浅い眠りから意識を戻し、今日子は起き上がろうとしたが、ダメだった。
身体に力が入らない。
何か口にすると、また吐いてしまうかも知れないという強迫観念にかられて、食欲を完全に失っていた。
机に、電源を切ったままの携帯がある。
『葉月にも、美咲ちゃんにも、良くなったら連絡するって言ってあるからさ』
尽がそう伝えてくれていたとしても、3日も休んで、何の連絡もしないことを、どう思っているだろう。
両親の部屋で寝ている間は、いつが昼で、夜なのか、時間の感覚もなかった。
今朝から自分の部屋に戻ったが、少し話すだけで気持ちが悪くなる。
こんな状態で電話をしても心配を掛けるだけだと、せめてメールをと思うが、何と打てばいいか分からない。
先刻、気持ちが悪くなって階下に降りた時、目の前が暗くなって動けなくなった自分にショックを受けていた。
風邪くらい何度も引いたけれど、こんなにひどいのは初めてで、熱が下がってきても、少しも良くなった気がしない。
明日も学校には行けない。
そう思った。
コンコンとノックの音がし、扉が開く。
父だった。
「起きてたか」
提げてきた紙袋を、ベッドの端に置く。
「夕食にどれを食べるか、選んでもらおうと思ってね」
また、色々、食べられそうなものを探してきてくれたんだと思い、なんとか身体を起こした。
この3日、父は仕事そっちのけで看てくれていた。
「グレープフルーツに、オレンジ、ネーブル、レモンは後で、はちみつを入れてレモネードにしような」
病気になると、父は、小さな子供に対するように接する。
尽はこれがイヤで、絶対、風邪を引くもんかと、頑張っている。
「あんまり、食べたくない」
今朝はポタージュを少しだけ、昼はヨーグルトをちょっと、口にした。
我がままを言うようだが、本当に何も欲しくなかった。
「せっかくの、葉月君からのお見舞いなんだよ?」
思いがけない名前に、父の顔を見る。
「来て、くれたの?」
「今日、学校の帰りにね。・・・とても心配していたよ」
腕に力を込めて、身体をまっすぐに直した。
「オレンジにする」
「わかった。すぐ、用意しよう」
父が部屋を出た後、掛け布団をのけ、力の入りきらない足をカーペットに下ろした。
立ち上がると、まだフラフラしたけれど、構わず机の所へ行き、携帯を手に取った。
珪に心配なんてさせたくない。
それだけを思って、電話を掛けた。
レモネードを作って、父が三度、部屋に来た時、ポタージュとオレンジは何とか食べ終えていた。
怖れていた吐き気は襲っては来ず、そうなると、途端に良くなった気がした。
「葉月君に、お礼は言ってあげたのかい?」
掛けた電話は留守電になっていた。
メッセージは残したけれど、後で、もう一度掛けてみるつもりだった。
「葉月君は、綺麗な緑の瞳をしているね」
ベッドの端に掛けた父が、なぜ急にそんなことを言い出したのか分からなかったが、お祖父さんがドイツ人なのだと答えた。
珪の両親に会ったことがあるのか、とも聞かれ、一度もないと答えた。
仕事で海外にいるという両親の話を珪はしない。
従姉の存在を知ったのも、この春の偶然の出会いからだ。
たった一人で、珪があの大きな家に住むようになったのは、高校の時からだと、洋子が教えてくれた。
「食事とかは?」
「何とかやってるみたい。・・・たぶん」
ゼッタイ、珪はやってない。
醤油注しとミネラルウォーターしかない冷蔵庫を見て以来、疑いは確信に変わっていた。
「じゃあ、今度、夕食にでも招待するか」
好意で、父が言ってくれたのは分かっていた。
けれど。
「ありがとう、お父さん。でも・・・」
「彼は遠慮するかな」
一時の歓待は、珪の慰めにはならないと、理屈ではなく悟っていた。
珪の孤独の深さに今日子が触れるのは、まだ先のことだったけれど。
「珪は、来てくれるとは思う。でも、でもね、帰ったら珪はあの大きな家に一人だから・・・きっと、寂しくなっちゃう・・・」
拙い言葉でも、父は理解してくれたようだった。
枕元の、携帯が鳴った。
出なさいと促して、父がマグカップを受け取ってくれるのも、もどかしく、携帯を開く。
「珪?ごめんね、心配かけて」
いきなり言うと、電話の向こうで沈黙の間が空いた。
『・・・今日子』
名前を呼ばれて、ずっとこの声を聞きたかった自分を思い知った。
「もう大丈夫だから、心配しないで。ほんとにごめんね。心配かけて」
『ごめん・・・ごめんな。俺、気付かなくて』
「珪のせいじゃないよ」
『でも、俺が気付いてれば、おまえに苦しい思いをさせずに済んだんだ』
「ただの風邪だよ?珪、心配し過ぎ。そりゃ、ちょっとはキツかったけど、もう全然平気」
