まだ枠も埋めていないパズルと、ピースが淵まで詰まっている箱を前に、珪はキリキリと自分の気持ちを引き締めていた。
「要は俺さえ、しっかりしてればいいんだ」
今日子を家に呼ぶのは、去年の冬以来だった。
気楽に誘っていた頃はよかった。
あちこち出掛けるよりも家に呼ぶ方が、今日子を独り占めしているみたいで楽しかった。
けれど、だんだんつらくなった。
特に今日子が帰ってしまった後、二人でいた部屋に独りでいることは、寂しくてやりきれなかった。
それに今の自分には、誰の邪魔も入らない二人だけの空間にいることは、些か剣呑だった。
触れたいと、思っている自分がいた。
さらさらした髪に触れ、その瞳に自分だけを映し、引き寄せて、いいにおいのするその身体を腕の中に閉じ込めたくなる。
想いを告げることもせずに、そのくせ、都合のいい望みだけがどんどん膨らんで、抑えられなくなりそうだった。
「しっかりしろよ、葉月珪」
声に出して言い聞かせる。
誰に向けるでもなく、よしと独りごちて、リビングに向かう。
珪を悩ませていることも知らず、今日子は一人掛けのソファの背にもたれるようにして、ぼんやりとステンドグラスを見ていた。
こんな風に、心を取り落としたようなさまの今日子を、珪はとても綺麗だと思う。
コロコロとよく変わる表情に気を取られて、普段は見落としがちだが、今日子は整った綺麗な顔立ちをしている。
こんな風に無心な素顔をさらしている時など、思わず珪は見惚れてしまうのだった。
「気に入ったみたいだな」
喉に絡んだような声で言う。
「うん。前に来た時も思ったけど、」
目を当てたまま離さずに答える。
「とってもきれい・・・」
天井から床までの明かり取りに嵌め込まれたステンドグラスは、草花を意匠としていた。
ガラスを通した午後の光が、床の上できらきらと鮮やかな色を踊らせている。
「じいさんが作ったんだ」
「おじいさんて、泣いてる珪に本を読んでくれたおじいさん?」
「泣いてるは、余計だ」
パズルを丈の低いガラステーブルに置いて、フカフカのラグの上に直に座る。
今日子もソファをすべり下りて、それに倣った。
「そういえば、まだ、そのお話聞かせてもらってない」
「ん?」
「ほら、観覧車で。いつかそのうち、って言ったでしょ?」
確かに言った。
今日子に話していない沢山のこと、想いのすべてを告げるつもりだった。
「聞きたいな、お話」
観覧車での会話を思い出そうと、遠くを見ていた今日子の瞳が、まっすぐに珪に向く。
「お話、聞かせて。珪」
『つづき、聞かせて。けいくん』
少しずつお話をする珪に、もっともっととねだった、ちっちゃな女の子の声が思い出される。
告白には、絶好のチャンスだった。
二人だけだった。
教会の約束を果たそうと言えばいい。
どんな想いでみつめてきたか、傍にいて欲しいと希っているか、告げればいい。
けれど、珪は視線を外すと、パズルのピースを一つ取り、今日子の手に押し付けた。
「今日はパズルをするんだろ」
「・・・ケチ」
「ケチで結構」
それ以上、今日子はねだりもせず、わがままも言わなかった。
拒否すればいつも、物足りないほど、今日子はあっさりと要求を引っ込める。
今も同じだった。
「このパズルの完成図って、なぁに?」
手の中のも、箱の中も、青い色のピースばかりだった。
「空」
「・・・・・」
とすると、この処どころ走っている、白いすじのようなものは雲なのだろう。
仔猫のジグソーパズルでさえ、完成までに一年掛かった自分の手に負えるのだろうかと、今日子はパズルに目を落とした。
ゆっくり過ごしたいという、珪の望みどおり、時はゆるやかに流れていた。
一旦、集中すると、その対象に入り込んでしまう今日子は、ああでもない、こうでもないと、ピースを合わせるのに夢中になっていた。
左の頬に手を当てるのが、考え込む時の癖だった。
細い指が、ひらひらとピースの合間を行きつ戻りする。
ピンク色の爪先が、桜貝を嵌めたようだと珪は思う。
告白には絶好の機会。
それを自分の手で潰したのは、恐くなったからだった。
想いを口にしてその笑顔が曇ったら、困ったように俯いて、静かな拒絶を受けたら、この幸せな時間の何もかもが壊れてしまう。
失いたくない。
