□■わびさび亭■□GS

登場人物

高校1年生

高校2年生

高校3年生

卒業後

番外編

高校1年

紫陽花 3.


「おはよう!葉月君」
遠くからでもこちらに気付いたようだと感じた途端、今日子は濡れた道を駆けてきた。
「もしかして待たせちゃった?」
「いや」
今、着いたばかりだった。
「おまえ、傘は?」
家を出る時、まだ、ぽつんぽつんと落ちていた雨は止み、珪は傘を閉じていたが、今日子は手に提げてもいない。
「私が出た時は、もう止んでたよ」
「・・・・・・・・・」
梅雨真っ只中の、空は曇天。
小ぶりのショルダーバックに折り畳み傘が入っているとは思えず、要するに、また降り出す可能性など、考えていないのだろう。
(こういうとこは、変われ)
後先考えずに行動する性格は、思い出してみれば昔からだった。
「それじゃ行こっか」
『行こ!けいくん』
幼い笑顔が重なる。
(俺、どうかしてる)
心が昔に引き戻されたままなせいで、最近、おかしなことばかり考える。
もし、あのまま、この街に居たらどうだったろうと。
(忘れたのか?こいつだって、何ヶ月か後には引っ越して、いなくなってるんだぞ)
それでも、もっと沢山遊べていたら、こいつの記憶にも残ったんじゃないかと。
(たとえ記憶に残ったとしても、俺は、あの頃の俺とは同じじゃない)
『けいくんてば、どうしてそんなに笑ってばっかりなの?』
『だって、おまえがオカシナことばっかり言うから、』
『オカシナことなんて言ってないもん!もう、けいくん笑っちゃダメっ』
「葉月君?」
気遣うような声に、現在(いま)に引き戻された。
「ね、もしかして、体調あんまり良くないの?」
心配そうに、今日子に見つめられる。
「・・・いや、なんでもない」
「なら、いいけど」
不安気な表情を残したまま口ごもる。
「中、入ろう」
そんなカオは見ていたくなくて、先に立って歩き出す。
朝から降っていた雨のせいか、入り口も中も、植物園に人は少なかった。
案内図を見ると、あじさい苑は結構、奥まった位置にあった。
春に来た時は葉桜になっていた、今は緑の並木道を歩けば、花の盛りを見逃して残念がっていた今日子を思い出す。
あの時は、また来年に来ればいいと、下手な慰めを言った。
「葉月君、」
「なんだ」
「来年の春は、桜も見に来ようね」
同じことを思い出していたのかと、少し驚いた。
「今度は前もってチェックするから。サイトで開花状況をアップしてるの、見つけたんだ」
得意気に言ったカオが、急に慌てたものへと変わる。
「もちろん葉月君が暇だったらなんだけど、ちょっと、じゃなくて、かなり気が早いよね。まだ六月なのに」
何を今更と思った。
再会してからだって、思いつきで行動する今日子を、もう結構見ている。
来春の予約くらいで、驚きはしない。
「予定組むなら早い方がいいだろ」
意外そうな表情を目にすれば、それをもっと違う、別のものに変えたくなる。
「咲いたら、教えろよ」
「・・・うん。うん!任せて!」
無邪気に笑うカオは昔とそっくり同じだったけれど、さすがに飛び跳ねはしない。
その代わり、軽い足取りが踊るようで、現金なヤツと可笑しくなった。
「今日の紫陽花もね、サイトの開花状況を見て分かったんだよ。今の見頃はアナベルっていう白い紫陽花。沢山、咲いてるといいね」
前には通らなかったルートへと折れ、進んでいくと、ようやく緑のアーチが見えてきた。
「ここから入るんでいいのかな」
案内図も立て札も見当たらない。
「行ってみよう」
こんもりと緑が繁る、ツルの絡まったアーチは、雨粒にしっとりと濡れていた。
晴れていれば、隙間から射し込む光で明るいのだろうけど、曇っている今は薄暗いほど。
すぐに抜け出るかと思えば、意外にアーチの道は続いている。
自然と寄り添うように歩いていて、手が、触れた。
「あ、ごめんね」
スッと、今日子が一歩分の距離を取る。
別に手が触れたくらいで離れることもないだろうと思いかけ、
(あっ)
前に、触れられた手を撥ねつけていたことを、その情景ごと思い出した。
(あれは、ただ驚いただけで)
触れられたことが、イヤだった訳じゃない。
けれど言い訳するには遅過ぎた。
「やっぱりこっちで良かったみたい」
出口の所に、青い紫陽花が一塊になって咲いているのが見える。
確かめようと先へ行った今日子が、アーチを抜け出たところで立ち止まった。
躊躇いながら、その隣りに立った珪も、今日子と同じく目を見張った。
小道に沿って、白い紫陽花がずっと先まで、レース飾りのように連なって咲いている。
近付いてみると、よく目にする品種よりも、一つひとつの花が小さく沢山集まって、小手鞠を思わせる丸い花房を作っている。
風が吹くと、木々の葉から零れ落ちた雨粒を浴びて、ゆらゆらと重たげに揺れた。
「葉月君、こっちに来て。すごいよ」
いつの間にか、また先に行っていた今日子が、早く早くと手招きをする。
行ってみるとそこはテラスで、思いがけず、二人が立っているのは丘の上だった。
見晴らせる斜面いっぱいに、青と白の紫陽花が咲き乱れている。
見頃も後半だというが、花の数は決して少なくない。
「そこから下に降りれるみたい」
紫陽花の葉に隠れた、木の板を嵌め込んだだけの階段を見つけるや、今日子はすぐにそちらへ回り、降りて行く。
置いて行かれそうで、珪もその後へ続いた。