『・・・無理、すんな』
「でも、ほんとに大丈夫なんだもの。明日はまだ無理だけど、明後日か、土曜には学校に行くから。ね?」
『無理しないでくれ・・・頼むから』
ほんとにしょうがない奴だなと、小言の一つも返してくれるかと思ったのに、珪の声は沈んだままで、やっぱり、3日も何の連絡もしなかったことで余計な心配をさせたのだ。
もう大丈夫と、何度繰り返しても珪は信じてくれず、早く休んでくれと言われ電話を切った時、今日子は心底、後悔していた。
グズグズ寝ている場合じゃない。
その後の回復は、早かった。
気持ち悪くさえならなければ、食べても、もう吐いたりしないと分かれば、こっちのものだった。
翌日の夕方には、熱はあっさり、微熱にまで下がった。
おかゆに飽きた、コーヒー飲みたい、という表現で、回復ぶりを珪の留守電にアピールしてみたが、
『無理するな』
沈みきった声で電話が掛かってくる。
もう大丈夫だと、どれだけ訴えても、そんな筈ないと、つらそうに言い切られる。
『まあ、しょうがないわね』
女友達の理解は早くて、
『コーヒー飲みたい?あのね、さっき水飲んでも吐いたとか言ってなかった?喉もと過ぎたら何とかって、知ってる?我慢しなさい』
笑って言ってくれたのだが。
『珪君の方が倒れそうなくらい、心配しまくってるから』
「もう大丈夫って、いっくら言っても、信じてくれないんだもの。どうすればいいの?」
『そんなの、早く元気なとこ見せるしかないじゃない。今日なんて、責任感じてる珪君のこと、姫条君が励ましてたくらいだし』
「珪のせいじゃないって、何度も言ってるのに」
悪いのは無理をした自分であって、珪が責任を感じることなど一つもないのだ。
『明日は、まだ無理なんでしょ?』
「今週一杯、休めって言われてる」
食欲は戻ってきていても、体力の方はまだ、追いついていなかった。
『ここでぶり返しでもしたら、間違いなく珪君が倒れるから、しっかり休んで治しなさい』
「そうする」
次に掛けた有沢にも似たようなことを言われ、アリスには、お見舞いに行くから大丈夫になったらすぐに教えてねと、何度も念を押された。
皆に心配をかけたことを改めて感じて、自分に気合を入れ直した。
病は気からとはよく言ったもので、翌朝、目を覚ました時は、かなり気分がすっきりしていた。
熱は平熱に戻り、久しぶりに空腹を覚えた。
そうなると、もう我慢出来なかった。
「姉ちゃんてさ、ほんっと、馬鹿じゃないの?」
「尽、もう一回、言ってごらんなさい」
「馬鹿だって言ったんだよっ。風呂に入りたいだって?ちゃんと飯食えるようになってから言えよ!」
「お昼にトースト食べれたもんっ。もう我慢出来ないの!頭痒いの!耐えられないの!さっさとお風呂沸かして!でなきゃシャワーだけで出るからねっ」
父が遅れている原稿を上げる為、ホテルに軟禁されたのを見澄ましての暴挙だった。
最後の一言が効いたのか、尽は諦めてお風呂の仕度をしてくれた。
頭から全身洗って、お湯につかって温まって清々したが、新しいパジャマに着替えて、ガウンを羽織ったところで力尽きた。
「今すぐベッドに入れよっ。じゃなきゃ、父さんに通報するからな」
そんな脅しを口にするくせに、シーツも枕カヴァも換えておいてくれたところは可愛げがある。
この生意気な弟が女の子にもてるというのは、このまめさ加減のせいなのだろう。
ガウンを着たままベッドに入ったのは、ちょっと休んだら、すぐ起きるつもりだったからだ。
クッションを背中にあてがって寄りかかり、英語のテキストを開く。
期末テストの前に、一週間も休んでしまうことになる。
頭が働き出すと、急に色々なことが気になり出した。
受験勉強も、このところ、おろそかになっていた。
合格圏まで成績を引き上げてはいたけれど、万が一にも落ちたくない。
珪と同じ大学に行く為に、ずっと頑張ってきたのだ。
美咲と志穂からノートを借りて、期末までの残り一週間で、なんとかなるだろうか。
ページを繰っているうちに、目がトロンとしてきた。
眠くなっている場合じゃないのに。
珪と、ずっと離れたくなくて、今度はちゃんと付いて行きたくて、頑張ってきたのに。
ぼんやりした頭で、今度は?今度は、ってどういうことだろうと不思議に思う。
まるで、一緒に行けなかったことがあるみたい。
珪に、置いていかれたことがあるみたい。
傍に居たいと言ったら、珪はどんな表情をするんだろう。
やっぱり、困るんだろうか。
好きにしろって、言ってくれたら嬉しいのに。
もう5日も会っていない珪の顔を思い浮かべる。
