翌朝は、快晴だった。
姉を起こすよりも早く準備を始めていた尽のおかげで、お弁当作りも仕度も、珪が迎えに来るまでに余裕で間に合った。
誕生日に贈ってくれたムーンストーンのペンダントを、山登りの格好には合わないのを承知で付けたが、珪は嬉しそうにしてくれて、やっぱり、行くことにして良かったと思った。
出発の時間を早めた甲斐があり、道も混雑する前に山の麓に到着した。
「行こう」
珪が差し出す手を、今日子は自然に取っていた。
紅葉のトンネルをくぐり、落ち葉の絨毯を踏んで歩く。
「ほんとにきれいに染まってるな」
人出は多かったが、うるさいほどではない。
きれいな葉を見つけて拾い、
「ほら」
と渡してくれる。
「ほんと、きれいだね」
そう相槌を打つ今日子に、景色を楽しむ余裕はなかった。
「珪、ちょっと休憩しない?」
身体が、気持ちの3歩後から付いてくるような重さだった。
「おまえ、まだ15分も経ってないぞ」
呆れたように珪は言ったが、今日子はもう、息を早めていた。
「この山、こんなに急だったっけ」
「別に、こんなもんだろ」
山の傾斜が一年ごとに変わる筈もないのだから、傾いているのは自分の身体の方なのだろう。
「ね、腕に掴まってもいいかな」
杖代わりに頼るのは悪いと思ったが、自力で上まで行く自信がない。
体力ないなと、にくまれ口をききながらも、掴まれというように珪は腕を曲げてくれた。
「ごめんね、荷物も持ってもらってるのに」
「別に。構わない」
珪の左腕に掴まって、やっと、足を前に出す。
息が上がって、お喋りも出来なかったが、今日の珪は自分からよく話してくれた。
撮影所の皆が舞台を見に来てくれていて、色々と感想を言ってくれること。
俳優になるのを勧められたが、断ったこと。
王子は当然良かったが、シンデレラがとてもきれいだったと、皆が褒めていること。
「本宮さんのメイクと衣装のおかげだね」
「ちがう」
強く否定して、足を止める。
「本当に、きれいだった。まるで、本物のシンデレラが絵本の中から抜け出たようで・・・お姫様に見えた」
「あり、がとう・・・なんか、照れちゃうな」
珪の視線を避け、下を向いて歩き出す。
自分を見つめる優しい瞳。
お芝居のせいだと、どんなに言い聞かせても、この瞳で見つめられるたび、胸を締めつけられた。
背けられた横顔の、冷たさの記憶は遠くなり、二人三脚の練習で感じた、はじき飛ばすような拒絶の代わりに、包み込むように気遣ってくれる温かさを、手を重ねて踊る度に感じた。
抑えようとしても沸き起こる期待と、それを押し潰す同量の怖れ。
睡眠時間が足りないのは、夜更かしの長電話ばかりのせいではなかった。
重い身体と、バラバラになりそうな心を抱えて、足を前に出す。
下ばかり見て、今日子は山を登っていた。
「この辺で、お昼にしない?」
8合目で、今日子は切り出した。
もう、動けなかった。
山頂前に挫折するのは、大抵、この辺りで、お弁当を広げる先客が、ちらほらといる。
紅葉の絨毯の上に敷物を広げた。
サンドイッチの具は、リクエストに応じたローストチキン、ポテトサラダ、ハムとチーズ、卵、ツナ、アボカドとボイル海老、キウィのフルーツサンド。
パクパク食べてくれる珪に、弟に手伝ってもらったと白状したが、仲いいな、と言っただけ。
ほっとして、自分も手を延ばしたけれど、あまり食べられなかった。
「珪、上着借りてもいい?」
食べ始めてすぐ、脱いだ上着を、珪は横に丸めてあった。
「寒いのか?」
上着を受け取って羽織る。
「珪は寒くないの?借りておいて言うのも変だけど」
「いや。歩いたし、食べたばかりだし、暑いくらいだ」
「じゃあ、わたしだけかなぁ」
朝起きた時から、ずっと寒くて厚着してきた。
歩いているうちに温まるかと思ったが、変わらない。
「なあ、ちょっと見て回らないか?」
「う・・ん、わたし、もうちょっとここにいる。珪、行ってきて」