何時(いつ)、雨が降り出してもおかしくない空と、ちょうど昼時のせいか人影もまばらで、その話し声も水音に消される。
給水を兼ねているのか細い小川まで引いてあり、流れ落ちる水を受ける岩場は水しぶきを上げている。
シューと空気音がしたと思えば、白い霧が煙るように立ち込めてきて、
(・・・凝ってる)
どうやら時間で、ミストの演出までしているらしい。
この街に戻って三年経つが、こんな幻想的とも言える場所があるとは知らなかった。
「葉月君」
意外な程、丈高く伸びた紫陽花の葉陰から、ひょっこり、今日子が顔をのぞかせる。
「こっちに来てみて」
手招きして、水色の花陰に隠れてしまう。  
なんだか追いかけっこをしているようだと、珪は道を進んだ。
今日子は勢い良く水が流れる場所の、珪なら二歩で渡れてしまうような橋の上に立っていた。
楽しそうな瞳を、珪の方から、今降りて来た斜面へと見上げるように移し、
「・・・綺麗だね」
うっとりと呟く。
そして、目に映る景色に心を奪われたまま、ふらふらと歩き出す。
その、足許を全く気に掛けていない様子に、珪は今日子の腕をしっかりと掴んでしまいたい衝動に駆られた。
「おい、足許」
注意を促しても、返ってくるのは生返事だけ。
板のくぼみに出来た水たまりに、声を掛ける間もなくピシャリと嵌まる。
それさえも気付いていないのか、気にしていないのか、確かめようともしない。
幻想的なこの空間で、珪の心を占めているのは今日子が足を滑らせて転ぶ前に、あの腕を捉えて、引き寄せておいた方がいいんじゃないのか、それは余計なお世話だろうか、という葛藤だった。
「葉月君、今日、来れてよかったね」
振り向いた笑顔の能天気さに、思わずため息をつく。
「・・・葉月君?」
立ち止まった今日子が、ため息の理由(わけ)を誤解しているのが分かる。
「よかったと思う。今日、来れて」
気持ちを言葉にすれば、安心したような笑顔を浮かべる。
「けど、もっと足許に気を付けろ」
関心がこちらにあるうちにと、注意したが、
「はーい」
タタッと駆けて行ってしまう。
微塵も気を付けてなどいない様で。
(ったく、こいつは)
また、たちこめてくる霧にその後ろ姿を見失ってしまいそうで、珪はすぐさま後を追った。