“シンデレラ”の稽古のおかげで、毎日、お休みの日も会っていたから、一緒にいるのが普通みたいになっていた。
会いたいと伝えたら、珪は、来てくれるだろうか。
『珪』
会いたくて、心で名前を呼ぶ。
傍に来てくれたような、見守ってくれているような感覚に包まれて、幸せなのに、どうしてか重かった筈の瞼が開いてしまう。
もう少し、このあたたかさに浸っていたいという願いが叶ったのか、目を開けても、珪は消えたりしなかった。
触れたら、今度こそ消えてしまう。
そうわかっていても、手を延ばしていた。
珪を想うと、コントロールが効かなくなる自分を本当にしょうがないと思いながら、その腕に触れる。
「珪・・・」
制服の、布地の感触と、人の身体の体積を指先に感じた。
「えっ?本物 !?」
幻ではないその人は、始め、無言だった。
「え?な、なんで?!」
なんで珪がここにいるの?夢じゃないよねと、何度も腕に触れて、その存在を確かめる。
「・・・おまえ、ほんとに、もう元気なんだな」
「うん。そうだよ」
(だから何度もそう言ったじゃない)
心の中で付け加えた言葉は、口に出さないで正解なようだった。
なんだか珪はぐったりして、疲れた様子だった。
どれだけ心配を掛けたかが見てとれて、ほら、大丈夫でしょ?安心して、と言おうとして、重大なコトに気が付いた。
「それより、なんで、珪がわたしの部屋に」
「おまえの弟が入れてくれた」
(尽―っ)
可愛げがあるなど、前言撤回。
姉が寝ている部屋に、黙って珪を入れるなんて、絶対、絶対、許さない!
と、ここで。
(寝てる、部屋?)
サーッと、血の気が引いた。
「いつから、いたの?」
確かめるのはコワかったが、聞かずにいるのは、もっとコワイ。
「十分くらい」
と、いうことは。
「もしかして、寝てるとこ、見てた、よね?」
「よだれたらしてた」
「えっ!」
「ウソ」
パタンと、後ろのクッションの上に倒れた。
珪は時々、とてもイジワルな冗談を言う。
「顔、赤いぞ。風呂入って、また熱が出たんじゃないのか?」
「なんで、そんなコトまで知ってるのよ」
ほんとに恥ずかしくて、熱が出そうだった。
ひんやりとした手が、額にそっと置かれた。
「俺、手、冷たいから。気持ちいいだろ?こうすると」
「・・・うん」
でも、それは珪の手の感触だったから、何より安らぎを覚えた。
「珪」
「なんだ?」
「ありがとう。お見舞いに来てくれて。それから、果物も。美味しかった」
「ああ。早く、元気になれ」
「うん」
このまま、ずっと、珪の手を感じていたかった。
「じゃあ、俺、行く」
「えっ?」
だから、行って欲しくなかった。
「もう帰っちゃうの?」
傍に居て欲しかった。
「・・・なんだよ」
見上げた珪の表情は、やっぱり困っていた。
「やけに、しおらしいな」
「だって・・・」
会いたいと、願って会えたことが、今日子の心を弱くしていた。
「撮影、抜けてきたんだ。もう、戻らないと」
あやすような口ぶりで珪は言った。
「金曜なのに?2日続けてお仕事?」
「ああ」
文化祭の為の調整の余波は、まだ続いているのだ。
「そっか、大変だね」
子供みたいな我がままを言ってはいけない。
自分にそう言い聞かせた時、
「明日、」
「え?」
「明日も来てよければ・・・お見舞い、来るけど」
「ほんと?」
珪の示してくれる優しさが嬉しくて、今日子はつい、甘えてしまった。
「そしたらね、珪。勉強、教えて」
一応、真面目な顔を作って言ったのだが、珪はちょっと待て、という表情になった。
再来週からの期末テスト、どうしようと訴えると、
「じゃあ、俺行くから」
背を向けられてしまった。
「珪!」
甘えすぎてしまったかという後悔と、そんなにきっぱり見捨てなくてもいいじゃないという不満で名前を呼ぶと、珪は背中を向けたまま手を振った。
「今日はしっかり寝とけ。明日、テスト勉強、付き合ってやるから」
部屋を出る前に一度、振り返ってくれた珪は、あの優しい瞳をしていた。
「ありがとう、珪。お仕事、頑張ってね」
「わかった」
珪が帰ってしまってからも、うれしくて、どうしても顔が笑ってしまう。
明日も会える。
珪に会える。
うれしいから、尽を吊し上げるのは止めて、軽く叱りとばすだけに止める事にした。
明日はちゃんと、服に着替えて、それからムーンストーンのペンダントを付けて、珪を迎えよう。
来てくれてうれしいと、言葉で伝えよう。
去年の誕生日に貰った抱き枕を、今日子はギュッと抱きしめた。
- Fin -
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