□■わびさび亭■□GS

登場人物

高校1年生

高校2年生

高校3年生

卒業後

番外編

高校3年

シンデレラ ―開演―


幕が上がった。
一幕目は、王子の私室から始まる。
舞台、向かって右手に、書斎を表わす本棚の背景と、机と椅子の一角。
中央には、長椅子が客席に向かって置かれていて、そこに王子が行儀悪く、仰向けに寝そべっていた。
顔の上に広げたままの本を伏せ、ブーツを履いた長い足を見せ付けるように組み、長椅子の肘の上に乗せている。
ノックの音が響き、承諾もなしに舞台左手の扉が開いた。
『失礼します。殿下』
丈の長い上着の礼服を、きちんと着付けた、王子の腹心役である姫条が現れた。
まずここで、
“姫条くーん”
“姫条先輩!”
“まどかー!”
“にいやん”
まんべんないファン層を誇る歓声が上がった。
王子の寝そべる長椅子の足元まで歩みを進めると、
『殿下、お時間です』
いつもより低い、固い標準語での言い回しに、姫条のファンならずとも、女性の観客はドキリとした。
『お仕度をなさって下さい』
王子の反応はなかった。
『殿下』
やはり無反応である。
コホンと一つ咳払いをすると、
『起きろっ!アルシスっ!』
不意打ちの大音量に観客は飛び上がったが、王子はピクリとも動かない。
『いい加減、諦めろ。舞踏会は今夜なんだぞ』
いつものトーンで叱りつける声に、ようやく胸の上で組んでいた手が解かれ、均整のとれた美しいそれが気だるく持ち上げられた。
顔の上に伏せた本がずらされた、と思うと、姫条に向けて鋭く投げつける。
『うるさいぞ。ランカート』
ひどく不機嫌な最初の台詞が発せられた。
『お行儀が悪いですよ。殿下』
難なく本を受け止めていたランカートの声は、また低く、固い声に戻っている。
『姫君方の前でそのような振る舞いをなされては、妃の成り手が無くなります』
ゆっくりと物憂げに身体を起こし、足を床に下ろした葉月、アルシス王子は、客席に向かって不機嫌な、その秀麗な(おもて)をあらわにした。
『好都合だ』
予想された歓声は上がらなかった。
アルシスの(まと)う気に、観客は呑まれてしまっていた。
『今宵の舞踏会の持つ意味が、まだ、お分かりではないようですね』
長椅子の後ろを廻り、本棚の前の机へと歩きながら続ける。
『王のご病状が思わしくない以上、殿下のご即位は急務』
『城内の統制を取る為にも、妃を迎えるは国務と心得よ、だろ?』
言葉の続きを引き取って言う。
『わかっていらっしゃるなら、お仕度を。女官たちが、殿下が起きて下さらないと、泣きついて参りました』
『出たくない』
長椅子の背にもたれ、額に右手をやったアルシスの聞き分けのない態度に、ランカートはクシャっと前髪をかき上げた。
『あのなぁ』
声のトーンを上げ、急に砕けた言い回しになる。
臣下と、友人との態度の違いを、姫条は声音も変えることで表現していた。
『気持ちはわかる。だが、王位を継ぐ者として生まれた以上、自分で人生を選ぶことは出来ない。わかってたことだろう?』
『わかっている』
王子は身体を起こした。
『だから、すべてを諦めてきた』
カラの右手を見つめながら言う。
『自分から何かを求めたことなど、一度もない。望まれるまま、王の子として生きてきた』
独白のようなその声は、けれど、講堂の隅々にまで届いていた。
『おまえはよくやっている。仕えるに値する王だ』
王子は、ほぉと、身体を捻って、その(おもて)をランカートの方に向けた。
『誉め言葉とは珍しい。もっとも、そうであらねば、すぐに見限ると言ったおまえがそこに在ること自体、賛辞なのだろうがな』
『子供の軽口をいつまでも覚えているとは、しつこい奴だな』
このやりとりで、二人が子供の頃からの友人であり、ランカートは王子の腹心であることを観客は理解した。
『国内の有力貴族の娘、招待に応じた諸外国の姫、その中から最も美しく、賢く、妃としてふさわしい者を選ぶ』
王子は立ち上がり、そのすらりとした長身の体躯を明らかにした。
『それだけが、私に残された、ただ一つの自由、か』
他人事のように冷めた口調で続ける。
『仕度をする。女官たちを呼んでくれ』
『御意』
礼を取って、ランカートが部屋を出て行く。
残されたアルシスは、無表情のまま独りごちた。
『愛する者を、妻として迎えたかった。・・・やはり、叶わぬか』
音もなく身を翻し、舞台の右手に向かって歩いて行く。
袖に入る間際、アルシスの手が幕をつかんで翻すように引き、その勢いのまま幕は引かれ、一幕目が閉じた。
場面転換の為の幕間をつなぐ、守村のナレーションが物語の設定を語る。
「えっ、これ守村の声?」
普段の守村を知る級友たちが一様に驚き、そこにいる筈もないのに天井を見上げる。
いつもの優しい、可愛らしいとさえ言ってしまえるような声ではなく、低い、感情を抑えた淡々とした語り口が、緊張感を保ったまま、二幕目へと繋いだ。
場面は台所へと変わっていた。
舞台中央の奥に、薪をくべた暖炉のセット。
その前、左寄りに木製の長テーブルが置かれ、大きなカボチャが一つと、えんどう豆が盛られた浅い籠が乗っている。
