「珪」
公園入り口の待ち合わせ場所に立つ珪を見つけて、今日子は名前を呼んだ。
家を出るのが遅れて、途中からサンダルにも構わず走ってきたが、約束の時間に5分ほど遅刻してしまった。
「走らなくていいから。転ぶぞ」
珪は、約束よりも早めに来ていることが多い。
だから、遅くとも定刻には間に合うようにしていたのに。
「遅れてごめんなさい」
ハァハァと呼吸を早めている自分の方を見て、顔に陽が当たったせいか、まぶしそうに目を細めた。
「べつに・・・俺、おまえ待ってるの、キライじゃないから」
そうは言ってくれても、やっぱり待たせたくない。
「ごめんね、ほんとに」
「気にしなくていい。それよりおまえ、」
じっと見られて、ドキドキした。
ほめてくれるとしたら、いつもこのタイミングだった。
白のキャミソールと、ミニのフレアスカートを組み合わせた。
キャミソールは両肩で細いリボンを結んで止めるようになっていて、スカートの裾には透けるようなレースが取り巻いている。
胸元が開いているので、ビーズのネックレスをつけ、髪を留めるバレッタは、珪の好きな白い花飾りのを選んだ。
植物園に行くだけなのに、お洒落し過ぎかな、とも思い、もっとラフな服に着替えたり、別のスカートを合わせたりしているうちに、家を出るのが遅くなってしまった。
「おまえ、日焼け禁止令、出てるんじゃないのか?」
「・・・へ?」
間抜けな声が出てしまった。
腕組みして、眉をひそめている珪は、まるで氷室先生のようだった。
「秋の文化祭に向けて、今年の夏は絶対に日焼けするな、って言われてる筈だろ」
去年の夏、海ですっかり日焼けした状態で夏合宿に行き、花椿にガンガンに叱られた。
「日傘は?」
「えーと、」
今年は春から、外出時には日傘必須と言われていたが、真面目には守っていない。
日傘なんて差していたら、隣りを歩く珪の横顔が見れなくなってしまう。
「そんな、肩も腕も、あちこち剥き出しで歩くな。・・・日焼けするぞ」
花椿に遭遇してしまったら、怒られるだろうな、という気が掠めはしていたが、珪に叱られるとは思わなかった。
「ほら、これ着てろ」
自分の白いシャツを脱いで、差し出す。
「でも、」
いいから、着ろ、と肩に掛けられる。
仕方なく、袖を通した。
「・・・・・」
当たり前だが、大きすぎた。
珪には半袖でも、今日子が着ると、袖は肘の下まであったし、肩など完全に落ちてしまっている。
ぶかぶかのスポーティーなシャツを今日の格好の上に重ねている姿は、鏡を見なくても、おかしいとわかる。
「じゃあ、行こう」
濃紺の袖なしのインナーシャツ一枚になった珪の横を歩き出しながら、今日子はがっかりしていた。
何か言ってもらえたら、という期待は空振りに終わった。
お気に入りのキャミソールは、肩のリボンも何も隠れてしまい、フレアスカートは腰の下までシャツで覆われてしまった。
アリスがくれた水着でさえ、悪くない、と言ってくれたのにと思うと、余計な話を珪にするんじゃなかったと後悔した。
「珪は日焼けしていいの?モデルさんなのに」
面白くないので、ちょっと反抗してみた。
「俺は男だからいいんだ」
すました表情で答える。
案の定、相手にはしてもらえない。
「アリスはね、日焼け止め、ばっちり塗って、帽子や日傘で完全ガードしてるんだって。モデルさんて大変なんだね」
手芸部の皆も、どこの日焼け止めがいいかなど、アリスのアドバイスを熱心に聞いていた。
それを考えると、自分は無頓着過ぎるのかなぁ、とも思う。
「早かったな。アリスと仲直りするの」
「あはは、そうだね」
月曜日にケンカになったのに、水曜日には仲直りしていた。
今度は了解を取ってから見せるから、という台詞に笑ってしまい、ケンカはうやむやになった。
「なんか、アリスって、似てるんだよね」
笑いながら言うと、誰と?と訊いてきた。
「さて、誰でしょう?」
人差し指を立てて、振る。
「ちょっと我がままで、自分の思うまま行動して、だから好き勝手やってるように見えるけど、意外に 周りの反応気にしてて、実はけっこう寂しがりや」
数え上げてみせると、俺に分かる訳ないと素っ気ない。
「あのね」
のぞき込むように顔を見上げる。
「尽」
パチッと、まばたきした珪は、答えを頭の中で反芻しているようだった。
