「珪、お茶、何が飲みたい?」
キッチンを片付けて、食材や料理をきれいにストックし終えたのは、20時近い頃だった。
邪魔にならないうちに、早く帰ろうと思ったのは誰だったかと、心の中で反省する。
返事がないと思ったら、ソファで長々と手足を伸ばして、珪は眠っていた。
「食べてすぐ、横になるのって、よくないんだけどな」
また、おせっかいって、言われちゃうかなと、そっと一人掛けのソファに腰を下ろす。
『おせっかい』
この一言が、胸に堪えていた。
ほんとにそうだと、振り返ってみて思う。
『何もないぞ』
そう言われた時、外に食べに行くか、買いに行くか、したらよかったのだ。
自分の得意とするところで、珪にしてあげられることがある。
そう思ったら、何も見えなくなった。
確かに、醤油瓶ひとつの冷蔵庫の衝撃もあるにはあったが、珪の為に出来ることが自分にもある、そのことのうれしさの方がはるかに大きかった。
挙句、買出しに付き合せ、キッチンで好き勝手をして好意を押し付けた。
頼まれた訳でもないのに、明らかにやり過ぎた。
珪と仲良しでいるには、踏み込み過ぎてはいけないとわかっているのに、そのことを忘れてしまった。
並べた料理を何度も、うまいと言ってくれたのは、本心からだろうけど、思ったことがすぐに顔に出てしまう自分を気遣っての言葉なんだろうな、と思う。
もっと仲良くなりたいと思うのに、この頃、なんだかうまくいかない。
あふれそうになるため息をこらえて、立ち上がる。
寝起きに飲むのが好きなんだと言った、モカを入れようと思う。
キッチンに戻ってミルを探すと、ゆっくりと豆を挽く。
はば学に来て、珪と出会って、二年の時間が経っていたが、未だに葉月珪の中で自分がどんな位置にあるのか、今日子にはつかめなかった。
珪は、自分のコトは何も話さない。
趣味や、好きなものについて訊けば答えてはくれるけれど、自分から話すことはまずない。
うっかり見えないラインを踏み越えて、
『もう、この話はやめよう』
一方的に会話を打ち切られることもある。
ずっと気に留めてこなかったそれらのことが、最近、なぜだかチクチクと胸に突き刺さるのは、なぜだろう。
前はほんとに、気にならなかったのだ。
ただ、仲良くなりたくて、初めのうちは何も考えずに誘っていた。
今思えば、誘ったのが好み場所だったからなのか、冷たくて無愛想だと噂される珪が、最初から誘いに応じてくれた。
なんだかいつも眠そうで、ぼーっとしていて、たまに存在を忘れられているような気がしないでもなかったが、少しずつ仲良くなって、珪の方からも誘ってもらえるようになった。
自分のお喋りに耳を傾けてくれて、何かしら言葉を返してくれて、もう『友達』って言っても、珪は怒らないかな、と思えるようになった。
はば学で、自分が葉月珪の彼女であると目されているのは知っていたが、そのことに珪は一切の肯定も否定もせず、まるっきりの無関心だった。
そういった噂をされることには慣れているというように、完全に無視していた。
『珪くんがあの調子なんだもの。今日子も知らん顔してれば?何言っても、みんな面白がるだけだから』
友達の綾瀬美咲の忠告に従い、何を聞かれてもはぐらかしているのは、もとより答えられないからだった。
この春、並木道の桜を見に行った時、卒業した来年の春、一緒に桜を見られると思っていない珪を知ってショックだった。
同じ一流大学に行けるかどうか、まだ分からなかったけど、歩いて15分の距離に住んでいるのに、卒業しただけで縁遠くなってしまうのかと、その程度の存在なのかと、悲しくなった。
それとも、一流に進学するのではなく、どこかへ行ってしまうのだろうかと、そんな考えが頭を過ぎったら、たまらない不安に襲われた。
だから、
『どこにもいかない』
という珪の言葉がうれしくて、卒業しても、何も変わらないのだと言ってもらえたような気がして、
『来年の桜、珪が誘ってくれなくても、わたしが誘うからね。仲良しなんだから、いいでしょ?』
初めて、“仲良し”という言葉を口にしてみた。
けれど珪はなんだか気のない様子で、
『期待してる』
そう言ったきり、黙ってしまった。
前は気にならなかった、一つ一つの出来事がチクチクと胸に痛い。
珪の言葉や態度に、一喜一憂する自分がいる。
それが、珪と仲良くなるのに、いいことなのか、悪いことなのか。
カップを温めて、挽いた豆をドリッパーに移す。
後はお湯を注ぐばかりにして、今日子は珪を起こしに行った。
「珪、コーヒー飲まない?」
名前を呼んで、そっと腕を揺すれば、アルカードではすぐに目を覚ます。
ところが、自分の家だからか、よっぽど眠かったからか、ピクリともしない。
何度か見たことのある、熟睡している時の寝顔だとわかって、今日子は困った表情になった。
家の鍵は、ダイニングテーブルの上にあった。
例えば置手紙をして、玄関に鍵を掛けて、郵便受けにその鍵を入れておく。
この家のポストは、暗証番号でロックされている。
珪の目を覚まさせることなく、帰ることは可能だった。
けれど―――。
閑静な住宅街のせいか、堅牢な家の造りのせいか、しんと静まったこの部屋で聞こえるのは、規則正しい珪の寝息だけ。
高い天井が、外の世界から切り離された水底にでもいるかのような感覚を抱かせる。
寒くもないのに、今日子は身震いした。
ダイニングテーブルの処へ行き、バッグから携帯を取り出す。
家に掛けると、珍しく、母が一番に出た。
「あ、お母さん?わたし。うん。今、葉月君のお家にいるんだけど、」
ちらっと、シルバーのプレートのキーホルダーに付いた鍵を見る。
「葉月君が寝ちゃってて、疲れてるみたいで起きないの。それでね、お家の鍵がどこにあるか分からなくて。うん、そう。玄関開けっ放しで帰る訳にも行かないから、今日、少し遅くなってもいい?」
スラスラと、こんなウソをつける自分が不思議だった。
正直というより、単に下手ですぐバレるから、ろくにウソをついたこともないのに。
なるべく早く帰りなさいよ、という母の言葉に、分かってると答えて、電話を切る。
この寂しい、静かな家に、珪を独り残したくなかった。
目が覚めた時、傍に居てあげたかった。
「いいや、おせっかいって言われても」
携帯をマナーモードに変えて、ふわりと座ったラグの上に置く。
ソファに肘をついて頬杖をつき、子供のように無防備な寝顔を見守る。
『独りで生きてくのって、けっこうキツイぞ』
ほんとは、一人でいるのがちっとも好きじゃない、寂しがりやな人。
『もう少し、一緒にいろよ』
上手く望みを言葉に出来なくて、伝えるのが苦手な人。
そんな珪を、今日子は知っているから。
だから、どんなカタチででも、珪が許してくれるうちは傍に居たいと思う。
本当は、珪の寂しさを埋めてあげられるくらい、仲良しになりたかったけど、珪がそれを望んでいるか分からなかったから、だからせめて、
「目が覚めても、独りじゃないからね。珪」
小さな声で囁く。
規則正しい珪の寝息を、今日子はずっと聞いていた。
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