舞台左手の階段の脇には、野菜籠が置かれ、ジャガイモやニンジンが積み上げられていた。
と、舞台右手の扉が客席に向かって開かれ、灰色の服の上に、ピンと糊のきいた大きくて真っ白なエプロンをつけた今日子、シンデレラが姿を現した。
その扉は外に向かって通じているらしく、左腕に赤い林檎の籠を通したシンデレラは、段を三つ、トントントンと降りると、その籠をすぐ脇の木樽の上に置いた。
頭に巻いていたスカーフを外し、栗色のきっちりと結いまとめた髪の乱れを直す。
今度は、舞台左手に据えられた、階段の上の扉が開いた。
客席からは、開いた扉が邪魔をして、誰が現れたのか、まだ見ることが出来ない。
『姉さま』
声と共に、華やかな黄色のドレスをまとい、着飾った娘、日向琴が姿を見せたかと思うと、五段ある階段を、ドレスを物ともせず駆け下りた。
『姉さま、見て!』
そのままシンデレラの前に駆けていくと、ドレスの裾をとって、クルっと回ってみせた。
『今夜の舞踏会に着ていくドレスよ。わたし、きれいに見えるかしら?』
『ええ。とってもきれいよ、ユリア』
この物語では、シンデレラが姉で、ユリアは腹違いの妹になる。
父親は五年前、国中に流行した病で亡くなり、現在の当主はシンデレラにとっては継母となる伯爵夫人だと、守村のナレーションで語られていた。
『わたし、お城の舞踏会って初めて!ちゃんと上手に踊れるかしら』
『大丈夫よ。沢山、お稽古をして、上手になったでしょう?』
義姉にまとわりつく義妹の様子で、二人は仲の良い姉妹であることがわかる。
意地悪な女姉妹の設定を、有沢は排していた。
『姉さまが教えて下さったからよ。まだ、姉さまみたいに、羽根のように軽く踊ることは出来ないけれど』
教わった様子を示すように、ふわっと舞ってみせる。
『今だって、花のように踊れてよ。楽しんでいらっしゃい。ユリア』
『ええ!』
嬉しそうに答えてから、ユリアは急に表情を曇らせた。
『姉さま、ごめんなさい』
『まぁ、どうしたの?急に』
長テーブルの木椅子を引いて、客席に身体の正面を向けて座ると、えんどう豆の籠を手許に引き寄せた。
『お母様が、姉さまから何もかも取り上げてしまったのは、わたしのせいだって、ちゃんと知っているわ。でもね、わたしが当主になったら、必ず姉さまを助けてあげる。だから、待っていてね』
傍らに立って、一生懸命訴える義妹を、シンデレラは優しく見上げた。
『ありがとう、ユリア。でも、わたしのことはもう、いいのよ』
『よくないわ!本当なら姉さまこそが、この家の跡を継がれる方なのよ!』
この時、ユリアが入ってきた扉が音を立てて開いた。
『こんなところで何をしているのです。ユリア』
厳しい声が響く。
『お母様・・・』
客席からはまだ、その姿は見えない。
『ドレスが汚れたらどうするのです。こちらへいらっしゃい』
『でも・・・』
気遣うように姉を見ると、シンデレラは早く行くようにと、小さく頷いてみせた。
現れた時の元気を失って、ユリアは重い足どりで階段を上り、扉の影に消えた。
『シンデレラ』
冷ややかな呼びかけに、はい、と答えて椅子を立つ。
伯爵夫人が足を踏み出し、扉を後ろ手に閉めたので、やっと、観客もその姿を見ることが出来た。
ワインレッドのドレスを纏った夫人は、美しいが威厳に満ち、また威圧的だった。
『わたくしたちは、今夜、城へ参ります』
階段を一歩も降りようとはせず、その高い位置から、留守の間にシンデレラがやっておくべき仕事を矢継ぎ早に言いつける。
『いいですね』
『かしこまりました』
表情一つ変えず、継母は退場した。
「あれ、綾瀬だよな」
「マジ、怖えぇ」
「美咲、抑えないとダメだよー」
意地悪な姉妹の分まで悪役を引き継いだ継母の登場シーンは、全体的に初期設定よりもかなり削られていた。有沢曰く、主役とテーマが変わってしまう、という理由からである。
えんどう豆を、さやから取り分けるシンデレラの手が止まる。
舞台右手の、外へ通じる扉が叩かれたからだ。
立って行って扉を開けると、行商人の格好をした鈴鹿が登場した。
『よぉ、』
片手を上げて、親しげに笑いかける。
『ダーク』
『この前は、世話になったな』
シンデレラの勧めるまま入ってくると荷物を木樽の脇に置いて、遠慮も無くテーブルの処へ行き、客席に左半身を見せ、ドッカと椅子に腰を下ろした。
『けがの具合はどう?』
『あんたのくれた薬草が効いて、すっかり良くなったぜ。ありがとな』
けがを負っていたらしい左腕を、ぶんぶんと回してみせる。
『そう、よかったわ』
暖炉に掛かっているポットを取ると、カップに注ぎ、ダークの前に置いた。
『でも、よくここまで入って来れたわね。お母様は他人がこの屋敷に足を踏み入れるのを、ひどくお嫌いになるから、門番に止められたでしょうに』
『俺を止められる奴なんざ、この世にはいねぇよ。この屋敷の連中は、あのおっかねぇ女主人を怖れて、あんたには冷てぇみたいだな』
それには答えず、シンデレラは身を翻し、一端、舞台左手に消えると、すぐに布巾の掛けられた籠を持って戻ってきた。
『ダーク、お腹すいてない?今日焼いたばかりのパンはいかが?』