「6つも年下の弟に似てるなんて言ったら、アリスが怒るかもしれないから、内緒ね」
シィ、というように唇の前で指を立てると、珪は、なんだ、と呟いた。
「珪は誰だと思ったの?」
分からないと言ったくせに、当てがあったのかな、と探ると、
「俺、いや、なんでもない。おまえの弟って、寂しがりやなのか?」
「今はすっごく、生意気だけどね。ちっちゃい時は、いつもわたしの後に付いて回って、何でも一緒にやるんだって言って、離れなかったんだよ」
「たとえば?」
珪の予想した相手を知りたかったのに、答えているうちに、どんどん話が逸れていってしまう。
植物園でも、今日の珪は、よく話題を振ってきた。
それに乗って、あれこれお喋りしてしまったけど、珪はうるさくないんだろうかと心配になった。
「珪、わたし、お喋りしすぎて、うるさくない?」
園内のカフェテラスでお昼を食べている時、確かめたくて訊いてみた。
もし、喋りすぎなら、この後は控えようと思ったからだ。
「別に」
いつも通り、短い答えが返ってくる。
それならいいやと、ほっとして、グラタンをすくった。
ここのカフェテラスのグラタンは、ホワイトソースがクリーミィーで、とても美味しいのだ。
「おまえの声は心地いいから」
フォークを取り落としそうになった。
「きれいな声、してる」
珪はたまに、こういう台詞を照れもせず、さらっと言うことがある。
何も意識していなかった頃は単純に喜んでいた。
でも、今の自分には、まともに響いて、けっこう応える。
「珪の声もすてきだよ」
動揺をごまかそうと、いつも思うことを言ってみたら、スプーンを持つ珪の手がピタっと止まった。
「低く響いて、やさしい声だよね」
あれ?どうしたのかなと、反応を見守っていると、
「そうか」
平然と、シーフードカレーを口に運んだ。
なあんだ、とがっかりする。
やっぱり、こんなことで珪の無表情は崩せない。
恋してるのは自分だけなのだから仕方ないけど、ドキドキさせられてばかりで、ずるいと思った。
ホットのハーブティーと、アイスコーヒーを運んできたウェイトレスさんに、冷房が強いでしょうかと尋ねられた。
大丈夫です、と答えると、寒いようでしたら、遠慮なく仰って下さいねと、重ねて言われる。
確かに、ちょっとクーラーは効いてるけど、ホットを頼んだのは、ここのローズヒップティーが好きだからだ。
そんなに寒そうにしてたかな、と省みて、ああそうか、と思い当たった。
明らかに身体に合っていない男物のシャツを羽織っているから、寒がっていると思われたのだろう。
「珪、これ脱ぐね」
「ダメだ」
間髪入れずに止められた。
「でも・・・変でしょ?それに、室内だから日焼けも関係ないし」
「別に変じゃない」
一体、どこを見て言っているのか。
花椿の次に、コーディネイトに厳しい珪の言葉とも思えない。
「結構、クーラー効いてるから。・・・身体冷やすな」
断定的な口調に、今日子は抵抗を諦めた。
今度からは、ブラウスとか、何か羽織るものをちゃんと持ってくるようにしよう。
いつもこんなに色々気にしたかなと思わないでもないが、これではお洒落以前の問題だ。
ガラス張りの館内で気温を調節し、一年中、色んな種類のバラを咲かせているバラ園に行くと、すれ違う人にやたらと見られる。
変な格好の自分のせいもあるだろうが、一番の要因は、珪が目立つからに違いない。
(珪って、着痩せするんだ)
上着もなく、袖なしのインナーシャツだけでいると、肩の広さとか、しっかりした二の腕とかが、よくわかる。
借りているシャツだって、こんなに大きいとは思わなかった。
(でも、考えてみれば、あの時だって)
一緒にスチルを撮った時の最初のポーズ。
後ろからくるむように両腕を回されたあのポーズも、自分など、すっぽり、腕の中に収まってしまった。
不意に、珪の腕の感触が甦ってきた。
包まれる心地良さ、耳元で囁かれた、低く響くやさしい声。
(何、思い出してるのよっ)
頬が熱くなってきて、今日子は慌てた。
「あの薔薇、ベルベットで出来てるみたいだな」
「どれ?」
赤くなっている顔を見られたくなくて、珪よりも前に出て、その薔薇の前に屈み込んだ。
「ほんとだ」
濃い紅の薔薇は、花びらの一枚一枚がしっとりと艶めいていて、そのなめらかさに触れてみたくなる。
