どうしてあの時、俺は止めなかったんだろう。
このところ、後悔することばかり続いているが、中でも、今日子に代役をさせてしまった一件は、本当に大失敗だった。
『君の住む街』というコピーと共に、ポスターが市内各所に貼り出された翌日の月曜。
登校するやいなや、今日子はクラスメイトや他のクラスの友人、教室にまで押しかけてきたクラブの後輩に取り囲まれた。
興味津々でいきさつを知りたがる面々に対し、今日子は、友達のモデルの代役を頼まれただけと、至極簡潔に答えた。
実際の順序は逆だったが、アリスが頻繁に、はば学を訪れていたおかげで、ああ、あの子のと納得してしまうと、好奇心の勢いが削がれてしまった。
加えて、
『君はルールというものを、どう考えている』
朝のHRの後、氷室に職員室に連れて行かれ、学校への事前の届出も許可もなく、無断でアルバイトをしたことに対し、みっちりお説教と、ルール違反の罰則としての課題を頂戴して帰ってくると、クラス内での冷やかし気分はとんでしまった。
いかにも氷室らしい説教の内容に、さっすがヒムロッチ、いや、ツッコミどころはそこじゃないだろと、感心とも苦笑とも言えぬ感想が口々に上がり、
『わりの悪いバイトになっちゃったわね』
他ならぬ有沢の一言で、好奇心は同情へと変わった。
冷やかしから今日子を庇う空気がクラスに生まれ、今日子自身も反響の大きさに困った様子でいながら、なんとか、かわしていた。
前期末のテストが次週に迫っていたことも効を奏し、テスト期間に突入すると、学内での騒ぎはあらかた鎮まった。
「葉月君」
撮影を終え、着替えに行こうとする珪を、沢木が追いかけてきた。
「あのさ、これよかったら、明日香ちゃんと行ってきて」
渡された封筒を開いてみると、遊園地のフリーパスが2枚入っていた。
「8月になれば、ナイトパレードも始まるし。その、落ち着いたらさ」
騒ぎが治まったのは、はば学内だけだった。
ショッピングモールでは、夏のバーゲンが始まると、増えた人出はそのままポスター前の人だかりとなり、それがまた人を呼んだ。
新はばたき駅では足を止める人が多すぎて、通行の妨げになっているという。
「なんか、俺が一番、葉月君たちの邪魔をしちゃったよね。ほんとに、ごめん」
「・・・沢木さんのせいじゃないですから。気に掛けて頂いて、ありがとうございます」
本心からの言葉だった。
「これ、頂きます」
礼を言うと、沢木はますます責任を感じてしまった様子だった。
けれど、こんなことになるとは、あの時点では誰も思っていなかったのだから仕方がない。
ポスターの効果で、モデル葉月珪に対する注目も高まっていた。
マネージャーの高坂から、取材や仕事のオファーが沢山きていると相談されたが、受験生であることを理由に可能な限り断ってもらった。
今年の初めからマネージャーとなった高坂は、氷室と変わらない年の頃だが、穏やかな人柄と若さに見合わぬ気遣いで、珪の信頼を得るようになっていた。
受験勉強など、珪がしていないことを、この場合も高坂はちゃんと知っていたが、最強の口実だねと、了承してくれた。
もっとも、珪が勝手に受けてしまった森山の写真集の件がある為、実際、スケジュールに余裕はなかった。
翌日は、その森山との仕事だった。
夜の明ける前から、撮影場所の海岸へ行く。
既に、森山もスタッフも準備に入っていて、挨拶をしようとした珪は、その中にある筈のない顔を見つけた。
「おはよう」
早朝から元気な今日子の顔を、珪はじっと見つめてしまった。
「えっと・・・もしかして、聞いてない?」
今日子が問いかけるのに、
「いい眠気覚ましになっただろ。葉月君」
森山が、おかしそうに言った。
「スタッフの手が足りなかったんで、今日子ちゃんに助っ人を頼んだんだよ」
「今度はちゃんと、許可を貰ってきています」
かしこまって今日子が言うと、周りのスタッフがどっと笑った。
氷室に叱られた話を披露して、もう親睦を深めたらしい。
ふーん、とだけしか、珪は言わなかった。
「さて、仕度を始めてくれるかい」
不要な騒動を起こさないためにも、注目の集まる今、アルカードへ行くことは避けるべきだった。
マスターの方でも心得ていて、今日子をデリバリーに寄越さない。
仕事帰りは高坂に車で送ってもらい、試験休みに入った今は、学校で会うことも出来ない。
電話で声を聞くことは出来たけれど、やっぱり顔が見たかった。