『おっ、ありがてぇ。また、世話になっちまうな。と、そうだ、肝心の用件を忘れるところだったぜ』
ガタっと椅子を引いて立ち上がる。
『今日はあんたの望みを一つ、叶えてやろうと思ってきたんだ。薬草と、このパンの礼に何でも望みを叶えてやるぜ』
胸に右手を当て、威勢よく言う。
『そうねぇ。じゃあ、薪割りをお願いしてもいい?』
『そりゃ、ただのお手伝いだろうがっ』
客席から笑いが起こった。
『もっとこう、あんだろ?普通じゃ叶えられねぇような奴がよ』
『普通じゃ叶えられない?』
本気にしていないのか、クスクスと笑いながら椅子を引いて座る。
『だったら、わたしも、お城の舞踏会に行ってみたい』
『舞踏会?』
拍子抜けしたように訊き返す。
『あんな肩肘張って疲れるところに行くのが、望みなのか?』
理解出来んという風情で、また椅子に座ると、シンデレラの手渡してくれたパンを受け取る。
『お父様が元気でいらした頃、ダンスを教えて頂いたの。お城の舞踏会で王子様と踊るのだよって』
『へぇー』
『ずっと憧れていたのだけど・・・駄目ね。夢で終わってしまったわ』
寂しそうに微笑む。
『過去形にすんなって』
行儀悪く、パンを振ってみせる。
『それくらいの望みなら、叶えてやれねぇこともないぜ』
ニヤっと、自信ありげに笑う。
『何を隠そう、俺様は魔法使いなんだ』
しんと、黙っているシンデレラ。
『ダーク、摘み立ての林檎も食べる?』
『あーっ、信じてねぇな!』
ドッと、笑いが起こった。
『だって、急にそんな突拍子も無いこと言われても』
『まあ、それもそうだな。じゃあ、』
籠とパンを押しのけ、テーブルの上を空ける。
『これで、どうだ!』
右手を高々と掲げると、その手にあるものをテーブルに置いた。
キラキラとガラス細工のように輝く美しい靴だった。
『ダーク、これ、どこから出したの?』
驚いてテーブルの下を覗き、床を見回すシンデレラを面白そうに眺める。
『だから、魔法で出したに決まってんだろ。お次はドレスか。女の服はよくわからないから、あんたも協力しろよ』
『ええっ?!』
『あとは、馬車に、御者に、馬、おっ』
立って行って、大きなカボチャを取り上げる。
『こいつは、いいものがあるぜ』
バスケットボールのように、クルっとカボチャを回す。
『あんたを最高の姫に仕立てて、舞踏会に行かせてやるぜ』
幕が降り、再び守村の語りが流れる。
「早く!急いで!」
シンデレラの衣装を舞踏会のドレスへと、総出で早替わりを手伝う。
台所のセットが取り払われ、黒い幕がかかり、薔薇の生垣を描いたパネルが奥に4枚、その前に3枚、互い違いに並べられる。
ナレーションが終わり、幕が上がっても、舞台の照明は薄暗く落とされたまま。
『いいか。夜中の十二時が刻限だ』
ダークの声だけが、舞台に響く。
『時を告げる十二の鐘が鳴り終わった時、魔法は解け、あんたは元の姿に戻る。その前に、この庭に戻ってくるんだ。忘れるなよ』
遠くで華やかな音楽が鳴っていて、ここがもう、城の中の庭園であることを観客に知らせる。
舞台左の下手から、薄衣(うすぎぬ)を頭から被りなびかせた人影が現れた。
辺りを窺うように見回し、恐る恐る足を進めては立ち止まる。
やっと、舞台の中央までくると、小さく身震いした。
『まだ、信じられないわ。ここまで来てしまったけれど、なんだか怖い・・・』
薄衣を胸の前でかき合わせる。
『誰かに見咎められたら、なんて答えればいいの?』
『問われて困る、やましいことでもあるのか』
声に驚いて逃げ出そうとするシンデレラの腕を、生垣の後ろから回り出た男が捕らえ、後ろ手にねじり上げた。
『痛いっ』
悲痛な声が上がり、薄衣が地面に滑り落ちる。
『女、何者だ』
厳しい誰何(すいか)の声に、シンデレラは顔を背ける。
『何者と訊いている。答えよ』
すっかり怯えてしまったシンデレラは、答えることが出来ないでいる。
『こんなところで何をしている』
『わ、わたくしは』
震える声で、やっと応じた。
『舞踏会に参っただけです』
『では、なぜ広間ではなく、庭にいる』
『それは・・・迷ったのです』
『従者は』
『・・・はぐれました』
『下手な嘘だな』
『・・・お願いです。どうか、お離し下さい』
『逃げぬと誓うなら、離そう』
『逃げません』
男が手を離すと、シンデレラは崩れるようにその場に膝と手をついた。
「ここまでは、いいわね」
「問題は、この次よ」
舞台右側、上手の袖で、継母の衣装の綾瀬と、台本を両手で握りしめる有沢が、固唾を呑んで見守っていた。
『なるほど。この程度で腰を抜かすようでは、曲者ではないな』
その言葉に、キッとして、シンデレラは男を振り仰いだ。
『わたくしは、そのような者ではありません』
ここで雲が切れ、月が現れたかのように、照明がシンデレラを照らした。
艶やかな栗色の髪を高く結い、くるくると巻き下ろして、小さな白い花を星のように幾つも飾っている。
重なるシフォンの(きぬ)は、下襲(したがさね)はバラ色で、上になるほど淡く白くなる。
全体に白銀を散りばめたようなドレスの文様が、月の光を受けて眩しく輝いていた。
照明が少しずつ光を増し、男の、アルシス王子の姿も月光の(もと)に明かされる。