今以上の幸せを望むことより、今を失いたくない気持ちの方が勝ってしまった。
「今日は静かだね、珪」
「・・・そうか?」
いつもよりぼんやりしてるよ、とは言わず、やさしく微笑いかける。
「眠くなっちゃった?」
「いや・・・ただ・・・」
このまま時が止まればいいと考えていた。
「そうだな・・・腹、減らないか?」
途端に、今日子が声を上げて笑い出した。
「なんだよ」
「だって、」
まだコロコロと笑っている。
「珍しいね。珪がお腹すいたなんて」
暖炉の上の時計を見ると、もうすぐ16時になろうとしていた。
「そういや、お茶も出してなかったな」
お茶のことなど、すっかり忘れていた。
立ち上がってキッチンに向かうと、今日子も付いて来た。
「わたしもお手伝いするね。あ、ねぇ」
珪の腕を掴んで引っ張る。
「もしよかったら、わたし、何か作ろうか?」
なんだか、うれしそうにニコニコと言う。
「・・・何もないぞ、ウチ」
「だいじょーぶ。わたし、あるもので作るの得意なんだから。冷蔵庫、開けていい?」
まるでモデルルームのように生活感のないシステムキッチンの、クリーム色の冷蔵庫の扉に手を掛ける。
「何もないぞ」
もう一度、重ねて珪が言う。
構わず開いた今日子は、中を一目見るなり、そのまま固まった。
「な?ないだろ?」
パタンと、扉を閉めてこちらを向いた今日子の顔が引きつっている。
「ほんとだね」
ドアポケットに並ぶミネラルウォーター以外、庫内にあったのは、醤油、一瓶だった。
「珪、ふだん、何、食べてるの?」
「まあ、色々」
「色々?」
「ツナ缶とか」
クラリと、今日子はめまいを覚えた。
「・・・珪、買い物行こう」
「なぜ?」
「夕飯、作ってあげるから、ちゃんとしたご飯食べよう」
再び腕を掴まれて、強引に引っ張って行かれる。
それからは、今日子の独壇場だった。
近所のスーパーで、珪にカートを引かせ、野菜や肉、卵をどんどん放り込んでいく。
調味料も揃っているか分からないと珪が言うと、必要と思われるものをカゴに入れていく。
二人で両手に買い物袋を提げて帰ってくると、今日子はニットの袖をたくし上げて、すぐに料理に取り掛かった。
することがない珪は、所在なげに調理台の横の丸椅子に座っていた。
買い物の道々、食事は昔から通いで来てくれているハウスキーパーさんに作り置きしてもらっていることや、自分でも簡単な食事くらい作れるのだと話したが、今日子の耳に届いているか、あやしかった。
カラの冷蔵庫がそんなにショックだったのだろうかと、その衝撃の度合いがピンとこない珪は首を傾げていた。
たまにストックが途切れることなど、珪には珍しくもなかったのだ。
「なあ、これ、ぜんぶ食べる気か?」
育ち盛りの高校生二人、うち一人は男子とはいっても、買ってきた食材の量は一食分には明らかに多すぎる。
「せっかくだから作り置きしてったげる。スープとかは小分けして冷凍しておけば、好きな時に食べられるでしょ?」
引き出しや棚をあちこち開けて、まな板と包丁を探し出してくると、玉ねぎをトントンと刻み出す。
放っておかれて、珪は面白くなかった。
食事なんか作ってくれるより、一緒にパズルをやっている方が楽しかった。
だから拗ねたような表情で、ぼそりと言った。
「おせっかい」
リズミカルに包丁を操っていた今日子の手がピタッと止まる。
そのまま動かない今日子を訝しんで名前を呼ぶと、すっかりしょげてしまった様子で振り向いた。
「・・・ごめん。そうだよね、わたし、つい調子に乗っちゃって」
自分の放った一言に、思いがけず今日子が傷ついている様子に、珪は激しく後悔した。
「ごめん。そういう意味じゃないんだ、その」
まさか、ほっとかれて寂しかったからとも言えない。
「そうだ」
パッと、珪は立ち上がった。
「俺も手伝う」
「珪が?」
驚いたように今日子が訊く。
「言ったろ?俺だってちょっとは、やるんだ。何すればいい?このにんじん、切ればいいのか?」
にんじんを手に、まじめな表情で聞いてくる光景の似合わなさに、おかしくて今日子は笑ってしまった。
「じゃあ、野菜洗って」
「わかった」
両親が共に仕事をしているので、小学生の頃からご飯作りは当番制だから慣れているのだというだけあって、今日子の手際は良く、指示も出し慣れていた。