羽織った上着の前を合わせ直し、コーヒーのカップを両手で包み、暖を取った。
ぶらぶらと、珪はあまり離れない処で、紅や黄色の葉を眺めている。
陽射しが珪の明るい色の髪を照らすので、透けて、金色に見えた。
お姫さまに見えたと言ってくれた珪の方こそ、本物の王子様みたいだったと思う。
緑のきれいな瞳を見つめて、はねた髪に触れ、珪くんて王子様みたいと言ったら、少し赤くなってそっぽを向いてしまい、中々こっちを見てくれなかったっけ。
そこまで考えて、あれ?っと、今日子は思った。
珪くんと呼んでいたのは、一年目の珪の誕生日から、半年の間だけ。
友達と言えるかどうかも微妙だったあの頃に、そんなことを言える筈もなければ、髪に触れることなど出来よう筈がない。
何の記憶と混同しているんだろう。
ぽけっとしている今日子の前に、いつの間にか戻ってきた珪が片膝をついた。
「まだ、寒いか?」
「少しだけ、寒いかもしれない」
曖昧な返事に、珪は片付けを始めた。
「帰ろう」
「えっ」
「今日のおまえ、少し変だ」
違うとは、言えなかった。
「ずっと、上の空だし、全然、楽しんでない」
掻き合わせた上着の前を、ギュッと掴む。
「・・・ごめんなさい」
「莫迦。責めてるんじゃない」
珪の声は優しかった。
「おまえ、きっと疲れてるんだ。今日はもう、帰ろう」
「で、も、せっかく来たし、まだ、お昼食べただけだし、」
珪は今日子の手を取って、立たせた。
「いいんだ・・・続きはまた、今度にしよう」
敷物を払い、荷物をまとめた。
15時過ぎには、家に帰り着いた。
『疲れてるのに、悪かったな』
珪は最後まで優しかったけれど、残念そうで、その気持ちがわかるだけにつらかった。
部屋に戻って、ベッドに身体を沈めた。
途中で帰る破目になるなら、初めから行かない方が良かったんだろうか。
結局、珪をがっかりさせてしまった。
ウトウトと、尽が夕飯に呼びに来るまでをそのまま眠り、ぼんやりした頭で少し食べた。
お風呂に入って温まると、元気が出てきた。
大丈夫かと、珪が掛けてくれた電話に、もう平気だよと答えた時は本当にそう思った。
早々にベッドに入り、明日、学校でもう一度、珪に謝らなくちゃと眠りに就いた。
胃の辺りが変だと目を開けた時、部屋はまだ暗かった。
時計を見ると4時台で、なんだまだ寝れるじゃないと目を閉じた。
気が付くと、両手で押さえていた胃の辺りの気持ち悪さが、段々、上がってくる。
まずいと感じた。
ガウンに袖を通し、階段を降りる。
素足に、床が冷たい。
ムカムカしたイヤな感じが、急速にせり上がってきて、トイレに駆け込んで吐いた。
洗面所で口をすすぎながら、何かに、あたったのだろうかと考えた。
最初に心配になったのは、お弁当のサンドイッチだったが、尽が張り切り、朝食分も作ったそれを食べた家族はピンピンしていたし、昨夜、電話をくれた珪にも変わった様子はない。
もっとも、サンドイッチにあたるには時間が経ち過ぎていた。
また襲ってきた気持ちの悪さに、間に合わず、洗面台で吐いた。
既に空っぽの胃からは、苦い胃液しか吐くものはない。
どっと冷たい汗が噴き出し、その場にうずくまった。
風邪を引いたのかもしれない。
薬を飲んで、ベッドに戻ろう。
まだ休んでいる両親を起こさないように。
立とうとして、洗面台の淵に手を掛けた時、胃に飛び跳ねるような痛みが走った。
ビクビクと痙攣しているのがわかる。
声も出ず、身動きも出来なかった。
冷たい汗が、背中を伝っていくのが気持ち悪い。
少し痛みがひいてくると、今度は猛烈な吐き気に襲われた。
吐くものなど、もう無いのに。
胃を押さえて、洗面台に突っ伏しながら、今日は学校には行けないと考えていた。
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