金糸の豪奢な刺繍が施された上着を纏う麗しい王子の姿に、さざ波のようなため息が客席に広がった。
アルシスはただ、シンデレラを見つめていた。
「やった!」
「大成功!」
綾瀬と有沢が声をひそめ、音を立てないように手を打ち合わせる。
舞台では、よほど恐ろしかったのか、シンデレラは涙を拭う素振りをし、立ち上がろうとしていた。
差し伸べたアルシスの手を、パンッと払った。
『一人で立てます』
気位の高さを表わす、凛とした声が響く。
作法どおり、優雅に腰をかがめ礼を取ると、シュッと衣擦れの音を立てドレスを翻した。
『待て』
思わず、アルシスがシンデレラの右手を掴むと、怯えた声が上がった。
『あ、ああ、すまない』
気付いて、手を離す。
シンデレラは掴まれた右手を庇うように胸の前に持っていき、左手を重ねた。
『まだ、わたくしをお疑いなのですか』
『そうではない』
リハーサルの時よりも、アルシスの否定する声の響きが強い。
『もう、そなたを怪しんでなどいない』
答えないシンデレラの態度に、アルシスの方が傷付いた様子だった。
「なんや、葉月の奴。急に繊細な芝居しよる」
シッと、綾瀬が唇の前で指を立てた。
『嫌な思いをさせて済まなかった。・・・まだ、右腕は痛むだろうか』
シンデレラが首を振ったので、アルシスはほっとした様子で言った。
『本当に、すまなかった』
地面に落ちている薄衣を拾い、シンデレラの手に返す。
『そなた、名は?』
ビクッ、とシンデレラは身体を震わせ、顔を背けた。
『私には言いたくない、か。・・・無理もない。怖がらせてしまったからな』
シンデレラの前に右の手を差し出す。
『そなたの嫌がることは、もう訊かぬと約束する。許してくれるなら、この手を取ってくれぬか』
迷うように、シンデレラはアルシスを見つめる。
少しの間の後、右手をアルシスに委ねた。
「最終リハの時より、全然いい」
食い入るように舞台を見る有沢に、
「今日子だってそうよ。珪君につられて、すごく良くなってる」
舞台では、中央より少し下がった位置に置かれた石櫃(せきひつ)に、アルシスとシンデレラが並んで腰を下ろしていた。
『城内とはいえ、姫君が一人、庭に下りるものではない。迷ったというなら、私が広間までご案内しよう』
『いいえ』
薄衣(うすぎぬ)を胸に抱いて、俯く。
『わたくしはもう少し、ここにおります。どうぞ、あなただけお戻り下さい』
『そなたを一人、残しては行けぬ』
『どうぞ、お戻り下さい』
重ねてシンデレラは言う。
『置いては行けぬと言ったろう。そなたは意外に頑固だな』
『あなたこそ』
二人は顔を見合わせると、クスっと微笑(わら)い合った。
『ああ、やっと微笑ってくれたな』
アルシスの言葉に、シンデレラは恥らうように顔を逸らした。
『抜け出して来てよかった。そなたを、この庭で迷わせたままにせず済んだ』
『なぜ、抜け出されたのですか?』
『どうにも馬鹿らしくてな。嘘をつくのは嫌なものだ。特に、自分を偽ることは最もな』
『偽るべき理由(わけ)が、おありなのでしょう?』
まっすぐなシンデレラの瞳に会って、今度はアルシスが目を逸らし、立ち上がった。
理由(わけ)はある。今までは、自分を騙しきることが出来た。だが、今度ばかりはうまくゆかぬ』
目を伏せて続ける。
『私は、諦めが悪いようだ』
『それは・・・あなたにとって、偽りたくない望みだからなのでしょう?』
『そうだな』
『その望みは、どうしても叶えられないのですか?』
アルシスはシンデレラを見返り、その瞳を見つめた。
『そう、思っていた』
『では、叶うかもしれないのですね』
嬉しそうに言うシンデレラから、アルシスは目を離さない。
可笑(おか)しな姫だ。なぜ、そなたが喜ぶ』
『先程のあなたが、とてもお苦しそうでしたから』
『今は?』
『お顔が少し、優しくなりました』
シンデレラの言葉どおり、アルシスは優しく微笑(わら)った。
「おいおい、あんな顔、練習の時、いっぺんだって見せたか?」
鈴鹿までが舞台袖に来て、見入っていた。
『そなたはなぜ、城へ?王子の妃となりたい為か』
『いいえ!』
『・・・そこまで強く、否定せずともよい』
傷ついた様子に、客席から忍び笑いがもれた。
アルシスは気を取り直して、会話を続けた。
『そなた、今宵の舞踏会は王子の妃選びと知って、招待に応じたのではないのか?』
『わたくしは、違います。そのようなこと、考えてはおりません』
『では、なぜここへ?』
『お城の舞踏会で踊ることに、ずっと憧れていたのです』
立ち上がって薄衣を相手に見立て、ひらひらと、一指し二指し、舞ってみせる。
幼子(おさなご)のようなことを言うと、お笑いになりますでしょう?』
恥ずかしそうに言い、手を下した。
『笑いなどしない』
シンデレラの前に、スッと手を差し伸べた。
『姫、お相手を』
『あの・・・』
戸惑うシンデレラに、その体勢のまま、アルシスは続けた。
『こう見えても、ダンスは得意だ。一曲、お相手を。姫』
シンデレラは嬉しそうに微笑むと、その手をアルシスの手に重ねた。
広間から流れてくる音楽がワルツへと変わり、舞台の中央へと歩みを進めた二人を、月明かりが増したように照明が照らす。
