□■わびさび亭■□GS

登場人物

高校1年生

高校2年生

高校3年生

卒業後

番外編

高校3年

いさよひ ― 十六夜― 3. 火曜日


『好きなのね。珪のこと』
珪を好き。
それは明日香今日子にとって、ずっと、あたりまえのことだった。
好きでなければ、こんなにも沢山の時間を一緒に過ごしてきたりしない。
けれど、その好き≠ヘ、恋ではないと思っていた。
一緒にいると、ただ、楽しかった。
ドキドキしたり、胸が苦しくなったり、夜、眠れなくなったり、そんな一般的な恋の症状はちっともなくて、むしろ傍にいると落ち着いて安心出来た。
一緒に遊びに出掛けて楽しかった日など、いつもより心地よく眠りに入れてしまうくらいだった。
それに、はば学ではともかく、外に出てしまうと、自分は葉月珪の彼女としては不釣合いに見えるらしい。
少し前に、ビリヤード場で絡まれたことがあった。
その人は珪に表紙の仕事を取られたことを恨んでいるようで、しつこく嫌味を言い続けた。
相手にするなと言われたのに、我慢出来なくて口を挟んで、
『なに、君、“おっかけ”のコ?』
健気だねぇ、と嘲笑された。
友達にも見えないんだと思ったら、胸が塞がって、何も言葉が出てこなくなった。
その後、本気で怒ってしまった珪に怖気づいて、その人は逃げてしまったけれど、悶着の起こった様子を見ていた人たちは、しばらく自分たちを見てささやき交わしていた。
『悪かったな』
珪のせいではないと言うと、
『・・・気になるか?あいつの言ったこと』
言い惑うように訊かれた。
ほんとに珪のせいではなかったから、気にしてないと答えた。
『そいつにフラレた子、何人いるか知ってんの?』
自分といる時は、ぼんやりしているか、眠そうにしているか、ほんとに寝ているかの珪だったけれど、カッコいいのを通り越して、とてもきれいなことも、わかりづらいだけで優しいことも知っていた。
だからモテるに決まっていると思ったし、そのことについて何かを思ったり言ったりする権利自体、持っていなかった。
それに友達にも見られないことのショックの方が、大きくもあった。
その日はボウリングをするのだと思っていたから、パーカーにジーンズのラフな格好でいた。
家に帰って、姿見に映してみた自分は、やけに子供っぽく見えた。
こんなだから、珪の目にも女の子として映らないのかな、と思うと、落ち込んだ。
せめて格好だけでもと、にわかにワードローブを広げて試行錯誤し、部屋に入ってきた尽に呆れられた。
どんな種類の好き≠ネのかを振り分けるなんて、意味のないことだと思ってきたのに、今は違う。
ずっと、踏み込んではいけないと思ってきた、珪の中に踏み入ろうする自分を、止めることが出来ない。
葉月珪は、あるラインを踏み越えて近づかれることを極端に嫌う。
出会ってすぐの頃から、それには気付いていた。
そのラインは、友達というには時にひどく、今日子を遠ざけたし、ただのクラスメイトというには近すぎた。
曖昧で、見えないラインを守ろうとして、何度も失敗した。ぴしゃりと弾き出される度に後悔し、反省しても、懲りずに近づいていく自分を、珪はどう思っているのか。
学内で二人の仲を特別に親しいものとして噂されるようになっても、珪は一切、無関心で、どこか遠くを見ているような感じがした。
傍に近づくことを許してくれる自分は、葉月珪にとって、どんな意味を成しているのか。
それだけは、いつも心にかかっていた。
けれど、それを追求することは、まさしく、ラインを踏み越えることだった。
友達、だよね?と確認を求めるのは、あまりに子供じみていたし、珪の反応が不安でもあった。
そうして見つけたのは、“仲良し”という、都合のいい、安穏な居場所。
何かのカタチに無理に当てはめる必要のない、その場所は心地よくて、これで気負うことなく、珪といることが出来ると安心した。
相手の中に自分の居場所を探し求め、意味のある存在でありたいと望むこと。
それこそが恋することなのだと、今ならわかる。
気付かせたのは、他ならぬ珪だった。
もうひと月は前になる、4月の終わり。
家に遊びに行った時、熟睡してしまった珪を独り置いて帰ることが、どうしても出来なかった。
目が覚めた時、独りだと思わせたくなくて、起きるまで傍にいようと思った。
子供のような寝顔を見守っているつもりが、うっかり一緒に寝てしまい、あべこべに起こされた。
遅い時刻になってしまったことを慌てる自分に、放たれた珪の言葉。
『俺が起きないなら、ほっといて帰ればよかっただろ』
胸が痛んだ。
ぎゅっと引き絞れられるような痛みに、身動きすることもかなわなかった。