「えーっと、葉月君、どうかした?」
「別に」
テーブルの向かいで居心地悪そうにしている今日子を、じっと、腕を組んだまま見つめて答えると、落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
紫陽花を見ているのか、今日子を追いかけているのか分からないうちに、出口に辿り着いていた。
正確には、こちら側を入り口としていたようで、案内図も掲げられていた。
今度はこっちから回ろうと、言い出す傍から行こうとする今日子の肘をやっとの思いで掴み、
『先に昼飯にしよう』
このカフェテラスまで引っ張ってきた。
「おまえ、よく転ぶだろ」
唐突な言葉に、キョトンとする。
「転ばないよ。そんなには」
そんなにというのは、どの程度の頻度を表わすのだろう。
「つまづいたり、よろけたりは」
「それは割りとあるかも。なんでだろうね」
「・・・・・・・・・」
こんなに、注意力のないヤツだったろうか。
とんだり、跳ねたり、じっとしているのが苦手だった記憶はあるが、危なっかしさに捉まえておきたいとまでは思わなかった気がする。
(俺が変わったのか?)
つまづいてよろけるのにヒヤリとし、腕を掴もうとしたら、くるりと身を翻されて、近付いた顔にドキリとさせられた。
「あのぅ、わたし、何かしちゃったのかな」
不穏な空気を感じてか、恐る恐るといったカオでお伺いを立てられる。
「何も」
注意したところで聞いちゃいない。
自覚のない相手に何を言っても始まらないと、珪は心中、憮然としていた。
ぷっつり途切れた会話の溝を埋める、救いのようなタイミングで、頼んだ料理が運ばれてきた。
海老グラタンとローズヒップティー。
シーフードカレーとホットコーヒー。
二人とも前回と同じメニューだった。
『葉月君も、ここのシーフードカレー気に入ったんだね』
今日子は言うが、よく分からない。
不味(まず)くはなかったから同じでいい、という程度なのだ。
「・・・・・・・・・」
それが、コーヒーを一口飲んで、珪は一時停止状態に陥った。
「葉月君?」
異変に今日子が気付く。
カップをソーサーに戻した。
「・・・違う」
あまりにも足りない言葉に、今日子の方が首を傾げてしまう。
「いつも飲んでるのと」
美味(うま)くないのだ。
味も香りも、ひどく物足りない。
「いつも・・・アルカードのコーヒーのこと?」
確かめるように問われて、自分でも気付いた。
比べていたのはアルカードの、求めて得られる、変わることのない味と香りだった。
「アルカードのはホントに美味しいもんね。うん、わかる」
ランチセットに付いてくるそれと、オーダーを受けてからその都度に淹れるコーヒーとを比較すること自体、間違っているのだが、今日子はそこに触れることなく、
「いただきます」
フォークを取って、熱い湯気を立てるグラタンをすくい、美味しそうに食べ始めた。
珪もカレースプーンを取り、食事を始める。
(もしかして、)
『明日香ちゃん、頑張ったんだよ』
アルカードのマスターの言葉が思い出された。
わりに上手なのだと今日子自身も言った腕前は本格的なものだったようで、短期間の特訓で、店に出せるまでのレベルに達したのだという。
『きっと家でも沢山、練習したんじゃないかな』
あいつらしいと、その時は思うだけだったが、もしかして店でお客に出すコーヒーを淹れる、そのことを認められるのは、
(すごいことなんじゃないのか?)
最終試験が常連客相手というのも、そう考えていけば頷ける。
アルカードでも、今日子の淹れたのが飲めたらいいと、単純な発想で求めたことに、どれほどの努力で応えてくれたのか。
自分の為と思うほど、自惚れてはいない。
けれど、店で初めて淹れてくれた時も、その次の時も、美味しいコーヒーを飲ませてくれようと一生懸命なのを珪は見ている。
(おまえ、頑張ったんだな)
