尽に叩き起こされたのは、いつも家を出る時刻の5分前だった。
なんでもっと早く起こさないの?!
しょうがないだろっ、寝てると思わなかったんだから。それにいつもの時間にドア叩いたじゃんか
ドア越しで起きる訳ないでしょっ
勝手に部屋に入るなって言ったの、姉ちゃんだろっ
時と場合を考えなさいよっ
朝から言い合いをしながら、最短記録を更新して支度をし、家を飛び出した。
このところ、もう一つの出場種目の短距離走に向けて早朝の走り込みをしていたから、まだ寝ているとは両親も思わなかったらしい。
玄関に揃えられたままの革靴を尽が不審に思わなければ、完全に遅刻していた。
早朝練習の代わりに学校まで走って、3階の教室まで駆け上がった。
席に着くことが出来たのは、朝のホームルームが始まる1分前だった。
「珍しいね、今日子が遅刻なんて」
「してないでしょ。ぎりぎり間に合ったんだから」
隣りの席の綾瀬に反論する。
「走り込みしてて、時間、間違えちゃったの?」
昨日はパートナーが練習をさぼり、今日は自分が寝過ごしたとは言えず、曖昧に返答を濁した。
「珪君は今日も遅刻ね」
それは、教室に入った時から気付いていた。
走ってくる最中にチェックした携帯には、やっぱり留守電もメールも残されていなかった。
あまりに周りが煩いので、寝る前にチェックするようにしたと、めんどくさそうにぼやいていたから、気付いていない筈はないのに。
手ぶらで葉月がやってきたのは、昨日よりも遅く、4時限目が始まる頃だった。
悪びれもせず、席に着き、起きてはいるが、ぼーっとしている。
授業が終わると何も言わず、教室を出て行こうとするのをとっ捕まえたのは、綾瀬だった。
「珪君、昨日、体育祭の練習だったでしょ」
非難を込めた視線と口ぶりに、ああ、と表情を変えずに葉月は言った。
「悪い。忘れた」
ガタガタっと、数人がこける音がした。
「忘れた、ってね」
文句の続きを言おうとした綾瀬の前をスッと横切ると、まっすぐに有沢のもとに向かう。
「すまない、有沢」
「・・・いえ、わたしは、別に」
背の高い葉月に上から見下ろされて謝られても、有沢は威圧感を覚えるばかりだった。
「守村、姫条も、悪かった」
「いやぁ、別に。なぁ?」
「ええ」
姫条と守村が居心地悪そうに顔を見合わせる。
二人とも、こんなに素直に葉月が謝罪するとは思わなかったらしい。
これで済んだと思ったのか、ふらりと教室を出て行ってしまう。
「相変わらず、マイペースなヤツ」
「自由だよな、葉月は」
俄かに騒がしくなる教室の中で、今日子は一昨日、カメラの前に立った時よりも、今、自分の顔は強張っているに違いないと感じていた。
「全然、心がこもってない。あの謝り方」
昼休み、学食でサラダにフォークを突き刺しながら、綾瀬美咲はご機嫌ななめだった。
「葉月君の感情のこもった喋り方って、わたし、記憶にないけど」
クールな有沢では、少しもなだめ役にならないからだ。
「大体、パートナーの今日子には一言もないし」
「別に、いいよ。そんなの・・・」
黙々とオムライスのスプーンを口に運んでいる今日子は、いつになく、無口でいた。
はば学の才女、トップ3が囲むテーブルに近づく者はいない。
なんだか和気あいあいと喋っているなぁと、通りすがりに聞き耳を立てた者の口から、理解不能な数式やら、古文、漢文の話が、楽しそうに交わされていたと噂が広まったからだ。
確かにそういった話題も上らないではないが、大抵はどこの店のスイーツが美味しいか、合わせるお茶なら何がいいか、そんな話ばかりしていた。
葉月珪、守村桜弥、それにこの綾瀬、有沢、明日香を加えた5人が、はば学のトップグループで、一桁の僅差で順位が競われていた。
3年で、なぜかこのトップ5人が同じクラスになった時、クラス分けは理事長がクジでランダムに決めるのだという噂が、はば学では本気で信じられるようになった。
もっとも、補修常連組の姫条と鈴鹿がこのクラスに振り分けられたのは、バランスを取る為だという説もあり、だったらクジじゃないだろうと、未だに真偽のほどは定かではない。
「葉月君と何かあったのかしら」
疑問は食事を済ませ、先に行くねと今日子が席を立った後、有沢の口から発せられた。
「あったと考えるのが、妥当じゃない?」
感情の起伏が激しい綾瀬美咲と、いつもクールな有沢志穂の仲が良いのは、共通の趣味のせいによる。
二人とも、自分たちのイメージには合わないと思いながらも、リリカルな乙女の世界をこよなく愛していたからだ。
催事場やショップで鉢合わせするたびに、目礼だけを交わしていたが、気の短い綾瀬の方がアクションを起こし、同盟は結ばれた。
外見的には一番そういった世界が似合いそうな今日子には、これっぽっちも、そういった嗜好がない。
ノートパソコンが置かれただけの机と、ぎっしり本が詰まった書棚、タンスにベッド。
綾瀬が初めて今日子の部屋に遊びに行った時、どこの寄宿舎だ、ここは、と思ったほどだった。
「今日子って、落ち込むとすぐわかるでしょ」
「そうね。気持ちを隠すのが上手とは、いえないわね」
本来、他人のプライベートには無関心な筈の2人の才女は、目を見合わせると頷いて、同時に立ち上がった。
その頃。
今日子は屋上への階段を上がっていた。
屋上は、落ち込んだ時の気分転換の場所だった。
珪に避けられていることは、直感でわかった。
留守電にメッセージを残しただけで、出られなくて悪かったと気遣ってくれる珪が、練習をすっぽかしたことも、何の連絡もしなかったことにも、一言もないとは考えられない。
そこまで気持ちを損ねるような、一体、自分は何をしたのか。
考えても、考えても、わからなかった。
一昨日の火曜日。
アルカードからの帰り道、あれこれ質問したのが悪かったのか?