舞台を大きく使って、二人はワルツを踊り始めた。
『そなたは、羽根のように軽く踊るのだな』
『踊ることは好きなのです。それだけが、わたくしに残された唯一の自由でしたから』
一番、難しいシーンだった。
このシーンの為に工藤が振付けたダンスは、台詞を言う時はゆっくりとスローモーションのようにテンポを落とし、合間はテンポを上げて踊る。
『どうやら、そなたも不自由な身の上らしい』
『あなたも、と仰るのですか?』
緩急をつけ、型の一つ一つを美しく見せるそのダンスは、見た目には夢のように綺麗だが、演じている方は大変だった。
『何も望まないこと。それが、ワルツのようになめらかに事を運ぶ』
一際、大きく舞ったシンデレラのドレスが、ふわりと花のように広がる。
『・・・お幸せでは、ないのですね』
『そなたは、はっきりと物を言う』
『申し訳ありません』
俯くシンデレラの身体を、アルシスは心なしか引き寄せたように見えた。
『よい。そなたの言葉には偽りがない。その笑顔も、私には陽の光のように眩しく思える』
「台詞が違う・・・」
有沢が呟いたように、台本に、笑顔、などという台詞は無かった。
舞台では、からかわないで下さいと、シンデレラがアルシスの手を離し、ワルツを()めていた。
『からかってなど、いない』
アルシスが、背を向けているシンデレラの肩に両手を置いて引き寄せた。
「ちょっ、何、勝手なコトやってんだ、葉月」
台本とは違うアルシスの動きに、鈴鹿が慌てた。
『私の望み、そなたなら叶えられると言ったら、どうする?』
シンデレラが前へ出てアルシスから離れ、台本どおりに修正した。
『わたくしなどに、何が出来ましょう』
『そなたしか、おらぬ』
『わたくしに出来ますことなれば、お力になります』
『よいのか。そのようなことを言って。そなたは、私が何者であるかも知らぬというのに』
『・・・お優しい、方です』
『私が?』
『わたくしを一人、置いてはゆけぬと、一緒にいて下さいました』
『そればかりのこと』
『いいえ』
強く言って、シンデレラは振り返ったが、さっき引き寄せられていた為、その位置はまだ少し、近かった。
『わたくしの望みを、笑わずに聞いて下さいました。手を取って、踊って下さいました』
アルシスの手が、シンデレラの頬に添えられた。
「また、ちがーうっ」
「黙って!」
焦る鈴鹿を、台本どおりに演じないと怒る有沢が強く制した。
『わたくしは、もうずっと一人でした。妹だけがわたくしの身を案じてくれますが、そのことが返って、わたくしの身を危うくする。怖ろしくて・・・そして、寂しかった』
『姫・・・』
「姫条君、お願い」
綾瀬の指示に、
『殿下っ』
姫条は大きく、舞台に向かって呼びかけた。
『殿下!どちらに、おいでです』
『・・・ここにいる』
我に返ったようにアルシスは答え、シンデレラの頬に添えたままの手を降ろした。
呼びかけに、目の前の男が応えたことに、シンデレラはひどく驚いた様子だった。
姫条が舞台に出て行く。
『殿下、お戻りを』
『わかっている』
何か言おうとするシンデレラを抱くようにして、有無を言わさず、歩き出す。
姫条はもう、袖に下がっていた。
『お待ち下さい』
『頼む。もう一度、私と踊って欲しい』
二人が袖に消えると、舞台上にあった七枚のバラの生垣のパネルが、その陰に隠れていた裏方によって左右に一枚、
また一枚と下げられていき、代わりに七組の、舞踏会の衣装を纏い、ダンスの型を組んだ人影が次々と顕わになった。
夜の闇を開くように後ろの黒幕が払われ、白い円柱が左右に二本、背景の白無地のスクリーンに、高貴なブルーのライト
が当てられる。
眩しいほどの照明の中、音楽が高まると、そこはもう、広間の舞踏会だった。
見事な舞台転換に拍手が起こる中、七組のカップルがワルツを披露する。
一曲、区切りがついたところで、舞台、左手奥から、シンデレラを伴ったアルシス王子が現れた。
円柱の間を通り、客席正面に向かって進む王子に、さっと中央の場が空けられ、七組のカップルは左右に分かれた。
そして王子に対し、一斉に深く、礼を取る。
これに応えた後、王子が手を一振りすると、音楽が流れ、ダンスの型が組まれたが、時を止めたようにそのままで踊り出そうとはしない。
照明が王子とシンデレラのみを照らし、落とされた。
再び、二人のワルツが始まった。
『美しい姫よ、あなたはどこの国からいらしたのですか』
『それは・・・とても、とても遠い国からです』
『あなたの名を知りたい』
『どうか、お許し下さい。アルシス殿下とは存じませず、ご無礼を』
庭園でのワルツの時とは違い、シンデレラはひどく悲しげだった。
『初めて、私の名を呼んでくれたな。だが、敬称など付けずともよい』
『そのようなこと』
答えては離れようとするシンデレラを、アルシスが引き寄せては踊る。
『私の望みを、叶えてくれるのではなかったのか』
『殿下のお望みに応える力など、わたくしのような者にはありません』
『私はただ、このままいつまでも、あなたと踊り続けていたいのだ。ずっと・・・俺の傍から離れないでいて欲しい』
(え?)
