと、何もかも終わった後で珪は聞かされた。
珪が父について外国にいる間、祖父は何度か訪ねてくれていたが、最後の二年くらいは会いに来てくれなかった。
帰国して、久しぶりに会った祖父を老いたと感じたけれど、齢のせいだと思っていた。
小さな子供の頃と同じように祖父に扱われるのがシャクで、逆らってばかりいたから、祖父の変化に気付きもしなかった。
すぐ、薬を飲ませていたら。
すぐに、救急車を呼べていたら。
焼けるような後悔に震える珪に、もう永らえることは出来なかったろうと誰も責めず、慰められたが、今でも、もし、と考える。完成を楽しみにしていたという家で、一日でも、一緒に過ごすことが出来たかもしれないと。
もし、今日子が。
その先は、想像することも出来ない。
倒れた祖父の白い顔と、青白い今日子の顔が重なる。
馬鹿なことを考えるなと、強く、かぶりを振った。
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