想うほどには葉月珪の中で、明日香今日子の存在は意味を成さない。そう言われている気がした。
ひとりよがりな感傷に浸っていたことが恥ずかしくて、迷惑をかけた珪にも悪いと思った。
それでも痛みはひくことがなく、帰ってきた自分の部屋で、クッションを抱えて丸くなった。
そうやって、傷が塞がるのを待とうと思った。
明日からまた、珪の仲良しという居場所に戻るために。
珪から電話があったのは、そんな時だった。
『おまえ、俺の傍にいてくれたんだな』
気付いてくれたことが、こんなにも嬉しいと思わなかった。
あんまり嬉しくて、そして胸が痛かったから、わかってしまった。
珪に求めてほしいと(ねが)っている自分を。
ずっと、触れてはいけないと思ってきた、珪の心を求めていることを。
(わからなければ、よかったのに)
そうすれば、ずっと、仲良しのままで満足していられた。
(それに・・・)
「―――今日子ちゃーん、おーい、戻っておいで」
はっとして我に返ると、目の前にアルカードの常連客、立花の顔のアップがあった。
「きゃっ」
思わず、一歩引いてしまった。
「あ、傷つくなぁ、そのリアクション」
立花は大げさに、カウンターに突っ伏してみせた。
「すみませんっ、立花さん。わたし、ぼんやりしちゃって」
大失態だった。
仕事中に呆けたばかりか、お客様の顔に驚くなど失礼極まりない。
「放っておきなさい。今日子ちゃん」
デリバリー用のポットの栓を回しながら、マスターが言う。
「こいつの無神経は、今に始まったことじゃない」
「だーれが、無神経だって?」
甘いハンサムという顔立ちがあるなら、立花がまさしくそれで、アルカードへ来る女性客から熱のこもった視線を送られることも少なくはない。
毎年、バレンタインには、コーヒーを飲みに来ているのか、チョコをもらいに来ているのか分からないほどだ。
もてまくっていることに、あぐらを掻いている自堕落なヤツ、というのが、友人でもあるマスターの評価。
仕事が忙しすぎて、まじめに恋愛やってるヒマがない、というのが立花の抗弁だった。
「俺はただ、今日子ちゃんが浮かないカオでいるのが、心配だっただけじゃないか」
一転して、足を組んでふんぞり返る。もちろん、こちらが地である。
「あの、ほんとにすみません。何でもないんです。すみませんでした、マスター」
「火を使うところだからね。気をつけなきゃ、いけないよ」
「はい」
かしこまっている今日子の前に、ポットを置いた。
「じゃあ、これ。お隣さんに頼むよ」
「お隣・・・ですか?」
アルカードで、お隣さんといえば、隣りの撮影所のことだった。
「ん?なにか、不都合なことでもあるのかい?」
「お、なんだ?行きたくない訳でもあるのか?」
同時に二人からツッコまれて、今日子はまた後ずさりしそうになった。
「い、いいえ!違います。行きます」
「それにしちゃ、今日は元気がないなぁ」
「困ったことがあるなら、いつでも相談にのるよ」
「ほんとに、なんでもありませんから」
一体、自分はどこまで顔に出ているというのか。
本当に不安になってきて、思い切って尋ねてみた。
「あの・・・わたしって、そんなに表情読みやすいですか?」
立花とマスターは、無言で顔を見合わせた。そうして同時に今日子に向き直ると、
「気にするなっ、今日子ちゃん。そこが、君のチャームポイントだ!」
「表現が古いな、立花。だが素直なことは、人として美徳なことだと私は思うよ」
「固いんだよ、おまえは」
「・・・お隣、行って来ますね」
しょんぼりした風情で今日子が店を出て行くと、立花がむぅ、と低く唸った。
「お隣さんの彼と、なんかあったのかね」
「さぁね」
新しく淹れているコーヒーのいい香りを立ちのぼらせながら、そっけなく応じる。
「部下の様子にちゃんと目配り出来ないようじゃ、経営者として失格だぞ」
「彼女は部下じゃなくて、一緒に働く仲間だよ。第一、プライベートなことへの口出しはご法度だろう。そら、」
立花の前にカップを置く。
「それ飲んだら、さっさと仕事に戻れ。先刻から携帯鳴りっ放しだぞ。」
秘書を泣かせるなと説教するそばから、隣りの椅子の背に掛けてある上着のポケットで携帯が鳴る。
「いやだね」
コーヒーシュガーを落とし、スプーンでガチャガチャと乱暴に掻き混ぜる。
「今日はまだ、今日子ちゃんの笑顔見てないからな。俺はあの笑顔に癒されたくて、ここに来てるんだ」
自分の歳の半分以下の女の子に、まるでアイドルに対するかのように入れあげている目の前の馬鹿に、つける薬なしと、マスターは旧友を放置して仕事に戻った。