耳を疑ったのは、シンデレラだけではなかった。
『あなたを、妃として迎えたいのです』
『いいえ、いいえ!』
『なぜ?理由(わけ)を訊かせて欲しい』
情熱が感じられないどころではなかった。
「鈴鹿君っ、早く!」
綾瀬がひどく焦って、振り返った。
『何やってる!鐘が鳴るぞっ』
ダークの声が虚空に響き、シンデレラは、ハッとして、強い仕草で王子の腕を振りほどいた。
『十二時の鐘が鳴ってしまう・・・ごめんなさい、もう、行かなければ。さようなら!アルシス様!』
身を翻し、シンデレラが駆け出す。
『ダメだ !! 行くな !!』
一つ目の鐘が鳴ると同時に、全部の照明が点く。
シンデレラは足を止め、振り返ってしまっていた。
二つ目の鐘が鳴った。
『俺は、もうイヤだ。俺は・・・』
三つ目の鐘が鳴った時、やっと葉月は我に返った。
が、その後がまずかった。
『・・・間違えた』
四つ目の鐘は、爆笑にかき消された。
『あ、の・・・アルシス様、さようなら !! 』
五つ目の鐘の音と共に、シンデレラは舞台袖に駆け込んだ。
照明が点くと同時に踊り出す筈だった七組のカップルは、タイミングを掴めぬまま石像と化していて、音楽だけが流れる中、急いで幕が降ろされた。
姫の後を追った王子が、残された片方だけの靴を見つけたこと、その靴を手掛かりに行方が探されたという守村の語りが、ざわつく場内に流れる。
「どうしたんや、葉月」
舞台袖に戻ってきた葉月に、姫条が声を掛ける。
「悪い。間違えた」
「それは、わかったけどよ。おまえ・・・」
本当に、愛する者を見失ったかのような葉月の表情に、浴びせる筈だった鈴鹿の罵倒は、しりすぼみになってしまう。
「とにかく、早く上着脱いで。姫条君も、早く下手にスタンバイして」
次の場面は、アルシスの私室から始まる。
上着を綾瀬に渡すと、葉月は舞台に戻った。
再び、幕が上がる。
始まりの場面と同じ、王子の私室で、アルシスは机に付き、広げた書籍に目を通している。
そのひどく厳しい表情に、まだ場内に残っていた、先程の失敗を笑う空気が一掃された。
机の端には、うず高く書籍が積まれている。
ノックの音が響き、アルシスは入室を許した。
『殿下』
ランカートだった。
『見つからなかったか』
声音だけで、報告を察する。
『申し訳ございません』
『よい』
書類から目を上げぬまま言う。
『靴ひとつの手掛かりではな』
扉の前から三歩進んだランカートは、報告を続けた。
『あの夜、殿下のご命令どおり、すぐに城下の外へ通じる門を閉ざし、早馬を飛ばして国境を封鎖致しました。お探しの姫はまだ、城下に留まっているに相違ありません』
『見事に隠れてしまったな。ダンスだけでなく、かくれんぼも上手な姫とみえる』
『殿下』
『怪しんでいるのだろう。ランカート』
ここで初めて、アルシスは(おもて)を腹心へと向けた。
『姿を隠す姫など素性が知れぬ。何か、後ろ暗いことがあるのではないかと』
『仰せのとおりです。確かに、美しい姫ではありましたが』
『私は、美しさだけに惹かれた訳ではない』
アルシスは、こちらへ来るよう、ランカートを促した。
『見てみろ』
手許の書籍を、開いたまま渡す。
『戸籍の記録ですね』
『城下に屋敷を持つ家の記録をすべて調べた』
『それは、私共も調査済みです』
『そう、あの姫の特徴をもとに、生きている者をな』
どういう意味ですと、ランカートが問い掛ける。
『姫の語った言葉を、私はよく考えてみた』
机の上で肘をつき、両手を組み合わせる。
『ずっと、一人だった。
身を案じるのは、妹だけ。
しかし、それが姫の身を危うくする』
前を見据えながら、一言ひとこと、確かめるように言挙げする。
『どこかに閉じ込められていると?』
ランカートの理解は早かった。

『しかし、そのような者がどうやってドレスをまとい、城まで来れたと仰るのです』
『わからぬ』
突然、アルシスは立ち上がった。
『だが、この三つの事柄を加え、記録を調べた時、当てはまるのは、たった一人だった』
スタスタと舞台袖へと入って行く。
『リュテシア・ルクレーヌ。五年前、あの流行病(はやりやまい)で父親と共に死亡。当主は後添えの夫人で、義妹が一人』
ランカートが開かれているページの記録を読み上げる。
『母上も命を落とされ、国中が混乱していたあの時なら、偽りの届けを出し、姫を隠すことも可能だったろう』
再び戻ってきた時、アルシスは深い紺のマントを手にしていた。
『自分の娘に伯爵家を継がせる為にやったと?』
『おそらくはな』
ランカートは記録を机に置き、(あるじ)の方に向き直った。
『迎えにいらっしゃるのですか?』
