水橋が見守る中、明日香今日子はテストの採点を待つ生徒のカオで、立花の前にコーヒーを差し出した。
バイトの日には必ず立花がやって来るのを、自分が淹れたコーヒーの味をチェックする為なのだと明日香は思っている。
『アルカードのことを、大切に思っていらっしゃるからこそ、ですよね』
それも間違いではないが、お目当ては違う。
『今度のバイトの子は、お花みたいなコだな』
一目で明日香を気に入って、彼女にコーヒーを淹れる特訓を始めたと知るや、普段は忘れ去っているスポンサーとしての特権をにわかに要求してきて、ちゃっかり味見役に納まってしまった。
特訓中のコメントはさすがに手厳しかったが、励ましたり褒めたりする時のそれは、口説き文句と紙一重。
明日香の父親よりも年上で、相手は未成年のまだ十五歳。まさか忘れてやいまいなと、念の為にクギを刺せば、
『馬鹿にするな。俺はそんなに気短じゃない』
(あれは冗談だよな?)
旧友の良識を信じたいのだが、疑惑を捨て切れない。
「君が淹れたコーヒーを飲むと元気が出る。いつも淹れて貰えないのが本当に残念だ」
微笑を浮かべるサマは人畜無害そのものだが、現在進行形の華麗な遍歴を知る者には、胡散臭さが増すだけだ。
「ありがとうございます。立花さん」
合格点が貰えたのだと、明日香は無防備にほっとした様子を見せている。
「気負うことはないから、いつもみたいに笑っておいで」
(・・・始まったよ)
「おもてなしの基本ですね。頑張ります」
「頑張らなくても、そこに居るだけで充分だ。自信を持っていい。俺が保証するよ」
(これ、彼女が気持ち悪いと思ったら、言うところのセクハラだよなぁ)
既に神崎からは、気色悪いんで何とかして下さいと訴えられている。
「はい。私も神崎さんを見習って、マスターみたいになりたいです」
「・・・・・・・・・」
入り口近くのレジスター前に立つ神崎が、手を口に当て、わざとらしく咳き込むフリをする。
水橋が深刻にならずに済んでいるのは、この明日香今日子の天然ボケな性格のおかげだった。
『ここの制服が、誂えたみたいによく似合うね』
『制服って、よく出来てますよね。撮影所の皆さんも、もう随分前から居るように思うって仰って下さるんです』
わざとなのか?と思うくらい通じない。
ここは仕事場なのだという意識が強いせいかも知れないが、自分に向けられる好意に対して、普段から常にこうなのだとしたら、ニブい彼女に惚れた男は、気持ちを伝える表現力にありったけの術を尽くす必要がある。
(今のところの有力株は、それがすごく苦手なんだけどね)
何気なくウィンドウの外に目をやると、その有力株が歩いてくる。
いつもより随分、早いお越しだ。
「いらっしゃいませ」
迎える明日香の声にも、表情一つ変えない。
(けど、やっぱりそこに座るんだねぇ)
彼女のいない日は、まっすぐ奥の席へ行って寝てしまうくせに、カウンター端のその席が、定められた唯一の場所であるかのように落ち着いている。
「モカ、頼む」
「かしこまりました」
個人的な会話を交わすことは少なかった。
葉月はいつもの無口なまま、彼女の手許を見守るだけ。
それでも、常の冷めた印象が和らいで見えるのは、彼女へは気を許しているからなのだろう。
コーヒーの落ちる音も聞こえそうな、穏やかな空気が向かい合う二人の間に流れる。
立花が、そんな二人を面白そうに見ていた。
(まずいな)
長い付き合いで、この男の大人気なさは承知している。
自分で波風立たせておいて、
『雨降って地固まる、と言うだろ』
平然とぬかすヤツだ。
「お待たせしました」
明日香が音を立てないように、葉月の前にカップを置く。
「サンキュ」
彼女の瞳を見つめたまま、礼を言う。
返事の変わりに柔らかく微笑んだ明日香は、トレイを胸に抱いたまま傍らで、葉月がカップを傾けるのを見守っている。
ゆっくりと一口飲んで、また、彼女を見つめる。
「美味いな」
明日香は、ほっとしたように息をついてから、こぼれるような笑顔を浮かべた。
そうして、ペコリとお辞儀をし、カウンター内へと戻る。
慌てて目を逸らした先で、同じく見入っている神崎に気付いた。
立花はともかく、自分たちまでが凝視してどうする。
(それにしても、先週より仲良くなってないか?この二人)
確か、日曜日に植物園へ紫陽花を見に行くと言っていたが、もしや葉月と一緒だったのか。
日曜は天気が不安定だったから、その分、人出も少なく、ゆっくりと気持ちの通い合う時間を過ごせたのかも知れない。