(やっぱり、顔に出てるよね、きっと)
自覚してしまった恋の置き所がなく、胸の奥に隠した筈なのに、会って二度目の葉月洋子に、あっさりと見破られた。
どうやら、ひどく読みやすいらしい、自分の表情。
それならば、珪は?
考えていることがすぐに顔に出ると言い指した珪は、気付いているのだろうか。
(わかってて知らん顔出来るような、器用な人じゃないと思うんだけど)
気付いていなければいい。
もしも、仲良しの居場所を失うようなことになったら。
(それだけは・・・ぜったい、やだ)
「お待たせしました。コーヒーお持ちしました」
通い慣れたスタジオの扉を開けると、なぜか、一斉に視線が集まった。
「あ、の・・・すみません。遅くなりました」
誰の応えもない。
沈黙と注視の居心地の悪さに、こそこそとスタジオの隅に行き、いつものテーブルにポットを置く。
「今日子、いいところに」
沈黙を破ったのは、珪だった。
ああ、やっぱり会っちゃったと、妙に強張る顔を意識する。
「いいところって?」
昨日、洋子に指摘されたせいで、今日は学校でも普通の顔をしているのが大変だったのだ。
「すっごい、タイミング」
「びっくりした―」
「話が聞こえたかと思ったよ」
急に、ガヤガヤとスタジオ内が騒がしくなる。
「今ね、ちょうど呼びに行こうと話してたんだよ」
たまに、短いお喋りを交わすこともある、カメラマン助手の沢木が、ニコニコと近づいてきた。
「すみません。お待たせしてしまって」
店からスタジオまで来るのに、そんなに時間を掛けてしまったのかと、信用ならなくなった自分の行動を反芻する。
「ちがう、ちがう。コーヒーじゃなくて、ちょっと、明日香ちゃんに手伝ってもらいたいんだ」
「はあ、わたしに出来ることなら」
「ほんと!助かるよ!」
「あのう、それで、何をすれば」
「相手のモデルさん、急に来れなくなったんだ」
いつの間にか隣りに来ていた珪は、たまに思う、葉月珪以外、誰にも似合わないのではと思うような衣装を身に着けていた。
「まぁ、がんばれ」
何でもない口調で言われたが、まったく意味がつかめない。
「じゃ、早速、着替えましょうね」
アルカードをごはん処にしているヘアメイクの本宮が、ぐいっと、横から腕を引いた。
「だいじょーぶ。日頃のお礼に腕によりを掛けて、キレーにしてあげるから」
「え?・・・まさか」
「急いで頼むよ」
この撮影所の社食代わりといってもいいアルカードで、2年もバイトをしていれば、ほぼ全員、顔見知りのようなもので、カメラマンやスタッフの面白がるようなニヤニヤ笑いの意味がやっと繋がった。
「無理ですっ、ぜったい、無理っ」
強引に腕を引いてゆく本宮に抗議の声を上げたのは廊下で、しかしというか、やはりというか、まるで聞き届けてもらえなかった。
アルカードの常連客同士、立花が悪戯心でちょっかいをかけても、顔のいい男には食傷しているとうそぶく本宮は元気のいいお姉さんで、ここに来るとな―んか落ち着くのよねぇ、とひとしきり喋り、しっかり食べてコーヒーを飲み、よし!充電オッケーとスタジオに戻って行く。
「なによ、わたしの腕が信用出来ないっていうの?」
「そうじゃなくて、」
今日子の訴えを無視して、アルカードの制服を脱がしにかかる。
「無理ですってば!」
本宮の手を押さえ込んで必死に言い募った。
「“葉月珪”の隣りで、モデルの真似事なんか、出来っこないです!」
学校や、休日の珪ならいざ知らず、スタジオでカメラの前に立つモデル葉月珪は、今日子からは遠い存在の人だった。
「真似じゃなくて、ちゃんとモデルするの。ほら、ちゃちゃっと脱いで。わたしに身ぐるみ剥がされたい?」
この人なら、冗談でなく本気でやると思い、泣く泣くベストのボタンを外しにかかる。
「このわたしの手にかかれば、葉月珪だろうが、誰だろうが、臆することないわよ」
フフンと、腕を組んで威張る。