そう思う気持ちを伝えたくなって、言葉を探した。
「ね、葉月君がアルカードに行くようになったのって、やっぱり、お仕事始めてから?」
「まぁ、そうだな」
(すごいな、って言えばいいのか?)
いきなりそれだけ言って、伝わるのだろうか。
「お隣さん、あ、撮影所のことなんだけど、アルカードのお得意様なんだよ。デリバリー始めたのも、お隣に撮影所が出来て届けて欲しいっていう注文があったからなんだって」
(他の皆も、おまえが淹れたの、美味いって褒めてたんだぞ)
木曜日は、その話題で盛り上がっていた。
他の人間の言葉を借りるのは、どうしてか面白くなかったけれど、教えてやれば、喜ぶんじゃないかと思う。
(よし)
「そういえば、葉月君はどういうきっかけでモデルのお仕事始めたの?」
「・・・・・・・・・」
口を開こうとしたタイミングで先制され、言葉を飲み込んでしまった。
フォークを置いた今日子と目が合う。
()く様子もなく、答えを待っている。
「それは・・・」
口ごもったのは、不思議だったから。
モデルの自分に、今日子の関心はない筈なのだ。
木曜日も偶然、撮影中に今日子はスタジオに来ていた。
手早く片付ける間も、交換したポットを抱えて扉の前でお辞儀をし、出て行く時も、チラとも目を向けなかったという。
その、まるきり興味なしという態度は、後でスタッフが話しているのを聞いて、
『自信無くすなぁ』
カメラマンの横嶋が苦笑したほどなのだ。
「どうして、そんなこと訊くんだ?」
「んとね、葉月君は自分が前に出て行って目立ちたい、ってタイプには見えなくて、それに、あっ、似合ってないとかそういう意味じゃないからねっ」
子供っぽい口調で言い掛け、慌てて取ってつけたように弁解する。
「親戚が雑誌の編集やってるんだ」
案外、俺のことを見てくれているのだと、珪は思った。
「それで、怪我で来れなくなったモデルの代役、頼まれた」
疲れるばかりで、辞めることも出来ずにいるそれを、似合っていると言われても嬉しくなんかない。
「中学の、三年の冬」
「うん、それで?」
「その次の月も、頼まれた」
正確には、従妹に呼び出されて行ったら、着替えされられ、撮影が始まった。
「その次の月も」
さすがに警戒して断ったら、学校帰りに待ち伏せされて、強制連行された。
「その次の月も、」
「ちょっと待って、」
ストップを掛けられた。
「もしかして、そのままずっとなの?」
「ああ」
ついには断りもなく、特集記事の予告が打たれた。
それは従妹も承知していないことだったが、もう断れるような段階ではなかった。
カメラマンの森山との出会いや、他にも色々と思うこともあり、最終的にはやってみようと思ったのだが、今は浅かった考えを悔やんでいる。
その時は、行き詰った状態から抜け出せそうな気がしたのだが、
(ほんとに、ただの気のせいだった)
面倒が増えただけの現状を思うと、ため息しか出てこない。
「葉月君・・・・・・」
一度、目を伏せてから顔を上げた今日子は、ひどく真剣な表情をしていた。
「葉月君て、すごいね」
「・・・え?」
何を言い出すのかと思った。
今の話で褒められるようなポイントは一つもない。
「だって、自分がやりたくて始めたことじゃなくても、ちゃんとお仕事してるでしょう」
ちゃんと、かどうかは分からない。
与えられた役割をこなしているだけ、OKが出ないと帰れない、その程度の意識しかない。
「沢山、エネルギーがいることだと思うの。そういうのって。頑張ってて偉いね。すごいね、葉月君」
まっすぐな瞳は、本心からそう思っていることを伝えてくる。
疑っている訳じゃない。
今日子が、お世辞を言う筈もないと分かっている。
けれど、
「別に、それほどのことじゃない」
まっすぐな瞳から、珪は顔を背けていた。



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