いや、ライン超えの失敗をしたのなら、すぐその場で拒絶反応が出る。それに、後を引いたことは今まで一度もない。
家の前で別れた時も、何度思い返しても、いつもと変わりなかった。
けれど、何かあったのだ。
昨日、昼休みに消えてから、今日、学校に来るまでの間に。
(その間、全然会ってないのに、何かした?って聞くのも、おかしいよね)
重い気持ちで屋上の扉を押した。さっと頬を撫でた、さわやかな風になぐさめられたような気がして、海を見ようと上げた視線の先に珪が居た。
屋上は、珪のお気に入りの昼寝ポイントの一つだった。だから、居るのは不自然なことではない。この場所で会うことは、よくあった。
屋上のフェンスに腕を組んでもたれていた珪は、ツイと、顔を背けるように身体を反転させ、海の方に向き直った。
「・・・珪も、気分転換?」
今のは、嫌味に聞こえなかっただろうか。
答えはなく、今日子はためらったけれど、思い切って、傍へ近づいた。
「天気いいね」
「・・・そうだな」
取り付く島のない珪の横顔を見上げながら、次に何と言ったものかと思い悩んでいると、背後で、バンっと音を立てて、扉が開いた。
「・・・どうしたの?二人とも」
綾瀬と、息の上がっている有沢だった。二人の差は、たぶん、階段を駆け上がってきたことによるのだろう。
同じなのは、どちらも間が悪そうにしていることだった。
「俺、教室に戻るから」
スッと、今日子の横を通り過ぎ、綾瀬と有沢の間をすり抜けて、珪は校舎内へ消えた。
バツの悪そうな表情で二人が今日子のもとに近づくと、何も言う前に、泣き出しそうな瞳で問いかけられた。
「ね、何があったのかな?」
自分たちが投げかけるつもりだったその問いに、二人が答えることは出来なかった。
今日はバイトの日だった。
いつもより早い時間にアルカードへ向かう。昨夜、遅くまで起きていたのに、気が張っているせいか、少しも眠くならない。
珪は5時限目だけを出ると、早退した。
エスケープではなく、届出はされていたらしい。無言の背中を追う勇気がなくて、今日子は席を立てなかった。
店ではヘアメイクの本宮が、カウンターでコーヒーを飲みながら、楽しそうにマスターと喋っていた。
「ああ、明日香ちゃん」
笑いかける本宮の目が、すぐに探るようなそれに変わった。
「どうしたの?なんだか、元気ないじゃない。具合でも悪い?」
「いえ、なんでもないです」
「なら、いいけど・・・。じゃあ、これで元気が出る?約束のもの、早く見せたくて持ってきたのよ」
脇によけてあった封筒を、今日子の前に差し出す。
「すっごく、いい出来よ」
「私も失礼して、先に見させてもらったよ。とてもいいね」
熱心にマスターが相槌を打つ。
思ったよりも厚みのある封筒から中の一枚を引き出すと、珪の腕の中で、うれしそうに幸せそうに笑っている自分がいた。
「葉月君も褒めてたわよぉ」
ピクっと、今日子の手が震えた。
「珪も、見たんですか?これ」
自分の声が、とても遠くで聞こえる。
「もちろん。昨日、急な仕事で連絡したら、すぐ来てくれて、その時にね。あら、ちょっと大丈夫?」
「え?」
本宮とマスターが心配そうに自分を見ている。無意識に、写真を封筒へ戻した。
「真っ青よ」
「そう、ですか?」
のろのろと上げた手を、自分の頬に当てる。
「奥で休みなさい」
マスターが促し、本宮が付いてきてくれた。
更衣室を兼ねた休憩室のパイプ椅子に崩れる様に座ると、本宮はいたわりの言葉をかけ、部屋を出た。
一人になると、今日子は震える指で一番上の写真を引き出した。
中にはまだ幾枚も入っていたが、他のものを見る気力はなかった。また、その必要もなかった。
珪の腕の中で笑う自分。
心を取り出されて、さぁ、このとおり、と見せられた気がした。
珪を好きだと、一緒にいることが、やさしくされることが、こんなにも嬉しいと写真の中の自分は言っていた。
珪は、この写真を見たのだ。
そして気付き、困惑した。
なぜなら葉月珪は、明日香今日子の想いに応えることが出来ないから。
「そっか・・・避けられる筈だよね」
手のひらを返したような、珪の拒絶の態度に納得がいった。
「・・・やだ。こんなの、やだ」
戻りたかった。
仲良しの居場所へ。
失いたくはなかった。
どうやったら、戻れる?
まだ、間に合う?
いつだって前向きだと珪が評した今日子は、失ったと思った居場所を取り戻そうと、全力で後戻りする為の方法を探し始めていた。
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