「そこの衣装着て。ああ、ブラもスリップもとってね」
「ブラもですかっ !?」
つい大きな声を出してしまう。
「透けないから大丈夫。若いんだから、平気でしょ」
若いと、平気のつながりが見えません、という文句も、聞いてもらえないのは分かっていた。
覚悟を決めて、アルカードの制服を脱ぐ。
「わぁ、すてき」
赤いリボンをウエストに巻いた白いワンピースは、日常では着る機会のないと思われるデザインで、そのやわらかな手触りにも、状況を忘れて、うっとりした。
「ほら、見惚れてないで、早くなさい」
気を使って引いてくれていたカーテンの合間から、本宮が顔をのぞかせる。
下着姿でぼやぼやしている場合ではなかった。
「そこのサンダル履いてね。ヒール高いけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
着替えてカーテンを開けると、プロの視線で上から下まで値踏みされて、肌を滑るような生地の感触に浮ついていた気分が払拭される。
「う・・・ん」
いくら衣装がよくても、やっぱり無理があるんじゃないかと、視線を避けるように俯くと、クイッと、あごを持ち上げられた。
「下向いたらダメ。そこに座って」
丸椅子に座ると、大きなケープを掛けられた。
「いーい?今からわたしが、葉月珪も驚くような美人にしてあげる。だから、ぜったいに下を向かないこと。いつもアルカードで接客する時みたいに笑ってれば大丈夫。自信を持ちなさい」
鏡の中の自分の顔は、読む必要もないほど、分かりやすく無理だと訴えていて、自信は持てそうになかった。
支度を終えてスタジオに戻る間も、今日子の緊張をほぐそうとしてか、本宮はひっきりなしに話しかけてくれた。
“歩き方、ずいぶんきれいね。どこかのレッスンに通ってるの?”
“いえ、クラブで定期的に講師の方に来て頂いて、練習があるんです。”
“クラブって、手芸部じゃなかった?”
“そうなんですけど、秋の文化祭で、自分の作った服を着てショーをするのに必要で”
“ずいぶん、本格的なのね。学校のクラブでそこまでするなんて”
“去年から、花椿先生が特別顧問になってくださって。それからショーと名の付く以上、ハンパは美しくないとおっしゃって色々指導してくださってるんです”
“花椿、って、まさか、あの、”
“はい、うちの学園の理事長と親友でいらっしゃって、その縁でご助力頂いてるんです”
途中から、何を聞かれてどう答えたのか。緊張で思考能力は、殆んど止まりかけていた。
「お待たせ―っ」
本宮が元気よく扉を開けた時、再び集まった視線に、思わず下を向く。
バン!と本宮に背中を叩かれ、
「ほらっ、下向かない」
顔を上げた。
スタジオ内の人や声の中で、自分を見ている珪の姿だけが、ピントを合わせたようにくっきりと浮かび上がった。
背中を押され、自然に前に出た足が、その距離を縮めていく。
やっと、前まで辿り着き、勇気を振り絞って訊いた。
「どう、かな?」
「今日子、おまえ・・・」
なぜだか、そのまま黙る。
「へぇ・・・」
そしてまた黙る。
「やっぱり、おかしいかな・・・ほら、こんな衣装、着たことないし」
どうして黙ってしまうのか。居たたまれず、本宮の再三の言いつけを守れず、俯いてしまう。
「いや、いいんじゃないか?」
ほっとして珪を見上げると、いつもとまったく変わりない無表情のままでいた。
「似合ってる。意外にも」
「・・・・・」
休日に遊びに行く時の、普段の格好をほめてくれる時の方が、よほど熱がこもっていたように思うのは気のせいだろうか。
「はい、じゃあ、始めるよ―」
再開を促す声に、珪はくるりと背を向けた。
そのまま、スタスタと明るい照明の下へ向かって行く。
「ほら、明日香ちゃんも行って」
これから、自分もあそこに立たなければいけないのだ。
いつの間にか流されてしまったことを、今日子は本気で後悔し始めていた。