手を伸ばしかけると、
「棘、気をつけろ」
すぐに注意が飛んだ。
今日の珪はとても過保護で、なんだか父親に注意されているような気分になってくる。
子供扱いされているようで、つまらない。
「この薔薇、珪みたい」
薔薇には手を触れず、見つめながら言った。
「俺?」
言っているイミがわからないと、相手にされないかと思ったのに、おかしそうに聞き返された。
「強く惹きつけられて手を伸ばすと、その柔らかな花びらで乙女心を魅了してしまうのに、たちまち、その棘で引き裂いてしまうあなた・・・なぁんてね」
芝居がかった台詞で心を隠して、最後はふざけて笑ってみせたのに、珪は笑わなかった。
「それなら・・・あのホワイトローズはおまえ」
指さす方を、無意識のうちに追っていた。
その指の先にあったのは、咲きかけの白い薔薇。
「どこまでも白く、汚れることを知らない・・・その輝きは、男心を狂わせる」
「・・・もうっ、負けました!ごめんなさい」
今なら、赤くなった顔を見られても大丈夫だろう。
「珪の台詞の方がサマになってる。降参です」
冗談だとわかっているのに、ドキドキしている。
「ちょっと、恥ずかしかったね」
「・・・だな」
ほんとに恥ずかしくて、珪の顔を見れない。
花に喩えられて、うれしくなる自分はどうかしている。
「あ、ねぇ、あそこのピンクの薔薇、ちっちゃくて可愛い」
唐突に言って、くるっと珪に背を向ける。
封じ込めた筈の想いが溢れ出しそうで、こわかった。
夕方、今日は夕食当番だからと、いつもより早めに送ってもらった。
当てにしていた尽に当番を代わってもらえなかったことを、今は都合よく思ってしまうほど、今日子は疲れてしまっていた。
珪といることは、前よりもっと楽しかったけれど、長く一緒にいるほど、想いを隠せている自信が無くなってくる。
単純な自分の精神構造が、つくづくうらめしかった。
「あ、」
何かを見つけた珪の声に視線を上げると、
「今日子!」
先に気付いていたアリスが、家の前で手を振っていた。
「あからさまにイヤな顔しないでくれる?」
そう言うアリスの方が、珪を見て顔をしかめていた。
「すぐ帰るわよ。この後、仕事だから」
ちょうどよかったと、今日子に対してはニッコリ笑い、
「いいもの、持ってきたんだ」
右手にある長い筒を振ってみせる。
「見てみて」
何を、と尋ねる間もなく、その筒、丸めた紙を広げる。
「超特急で仕上げたんだって。もう、今日から貼り出されてるのよ。見なかった?」
すっぽりと、珪の腕の中にあって、幸せそうに笑っている自分。
珪が好きと、想いを溢れさせているあの写真。
「・・・今日子?」
アリスが不思議そうに自分を見ている。
当たり前だ。
こんなに顔が強張っている。
「へぇ・・・」
感心したような珪の声に、ビクッと身体が震えた。
「きれいに仕上がったな」
「・・・こんなに、早く出来るんだね」
声を、震わせてはいけない。
「びっくりしちゃったな・・・」
シャツを脱いで、二つに折り、珪の手に返した。
「これ、ありがとう。珪」
絶対に気付かれてはいけない。
もう二度と、この居場所を失いたくなかった。
「アリスも、届けてくれて、ありがとうね」
アリスの手からポスターを取ると、巻きグセの付いているそれは、クルっと元の筒状に戻った。
想いを隠そうとする今日子の焦りそのままに。
もう一度、二人それぞれに礼を言い、別れを告げて家の中に入るまでは、ちゃんと普通にしていられたと思う。
けれど、サンダルのベルトを外そうとする指が震えてうまく脱げない。
階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んで、このポスターを隠せる場所を探した。
クローゼットを開けて、一番端の、冬のコートの後ろにすべり込ませる。
バタンと扉を閉めてしまうと、足の力が抜けて、その場にズルズルと座り込んだ。
さっきまで着ていた珪のシャツの感触が残っていた。
包み込まれる腕の優しさの記憶も。
「ダメっ。思い出しちゃ」
交叉させた両腕に力を込めて、感触と記憶を振り払った。
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