ランカートの強い眼差しを受け止めながら、アルシスはひらりとマントを肩に掛けた。
『あの夜、集まった者の中から、最も美しく、賢く、妃としてふさわしい姫を選ぶこと。それが、私に残された、ただ一つの自由だったな』
『すんなりとは、事は運びませぬよ』
アルシスが不敵な笑みをもって返し、扉へと向かって行くのを観客は見た。
『私に、出来ぬと思うか?』
扉に手を掛け、アルシスは腹心に問い掛けた。
ランカートは、臣下の礼を取って答えた。
『私も、お供致します』
幕が引かれた。
アルシス王子が妃にと望む姫を探していること、その姫は、何者かにさらわれてしまったらしいという噂が、城下を騒がしていることを、守村が語る。
また、シンデレラが、あの舞踏会からひどく元気を失い、塞ぎ込んでいること、夜、一人で泣いていることを語った。
そして最後の幕が上がると、語られたとおり、暖炉の前で椅子に掛けたシンデレラが、悲しみに暮れる横顔を見せていた。
栗色の髪は解かれたまま背中に流れ、スカーフによって首の後ろで束ねられている。
木製の長テーブルは舞台左手の階段脇に寄せられていたので、観客からも、シンデレラが手にしているものが見えた。
キラキラとガラス細工のように輝く靴を、胸に寄せて呟く。
『アルシス様・・・』
靴音がして、階段上の扉が開かれた。
『姉さま』
シンデレラは慌てて、エプロンの下に靴を隠した。
扉を開け放したまま、ユリアは階段を降りてきた。
『ユリア、ここに来ては駄目。また、叱られてよ』
『わたし、姉さまにどうしてもお聞きしたいことがあるの』
思いつめた表情で、ユリアは姉の前に立った。
『どうしたの?改まって』
『あの舞踏会の夜、姉さまはずっと、ここにいらしたわよね』
『・・・ええ、ここにいたわ。・・・なぜ、そんなことを訊くの?』
妹と目を合わせぬまま、シンデレラは答えた。
『わたし、お城で、姉さまによく似た方をお見かけしたの』
『・・・・・・』
『その方は姉さまと同じ、羽根のように軽く、アルシス殿下と踊っていらした。でも急に、逃げるように行ってしまわれた。殿下はすぐに後を追われて、舞踏会へはお戻りにならなかったわ』
『そう・・・』
『わたし、ずっと、見間違えだと思っていた。でも、あの方は・・・』
ユリアは姉の膝に取りすがるように(ひざまず)いた。
『姉さま、どうか仰って。わたしは姉さまのために、何をして差し上げたらいいの?』
必死の妹の瞳と、姉の瞳が合わされた時だった。
『ユリア』
厳しい、威圧的な声が響いた。
扉の影から当主の夫人が現れ、ゆっくりと階段を降りてきた。
『部屋に戻りなさい。今すぐに』
『でもっ』
『ユリア』
『・・・はい・・・お母様』
ユリアが姿を消すのを待って、夫人はシンデレラの前に足を進めた。
『シンデレラ』
『はい・・・』
『わたくしと話す時は立ちなさい』
威圧的な声音に椅子から立ったシンデレラの膝から、片方だけの靴が転がり落ち、ガラスのように光った。
シンデレラより早く、夫人の手がそれを取り上げた。
『これは、あなたのものですか?』
『・・・・・・』
『答えなさい』
『・・・いいえ』
『それでは、必要ありませんね』
言うが早いが、靴を暖炉に投げ込んだ。
あっ!という悲鳴がシンデレラの口から上がる。
炎を表わす赤い光が、大きく躍り上がった。
『まさかとは、思ったけれど・・・』
夫人は呟くように言い、すぐに声を改めた。
『荷物をまとめておきなさい。城下の門が開き次第、あなたを荘園に移します』
呆然と立ち尽くすシンデレラを残して、夫人は退場した。
『だらしねぇな。少しは歯向かえよ』
ダークの声が響いた。
『・・・持っていても、仕方がないもの・・・』
その場に膝をついて、カラっぽになった手の中を見つめた。
『あの王子に、惚れちまったんじゃねぇのか?』
『わたしには、何もない。あの方のお力になれるようなものは何ひとつ』
『俺は、そうは思わねぇけどな。それにあの王子も、同じ考えらしいぜ』
ダークの言葉に促されたように、舞台右手の、外に通じる扉が叩かれた。
涙を拭いて立って行ったシンデレラが扉を開ける。
そこに居たのは、深い紺のマントに身を包んだアルシス王子だった。
驚いて身を翻し、逃げようとするシンデレラの右腕を王子の手が捕らえる。
『あなたは、いつもそうやって、私から逃げるのだな』
『お離し下さい』
『離さぬ。あなたを、迎えに来た』
『お戯れを』
『戯れなどではない』
マントの下から、ガラス細工のように輝く靴を取り出す。
『あなたの、忘れ物だ』
靴をみつめ、そして、アルシスを見上げる。
アルシスは、捕らえていたシンデレラの腕を離すと、その手を取って、靴を返した。