「おつかれさま」
再び、アルカードの制服に着替えて、やっと自分を取り戻した。
「ありがとうございました。本宮さん」
礼を言うと、本宮はひらひらと手をふった。
「お礼を言うのは、こっちの方よ」
いくつかポーズを変えて撮り終えるまで、小一時間もかからなかった。
「きっと、いい出来よ。楽しみにしててね」
「皆さんのおかげです。かえって、ご迷惑をおかけすることにならなくて、よかったです」
「そうね。初めは、どうなることかと思ったけどね」
済んでしまえば気楽なもので、本宮と一緒に笑う余裕もあるが、明るいライトとカメラの前に立った時は頭の中が真っ白になってしまった。
カメラマンが何か言っているのだが、思考が停止し、理解しようとしてくれない。
棒立ちになった自分の身体に腕が回され、人の肌の熱を感じた。
びっくりして振り向こうとすると、
「こら、じっとしろ」
耳元で珪の声が聞こえた。
背中から抱きしめられるそのポーズは、けれど、その腕に少しも力がこもっていなかったから、身をよじって振り向くことが出来た。
すぐ間近にある珪の顔が傾いて、緑の瞳を合わせてくれた。
「珪・・・」
「前、向いて」
「うん」
珪に任せよう。咄嗟の判断で、そう思った。
そして、自分に回されている腕を両手で掴んでしまったのは、支えてもらわないと立っていられそうになかったからだ。
それに気付いたのか、大丈夫だというように、少しだけ、腕に力をこめてくれた。
カシャカシャとシャッターが切られる。
表情が硬いと指摘されるまでもなく、頬がピクピクと引き攣っているのが、よくわかった。
目線バラしてと言われても、意味がわからない。
「カメラ見なけりゃいい」
低い声で珪が言った。
「ぼ―っとしてればいいんだ。ほら、いつもみたいに」
「う、うん」
珪の腕を掴む手が、汗で滑りそうになる。
ぎゅっと指に力を込めると、
「怖がらなくていいから」
優しいささやきが聞こえた。
ぼ―っとしてればいい。ぼ―っと。
心の中で、珪の言葉を繰り返す。
と、何かがひっかかった。
「ん?いつもみたいに?」
「ときどき、ぼ―っとしてるだろ、おまえ。あんな感じ」
ぼ―っと、って、そりゃしていないとは言わないが、
「そうかな・・・珪ほどじゃないでしょ?」
始終、ぼんやりしてる珪が言うかなぁ、と思う。
「俺が?」
すると、珪はとんでもないことを言った。
「ぼーっとしてるって?いつ?」
「いつもだよ?」
間髪入れずに返す。
「まさか」
心底、心外だというように続ける。
「俺ほど隙がないやつ、いない」
思わず、笑ってしまった。
カシャカシャとシャッターが切られ、カメラマンからOKの声がかかる。
笑ったことで緊張が解けたのが、自分でもわかった。
ああ、珪は笑わせることで、わたしをリラックスさせようとしたんだ、と気付いたら、そのやさしさが嬉しくなった。
うれしくて、その気持ちを伝えたくて、寄り添うように顔を寄せた。
また緊張したと思ったのか、
「ん?どうした?」
耳もとで、やさしく囁かれた。
「ありがとう・・・優しいんだね」
「あ、ああ」
急にそんなコトを言ったので、珪は戸惑った様子だった。
「なんだよ、急に・・・」
シャッターが切られ、今度は珪の表情に指示が飛んだ。
ああ、もうおしゃべりしている場合じゃないと、にわかに元気が出てきた。
せっかく珪が助けてくれてるのに、がんばらなきゃいけない。
回されていた腕が外され、違うポーズをとり、もうあれこれ考えずに、カメラマンの指示どおりに動いた。
嬉しい気持ちのまま、ずっと笑っていたけれど、直されなかったから、それは問題なかったらしい。
木曜日にバイトに来た時、スチル見せてあげるから楽しみにしててね、という本宮にもう一度礼を言って、スタジオを出る。
珪にも礼を言いたかったが、衣装を変えて珪一人の撮影は続いていたから、帰ってから、留守電にメッセージを残そうと思った。
しかし、その必要はなかった。
「一緒に帰ろう」
撮影を終えた珪が、アルカードに迎えに来てくれたのだ。
今までも、帰りの時間がかち合って、一緒に帰ることはあったが、迎えに来てくれたことはない。
嬉しくて、一緒に行きたかったが、まだ仕事中だったし、今日は途中長く抜けて、迷惑も掛けている。
一緒には帰れないと言うと、マスターが口を挟んだ。
「今日はもう、終わりでいいよ」
「でも、」
「慣れないことをして疲れたろう?いいから、もうあがりなさい。葉月君に送ってもらった方が、私も安心だ」
マスターが好意で言ってくれているのは分かったので、甘えることにした。本心をいえば、今日は、珪と居たかったのだ。
「すぐ着替えてくるね」
高揚した気分の余韻は、まだ残っているようだった。