(二人とものんびり屋さんだから、並んでいつまでも花を見てそうだな)
実態とはかなり違う、ほっこりした情景を想像して、水橋は微笑ましく思った。
「今日は、撮影まだ始まらないんだ。それで」
驚いたことに、葉月の方から自分のことを話し出した。
これは今までになかったことで、また、二人に目がいってしまう。
それにしても焦れったい。
いつもより早いお越しの理由は分かったが、肝心なのは「それで」の後だ。
経緯よりも、それでどうしたかったのかを伝えなければ意味がない。
(早くおまえのコーヒーが飲みたかった、って言うんだよ、葉月君)
水橋が、心の中で切れた言葉の続きを補完しているうちに、明日香の方は帰りが遅くならないといいね、などと答えている。
「・・・・・・だな」
今の間は、ナンなんだろう。
補完するのも難しい。
「俺も、もう一杯飲むかな」
無粋な男は、やはり大人しくしていなかった。
「お願い出来るかな、今日子ちゃん」
ゆるりと、葉月がその緑の瞳を立花へと向けた。
無表情のままなのに、瞳に濃い色と強い光を宿しただけで、その意思表示は強烈だった。
不快。
一言も発しなくても、そう思っているのをはっきりと伝えてくる。
感情を表わしただけなのに、威圧感まで発していて、大抵の男なら地雷を踏んだと察して退くだろうに、相手が悪かった。
「はい。ブレンドでよろしいですか?」
「そうだな」
チラッと、席二つ分空けた左隣の葉月を見る。
「たまにはモカにしてみるか」
「かしこまりました」
(立花・・・お前な)
正確に、相手の嫌がる箇所を突いてくる。
大人気ない上に、タチが悪い。
「そういえば、来月には夏休みだな。今日子ちゃんはもう、休みの計画は立ててるのか?」
「立花さん、気が早いです。その前に期末テストが控えてるんですよ」
「高校生が、遊ぶことよりテストなんか気にしちゃダメだろう。真面目に先生の言うこと聞いてると、勉強ばっかりするハメになるぞ、はば学は」
「もっともらしく、間違った道を勧めるな」
話の主導権を奪おうと、自分も割って入った。
「やるべきことをやった上での自由が、はば学のモットーだろう。大昔のことで忘れてるか知らんが、期末一回きりのテストだから、範囲が広くて大変なんだぞ」
「そうなんです。先生は普段からの予習復習を欠かさず、課題をこなして、授業を完全に理解出来ていれば、恐れることなど有りはしない、って仰るんですけど・・・」
「だったら、テスト期間中のバイト禁止令なんか出さなくてもいいだろう。つまらん慣習が出来たもんだ。ここで今日子ちゃんの淹れてくれたコーヒーを飲むのが、俺の楽しみだってのに」
「テストが終わったら来ますから、その時に是非いらして下さい。お待ちしてます」
「そうするしかないか。ま、一週間の辛抱だ。頑張るんだよ、今日子ちゃん」
「はい、ありがとうございます」
(もう、そこまでにしとけ、立花)
今日子ちゃんと、名前で呼びかける度、葉月の無表情が険しさの色をたたえていく。
わかってやっているなら、これはイジメだ。
「テストはうっとおしいが、学生は長い夏休みがあってうらやましいな。夏はイベントもあちこちであるから、よく下調べしておくといい」
「そうですね。弟がなんだか張り切ってて、今から八月のナイトパレードの話なんてしています」
「八月なら、第一土曜日の花火大会はチェックしたか?あれは年々、盛大になってて評判もいいんだぞ。夏のイベントとしてはイチ押しだ」
そうなるべく、推し進めている人間が言うと、自画自賛にしか聞こえない。
はばたき市再開発計画のプロジェクトで年中多忙な男が、いつまでここで無駄口を叩く気でいるのか。
二杯目が立花の前に置かれるのを見て、飲み終えたら即座に叩き出してやろうと決めた。
「たまにはモカも悪くないな。アルカードブレンドが、俺は一番の好みだが、今日子ちゃんが淹れてくれるなら、色々飲んでみるのも楽しそうだ」
「はい。頑張ります」
新たな課題を与えられたと思ったのか、明日香は気を引き締めたようだが、会話の輪から弾き出された格好の葉月は、両手でカップを持ったまま、表情を硬くしている。
無表情にもバリエーションがあるのかと、感心している場合ではなかった。
今日、店が終わったら立花を呼びつけ、一言注意する必要がある。
「そうだ。今日子ちゃん、よかったら一緒に花火を観に行かないか?」
ガチャンと、音を立てて葉月がカップを置く。
注意だけでは、済まされなくなった。
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