シンデレラは靴を胸に強く抱き、けれど、悲しそうに後ずさって、アルシスから離れた。
『もう、すべてをご存知なのですね』
『あなたを、見つけ出したかった』
『それならば、おわかりの筈です』
アルシスが近づけば、その分、シンデレラは離れた。
『わたしは、あなたの妃にはなれません』
靴を胸に抱いて王子に背を向け、シンデレラは客席に向かって悲しい声で言った。
『わたしには、何もない。名も、家も、身分も、この世にあるという(あかし)さえ』
身を縮めるようにして、すべてを拒むように目を瞑る。
『どうか、お帰り下さい』
『リュテシア』
失った筈の名を呼ばれ、リュテシアはその()を開けた。
『あなたの家は、我が腕の中』
アルシスが近づき、リュテシアを後ろからそっと抱いた。
ちょうどそれは、まだ記憶に新しいポスターの構図と同じだった。
『私の想いのすべてを捧げる者、それが、あなたの身分』
違うのは、抱かれたシンデレラ、リュテシアの瞳から、ひと粒の涙がこぼれ落ちたことだった。
「頼むから、あと、少しなんだぞ」
場面転換の仕事を終えた楠本が、舞台袖でハラハラと見守っていた。
『私が望むのは、あなたの心、ただ一つだけだ』
『アルシス様・・・』
リュテシアの頬を、また、涙が伝う。
『私の望みは、あなたにしか叶えられぬ』
『・・・わたしは、もう、この世には、ない者でした・・・』
声の震えを止めようと、今日子は深く息を吸った。
『でも、あなたはわたしを見つけてくれた。あなたがわたしの名を呼んだ時、わたしは再び、生まれたのです』
ふたりは、客席に横貌を見せる形で向かい合った。
『わたしのすべては、あなたのものです』
照明の光が、輝く靴と、リュテシアの頬に残る涙の跡を照らす。
アルシスはリュテシアの涙を拭い、その手で頬を包んだ。
『このまま、その薔薇のような唇を奪いたいところだが・・・』
台詞は台本どおりだったが、有沢は息を呑んで見守った。
『そこの者!』
打って変わった厳しい誰何(すいか)の声に、照明が階段脇に片付けられていたテーブルに当てられ、そこへ、宙から現れたように、トン、とダークが飛び降りた。
『三つ数えるうちに去れ』
『ひっでぇな。俺だって、居たくて居た訳じゃねぇぞ。出るに出られなかっただけじゃねぇか』
解けた緊張に、見入っていた観客から笑い声が上がった。
『一』
『それによ』
『二』
『片付けることがまだ、あんだろ』
『アルシス様!』
三つ目を数える前に、リュテシアが止めた。
『ダークが、わたしをお城へ連れて行ってくれたのです』
『・・・そう、なのか?』
『ダークの力がなければ、わたしは殿下にお会いすることは叶いませんでした』
『そういうこと』
得意げに胸を張ると、タンっとテーブルを蹴って、床に降りた。
『ってな訳で、俺にはあんた達に祝福を与える仕事が残ってるんだ。だから、さっさと済ましちまえよ』
『おまえ、何者だ』
『その話は後でゆっくりな。そら、お出ましだぜ』
この台詞が合図であるように、階段上の扉が開き、ランカートが降りてきた。
観客の注意が逸れた隙に、ダークは姿を消す。
『おめでとうございますと、申し上げてよろしいようですね』
アルシスは、リュテシアの肩を抱いて引き寄せた。
『私の妃だ』
リュテシアに対し、一礼してから、
『そういうこと、だそうです』
ランカートは、後に従ってきた夫人と、その娘を見上げた。
『こんなことって・・・』
階段の上で、夫人は呆然としていた。
対してユリアは、抑え切れぬ喜びをその(おもて)に溢れさせていた。
『偽りの届けを出したこと、姫への不当な振る舞いについて、申し渡しきこともあるが』
姉のもとへ行こうとユリアは階段を駆け下りたが、ランカートに優しく(とど)められた。
『そなたの娘に免じて、不問に処す。この家は、その娘に継がせるがよい。かわりに、私の妃となるべき姫を貰っていく。よいな』
夫人はすべてを悟ったかのように、キュッと唇を噛んだだけで、あとは表情も変えず、ゆっくりと階段を降りた。
『殿下の、仰せのままに』
アルシスとリュテシアに対し、臣下の礼を取った。
『それでは・・・行こう』
もはや、愛しい妃より他には目に入らぬ様を表わすかのように、二人を照らすライトを残して、照明が絞られていく。
客席に向かって歩き出すように、身体の向きを変えた。
『我が許を離れること、未来永劫、許さぬ』
『・・・はい』
アルシスに引き寄せられるまま、リュテシアは寄り添い、目を閉じる。
その微笑みの印象を残して、静かに幕が降りた。



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