「どうぞ、葉月君」
カウンターの端に掛けた珪の前に、コーヒーが置かれた。
「すみません」
「今日は大変だったね」
「いえ。あ、こちらこそ、ありがとうございました」
「いやいや、お隣さんはうちの上得意だからね。お役に立てるなら、こちらも嬉しいよ。と、これは私が言う台詞ではないかな。がんばったのは、今日子ちゃんだからね」
「・・・あいつ、すごく一生懸命でした」
「綺麗だったかい?」
さらりと訊かれたそれは、問いかけではなかった。
「はい」
答えを求められたのではなく、確認だった。
あいつなら、やれる。
そんなコトは分かっていた。
代役に今日子の名が挙がり、危ぶむ声が上がっても、珪には少しの懸念もなかった。
言い出したカメラマン助手の沢木に、まず、ヘアメイクの本宮が賛同した。
とりあえず、呼ぶだけ呼ぶか、という話になった時、絶妙のタイミングで本人が現れた。
半ば強引に本宮に連れて行かれた今日子がどのように変身してくるか、楽しみだねぇ、という声にも、珪は無関心だった。
ドレス姿も、化粧を施した顔も、去年の文化祭や二度のクリスマスパーティーで見ている。
まぁ、驚くなよと、そんな気分だった。
本宮が今日子を連れて戻り、『どう?わたしの腕前は?』と得意げにその作品を前に押し出した時。
心臓が止まった気がした。
さすがにプロの腕は違った。
亜麻色の長い髪をなびかせ、白い花のような服を身にまとい、まっすぐに歩いてくるその女性(ひと)を、珪は知らない。
(誰だ?これは)
湧き上がる疑念のような思い。
『どう、かな?』
その声を聞いて、やっと、目の前に立っているのが今日子だと認識出来た。
おかしくないだろうかと訊いてくるのに、似合っていると答えて、撮影開始の声で背を向けた。
動き出した心臓が、ドクドクと脈打っている。鎮めようと胸にこぶしを当ててみても、まるで効き目はない。
指示通りに、今日子の身体に腕を回した時、この熱は伝わってしまう、そう思った。
鎮まったのは、すがるような今日子の瞳を見た時だった。
助けを求める瞳をしていた。
『珪・・・』
小さな声が訴えるようで、急に冷静になった。
心臓は必要以上の活動を止め、頭がクリアになった。
『前、向いて』
促すと、素直に言うことをきいた。
今は動揺している時ではない。この場で、今日子が頼れるのは自分だけなのだと思うと、周りを見回す余裕も生まれた。
ハラハラしている本宮や、固唾を呑んでいる沢木の姿が目に入った。
回した腕に両手で掴まる今日子を安心させるように、少し力を込める。
自分の持っているもので、今日子に分けられるモノがあるとしたら、今がそうだった。
好き嫌いは別として、モデルとしての経験だけは積んでいる。
どんなスチルが望まれているか。それには、今日子にどんな表情をさせたらいいのか。
