(まだ、夢を見てるんだ)
目を開けて、珪はすぐに思った。
左腕に頬をつけて、眠っている今日子の寝顔が目の前にあった。
きっとこれは、都合のいい夢の続きなのだ。
今日子がいつも傍にいて、自分の為にくるくると動く様を見ていられて、一緒に食事をしたり、遊んだりして、眠っている時もそのぬくもりを感じ、夜中に目覚めるとその寝顔を見ることが出来る、そんなしあわせな夢。
手を延ばして、頬に掛かっている髪をかき上げてやる。
その指先に、さらさらとした髪の感触と体温を感じた。
「う・・・ん、」
ピクッと身体を震わせて、今日子が身体を起こす。
眠そうに目をこする。
寝ぼけたような瞳が珪を映した。
「あ、起きたんだね。珪」
まだ半分、眠ったような顔で、それでも、にこっと笑いかける。
ようやく、これは夢ではなく、現実なのだと珪は悟った。
「わたしまで寝ちゃったんだ。今、何時かな?」
のんびりと言って、後ろの暖炉の上にある時計を見返る。
「……22時過ぎてる」
答えは珪の方が早かった。
「えっ!」
折り良く、というか、折悪しくというか、ラグの上の今日子の携帯がバイブ音を響かせる。
飛びつくようにして取った今日子は、
「ごめんなさい!」
そのまま、相手に喋る隙を与えまいとするかのようにまくし立てた。
「わたしもうっかり寝ちゃったの!はいっ、わかってます!とにかくすぐ帰るから!」
一方的に切ってしまう。
「ごめんっ、珪、わたし帰るね」
今日子はすっかり慌てていた。
「送ってく」
「え、いいよ。近いし、大丈夫」
「大丈夫な時間じゃないだろ」
上に掛っていたものを払いのけて起き上がる。
それが自分のジャケットだと気付いて、そのまま袖を通した。
「バカだな、おまえ。なんで、起こさないんだ」
「・・・起こしたんだけど」
小さな声で今日子が答える。
「俺が起きないなら、ほっといて帰ればよかっただろ」
つかつかと部屋を横切ると、ダイニングテーブルの上に置きっ放しの鍵と、今日子のバッグを手に取り戻ってくる。
「・・・うん。そうだね」
なぜだか、今日子は動こうとしない。
「ほら、急ごう」
促すと、ソファに手をついて、のろのろと立ち上がる。
「・・・足、しびれちゃったみたい」
力が入らないのか、左足を少し引きずるようにして、俯いたままの顔を上げない。
「大丈夫か?歩けるか?」
しびれた足が痛いのか、いやにおとなしい今日子に通り一遍の声をかける。
「・・・うん。平気。急ごう、珪」
珪は気が気ではなかった。
これまで、今日子の両親には会う機会がなく、挨拶もないままきてしまっていたが、印象を悪くしない為に、必ず遅くならないうちに送り届けてきた。
きっちり門限が決まっている訳ではないが、前もって連絡を入れれば21時までは平気だというラインを、今まで苦労して守ってきたのに、最悪のカタチで破ってしまった。
『珪の家にいて、遅くなるからって連絡は入れてあるから』
この今日子の言葉は、追い討ちでしかなかった。
男の家で、一人暮らしも同然というところまで承知しているかは知らないが、とにかく、他には誰もいないだろうことが簡単に推測される状況で、二人でぼやぼや寝過ごしました、などという釈明が通るものなのか。
(ムリだ)
どんな誤解をされても、文句の言えないシチュエーションだった。
珪がどれだけぼんやりしていると言っても、3年も業界にいれば、多少なりとも無駄な知識は入ってくる。
今後一切、娘と会うことは禁ずると、怒鳴られている安直なドラマの場面までもが、片寄った知識と思い込みで混乱している珪の頭を渦巻いていた。
早足だったので、10分少々で今日子の家に着く。
外灯の下で待ち受けていたのは、今日子の母だった。
今日子の姉ぐらいにしか見えない、すらりとした背の高い美人だったと思い返したのはずっと後のことで、この時は恐いもの知らずな珪が、その女を本気で恐れていた。
「申し訳ありませんっ」
咄嗟に頭が下がった。
「俺が寝てしまったせいで、その、俺、眠くなるとすぐ寝る癖があって、今日子は悪くないんです。だから、」
例によって言葉がうまく出てこない自分が、うらめしかった。
「こんな時間まで引き止めてしまって、ほんとにすみません」
頭を上げられずにいると、クスリと、今日子の母が笑ったような気がした。
「葉月珪くん?」
「はい」
反射的に身体を起こす。
その女は、やっぱりなんだかおかしそうに笑っていた。
その表情はどこか今日子に似ていた。
「女の子が家にいるのに、眠くなったから寝るなんて、少し失礼よ。それは分かるわね」
「・・・はい。すみません」
「お母さん、あのね、それは、」
「とにかく、」
娘の言葉を遮って、判決を申し渡すように今日子の母は言った。
「今回は初回だから、許してあげます。次からは気をつけてね」
「はい。申し訳ありませんでした」
「じゃあ、今日はこれで、気をつけてお帰りなさい」
さっさと追い返されているような気がしたが、この状況ではどうしようもない。
ハラハラと心配顔の今日子を置いていくのは心残りだったが、仕方がなかった。
「電話、するから」
すれ違いざま、今日子にだけ聞こえるように低い声で囁くと、珪は家路についた。
帰り道はわびしく、家に着いて、灯りがついたままの誰もいないリビングに入ると、その思いは、いっそう募った。
いつもの癖でダイニングテーブルに鍵を置く。
やはり電気が点いたままのキッチンにはカップが2つ、温める為のお湯を満たしていて、ドリッパーはお湯を注ぐばかりにセットされていた。
モカの豆の袋が出ていて、二人で飲めるように仕度していたのだと気付く。
『・・・起こしたんだけど』
力ない今日子の声を思い出す。
珪はリビングにとって返した。
家の鍵はダイニングテーブルの上にある。
『クセなんだ。ここなら必ず目に付くし、なくならないだろ?』
『ずいぶん大きな鍵掛けだね』
初めてこの家に来た時、今日子はそう言って笑った。
『暗証番号でロックされてるの?こんな郵便受け、初めて見た』
目を丸くして、これならスペアの合鍵を入れても安心だよねと、感心していた。
自分を置いて、玄関の鍵を閉めて帰る。それが可能なことを、今日子は知っていた筈だった。
それをしなかったのは―――。
『ほっといて帰ればよかっただろ』
『・・・うん。そうだね』
俯いたまま、動かなかった今日子。
「しまった」
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