6歳下だという弟は、この調子で使われているんだろうなと思いながら、玉ねぎ炒めて、お肉に塩胡椒してと、矢継ぎ早に飛ばされる今日子の指示に従っていた。
鶏肉と野菜のトマトスープ、アボカドと海老のサラダに、くるみとチーズと干し海老を混ぜてあさつきを散らした洋風の混ぜごはん。一口サイズのコロッケが2種類と、野菜の豚肉巻きのフライ。
無駄にデカイばかりと感じていたダイニングテーブルに、それらがきれいに盛り付けられ、並べられていく。
買い物から帰った後、テーブルに放りだしてあった財布と家の鍵を端に追いやり、向かい合って席に着いた。
この食卓がこんなに華やかに彩られるのは、初めてかもしれなかった。
父がシアトルに移る前、この家に居たわずかな時も、食事の時間が一緒になることはほとんどなく、たまに同じ時に向かい合うことがあっても、気まずいばかりだった記憶がある。
「どうかな?」
心配顔の今日子の料理の腕は確かで、手芸部の合宿でも好評だと聞いている。
「うん、うまい」
「ほんと?」
お世辞ではなく、どれもみな、おいしかった。
ただ、妙に胸が詰まって呑み込むのに苦労するのは、ようやく自分も箸を取った、向かいに座る今日子の笑顔のせいかもしれなかった。
「ああ、よかった。わたし、こんなに盛り付けに気を使ったのって、初めてかも」
サラダを取り分けながら、ほっとしたように言う。
「盛り付け?味付けだろ?」
「ううん、盛り付け。だって、珪って、見た目の美しさもしっかり味わうクチでしょ?」
「それは、まあ・・・」
「ウチだと誰も何にも言わないから、盛り付ける段になって、ちょっと焦っちゃった」
「・・・俺、そんなに、うるさい男か?」
「そんなこと思ってないよ」
コロコロと微笑う。
「ただ、見た目も味もおいしいって、思ってくれたらいいなって思っただけ。うん、スープも成功!やったね!」
パクパクと、自身もおいしそうに箸を運ぶ。
森林公園に行く時など、たまに作ってきてくれるお弁当が、いつもきれいに詰められていたのを、珪は思い出していた。
今まで気付かなかっただけ。
思っていたよりもずっと多く、深く、今日子のやさしさは、自分に向けられていたのかもしれない。
あたたかい何かが、ひたひたと胸の内を満たす。
こういうのを、幸せっていうのかもしれない。
珪は思う。
ぜんぶを言葉にして伝えられたら、どんなに今日子は喜ぶだろう。
わかっているのに、やっぱりうまく言葉が見つけられない。
「うまいな」
一つ覚えのように、ただ一言を繰り返す。
うれしそうに今日子が笑うのが見たくて、何度もその言葉を繰り返した。
食事の後、洗い物だけを手伝うと、あとはわたしがするからと、済んだらお茶淹れるねと言われ、珪は素直にリビングに戻った。
珪があまり手を出さなかったので、今日子一人で苦戦したパズルが、ガラステーブルの上に広げられている。
ソファに腰を降ろし、ピースを取り上げる。
キッチンとの境は開け放っていたので、リビングに居ても、耳をすませば、水を使う音や、スリッパの足音が聞こえた。
この大きな、静かすぎる家で、誰かの気配を感じているのが不思議だった。
顔を上げて、祖父の作ったステンドグラスを見返る。
明るい部屋の中で、ガラスは外の暗さを映して沈んでいた。
灯りを消せば、月光を受けて淡い光を表すその色は、今は見えない。
この家で、幸せな家族になろうと言った祖父は家だけを珪に残し、数日後に逝った。
両親と珪のつなぎ役だった祖父を失った後、3人の家族は止めようもなく、バラバラになった。
お互い、憎んでいる訳でも、嫌っている訳でもないのに、離れてしまった。
最初からあったかどうかも分からない家族の絆を結ぶ術など、珪には分からなかった。
同じ家の中に大切な人がいて、その気配を感じていられることの幸せ。
カンタンなようで、手にするのが一番難しかった幸福が、今、珪を包んでいる。
うっとりするようなあたたかな感覚に心を委ねて、珪は目を閉じる。
父さんも母さんも、今、独りではないのか?
寂しくは、ないんだろうか?
意識を手離す間際、珪はそんなことを考えていた。
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