『ぼ―っとしてればいいんだ。ほら、いつもみたいに』
心を取り落としたような、無心の素顔、あのきれいな貌を他人に見せるのは勿体無かったが、今は見せつけたい気持ちの方が勝っていた。
ぼんやりしていると言われたのが不服らしく、それは珪の方だと心外な反論をしてきたが、そんなやりとりで笑い声を立てるとやっと緊張を解いた。
カメラマンやスタッフの心配顔が、一変して賞賛のそれに変わったのを見て、満足だった。
気持ちがほぐれたように、力を抜いてやわらかくなった身体が、心持ち、自分に預けられたような気がして、どうした?と尋ねると、あの、大好きなやさしい声で囁かれた。
『ありがとう・・・優しいんだね』
その途端、戻ってしまった。
モデル葉月珪ではなく、今日子に恋をし、その存在を求め続けているただの男に。
華奢な肩を感じた。
交叉させた腕に、やわらかなふくらみと体温を、ぴたりと合わさっている皮膚に、滑らかな肌を感じ取った。
ポーズを変える為にすぐに離れていなければ、きっと、カメラの前に心の内をすべてさらけ出してしまっただろう。
「お待たせ、珪」
大急ぎで着替えてきたらしい今日子は、見慣れたはば学の制服姿で、なぜだかほっとした。
「おまえ、やっぱり、その格好の方がいい」
「・・・で、も、制服だよ?これ」
「その方がいい」
今日子はなんとも言えぬ、複雑な表情になった。
「本宮さんにきれいにしてもらって、あんなすてきな服着てるよりも、なんにもしてない制服の、このカッコ?」
「ああ」
力を込めて頷く。
「葉月君は、そのままがいいと言ってるんだよ」
足りない珪の言葉をマスターが補完したが、今日子はがっかりした様子だった。
マスターに挨拶をして店を出た後も、じゃあ、珪が綺麗だな、って思うのはどんな女性(ひと)?ドキドキするのは?と、珍しく色々と質問してきた。
別のことで頭がいっぱいだった珪は、終始、上の空の生返事でいた。
モデルの綺麗な女性(ひと)を見ても、何とも思わないの?と聞かれた時、仕事仲間だし、別に、と答えると、疑わしそうな目で見る。
ドキドキどころか、心臓をバクバクいわせた張本人が何を言っているんだかと、珪はまったく取り合わなかった。
門の前で、今日はほんとにありがとうねと、ニコッと笑うのを見た時、サラッと髪を揺らして門の向こうへ行った時、もう一度、腕の中に引き戻したい衝動に駆られた。
バイバイと手を振った今日子は、玄関の扉の向こうに消え、カチャリとチェーンの掛けられる音まで聞こえた気がした。
胸に、腕に、リアルによみがえる感触とぬくもり。
「眠れないな、今夜」
ふり仰いだ夜の空は薄曇で、雲の中の月はほのかに明るさを示すばかり。
意気地のない、自分の心のようだと珪は思った。



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