森山に、この恋を悟られてしまったのは気恥ずかしかったけれど、その代償として、ここに今日子を呼んでくれたというなら、珪はただ、うれしかった。
空が白じむ頃、撮影は開始された。
現金なもので、気を抜くと、目が今日子の姿を追ってしまう。
幾度かは目も合って、その度に微笑んでくれると、胸の奥があたたかくなった。
「いいね、葉月君。その表情」
満足げな森山の声に、まさか、この為に今日子を呼んだのか?という疑惑も浮かんだが、幸せな気分は消えることがなかった。
今日子と会えないことに、もう耐えることの出来ない自分を、珪は発見していた。
「はい、珪。おつかれさま」
休憩になっても、波打ち際に残ったままでいる珪のもとへ、今日子がお茶を持ってきてくれた。
勿論、二人だけになる為にわざとしたことで、俺だってこれくらいの策は練ると、珪は内心、威張っていた。
サンキュと受け取った紙コップの中身が、お得意のコーヒーではなかった。
「仁さんも、スタッフの皆さんも紅茶党って聞いたから、美咲に習ったアイスティーにしたの。どうかな?」
一口飲んでみると、すっきりしていて、後口にほのかな甘みを感じた。
「うん、美味い」
「よかった!美咲にお礼言わなくちゃ」
うれしそうな様子につられて一緒に微笑ってしまうと、今日子は急に海の方を向いてしまった。
「こんな早い時間に海岸に来たのって初めてだけど、すごく気持ちいいね。あ、でも、珪は眠い?」
明るくなっていく空の青と、海の色が溶け合う遠くに目をやったまま話す。
「撮影って、こんなに朝早い時もあるんだね。珪、頑張ってて、すごいな」
褒めてくれるなら、こっちを見て、言ってほしい。
「おまえに見せる為だしな」
想いを込めた言葉を口にしてみても、
「わぁ、なんか、すごくぜいたくかも。わたしも頑張ってお手伝いするね」
ちらっと顔を傾けただけで、またすぐ、水平線に目を向けてしまう。
こんな遠回しな表現で、鈍感な今日子にわかってもらおうというのは、やっぱり無理らしい。
「沢木さんに、遊園地のチケットを貰ったんだ」
「え?珪も?」
思いがけなかったのか、やっと、こっちを向いてくれた。
「わたしも今朝、仁さん経由で洋子さんから貰ったの。撮影が終わったら、珪に相談しようと思ってたんだけど」
森山にばれているのなら、当然、洋子が気付いていない筈がない。
「あとね、撮影所の皆からも、プラネタリウムや博物館とかのチケットや割引券、いっぱい貰っちゃって」
なんだか、どんどん周囲にばれていっているようなのに、
「どうしよう、珪」
当の本人だけが気付かないというのは、どういう皮肉なのだろう。
「じゃあ、しっかり計画を立てないとな」
「計画?」
伝えなければ、と思う。
「8月は、おまえの夏合宿で一週間取られるだろ。残り3週間で全部行くぞ」
一緒にいたいという、この気持ちを。
「・・・・・・でも、いいのかな。わたし・・・珪と出掛けても」
波の音に消されてしまいそうな小さな声を、珪は聞き逃したりはしなかった。
「あたりまえだろ」
足元を濡らす波を見ているその瞳に、自分を映したかった。
「この手の騒ぎは一過性のものだからな。他の対象が出来れば、皆そっちへ流れる。うちの野球部が甲士園に行くまでの辛抱だろ」
「・・・珪ったら」
呆れたような表情も、困ったように微笑う表情も、いつも傍で見ていたい。
「そんな動機で応援したら、美咲が怒るよ?」
「黙ってれば、わからない」
森山が休憩の終わりを告げた。
紙コップを受け取り、戻ろうとした今日子が足を止め、振り返った。
「わたしもひとつ、リクエストしていい?」
見上げる瞳の真剣さに、どんな願いかと期待したのに、
「今年の花火も、珪と一緒に行きたい」
拍子抜けの思いを、珪はため息と共にこぼした。
「それはもう、計画のうちに入ってる」
瞳を大きく見開いて、それから今日子は、珪の大好きな笑顔になった。
寄せる波が足元の砂を崩しては、さらっていく。
この笑顔を目にする度に、腕の中に抱きしめることの出来る未来。
波のように、その心のすべてをさらってしまえるように。
ただひとつ、望む未来を、この手で手繰り寄せてみよう。
砂浜に足跡を残し、戻っていく今日子の背中を見つめながら、珪は静かな決意を心に持った。
その表情を捉えた一枚は、「葉月珪写真集」の表紙を飾ることになる。
- Fin -
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