『むかし、むかし、ひとりの王子が旅をしていました』
祖父がお話をしてくれる時の調子を思い出しながら、珪が語り始めて間もなく、
「ねぇ、けいくん」
今日子は最初の質問をした。
「旅をするのは、どうしていつも王子さまなの?お姫さまが旅に出ることは、ないのかしら」
まっすぐな瞳は答えを待っていて、珪は急いで、知っているお話を思い返してみた。
「ないと思う。たぶん。お姫さまは、お城や教会にいるものだろ」
「どうして?」
「だって姫は、戦えない」
「たたかえないと、旅は出来ないの?」
「もしも旅の途中でわるいヤツに会った時、戦えなかったら、つかまっちゃうだろ。そしたら、もう旅は続けられなくなる」
「そっかぁ・・・」
今日子は、しょんぼりしてしまった。
あんまり元気を無くしてしまうから、珪はとても悪いことをしたような気持ちになった。
「たたかえないと、ダメなんだね」
「あの、さ」
そんなに旅をしたいなら、王子が姫を守るから、どんなヤツからだって、きっと守ってみせるからと言おうとしたのに。
「じゃあ、しゅぎょうする」
とても真剣なカオで、今日子は宣言した。
「しゅぎょうして、つよくなって、たたかえるようになる。それなら、だいじょうぶだよね!」
すっかり元気を取り戻して、ニコニコ笑う。
「こうやってね、」
ひょいっと、椅子から滑り降りる。
「バッタバッタとわるいヤツを、たおすんだよ」
剣を持っているつもりで腕を振り回す。
“しゅぎょう”という言葉を、珪は初めて聞いたけれど、それをすれば強くなれることは分かった。
分かったが、姫が戦えるようになって、旅に出てしまったら、王子は何をしていたらいいのだろう。
今度は珪が、がっかりする番だった。
「ねぇ、けいくん、いいコト考えちゃった」
空想の剣を放り出し、ぴょんと珪の隣りに戻ってくると、床に届かない足をパタパタ揺らす。
「お姫さまも、王子さまといっしょに旅をすればいいんだよ」
「一緒に?」
「うん!ふたりいっしょなら、きっと、つよいよ。そしたら、ずっと、ずーっと、旅ができるよね」
「う…ん。そっか、一緒に行けばいいんだ」
珪は、広げている絵本に目を落とした。
この物語の王子は、いずれ遠くへと、長く苦しい旅に出る。
大好きな姫と離れて。
もう一度、めぐり逢う約束のために。
けれど二人が離れることなく、一緒に行くことが出来たなら、それはとても楽しい冒険の旅になっただろう。
その旅が綴るのは、この絵本とはまるで違う物語となってしまうけれど、王子と姫が離れることなく、どこまでも一緒に旅を続けるお話を、珪は読んでみたいと思った。
「・・・・・・くん」
でも、やっぱり王子と姫は離れ離れになった。
「・・・・・・くん、起きて」
その旅は本当に長くて、苦しくて、このままずっと、終わることはないのだと思えたのに。
黒目がちな瞳が、心配そうに、こちらを覗きこんでいる。
「もう、夕方だよ」
手を伸ばして、頬にかかる柔らかそうな髪に触れてみる。
指先をすり抜けてしまう髪の感触が頼りなくて、手の平で頬を包んでみる。
(あったかい)
瞳が、まん丸になった。
びっくりしている。
(ほんとにおまえは、あの頃のままだな)
また会えるとは、思っていなかった。
また、この街で、こんなにも変わらない今日子に逢えるとは思っていなかった。
「あの・・・目、覚めた?葉月君」
昔と違う呼び方が、現在の時間を認識させる。
「このまま寝てたら、風邪ひいちゃうよ。その、手も、冷たくなってるし」
ああ、だからか、と思う。
自分の手が冷たいから、触れている今日子の頬から伝わるぬくもりが、こんなにもあたたかい。
「葉月君?」
今日子は、どうしたらいいのか分からない、とでも言いたげなカオをしている。
早く起きないと、困らせるばかりだと手を離し、ようやく身体を起こした。
ベンチに座り直してみると、空は茜色に染まり始めて、辺りには夕方の空気が取り巻いている。
すいぶん長い間、眠っていたような気がした。
「おまえ、買い物の帰りか」
手に提げている荷物を見て、何気なく訊いた。
「どうしたんだ?」
黙ったままの頬が赤い。
「顔、赤くなってるぞ」
いつも桜色の頬が、濃い色に染まっている。
「そうだと思うけど・・・」
横を向いて、手でパタパタと顔を扇ぐ。
「いいの。気にしないで。じゃなくて、わたしも気にしてないから」
「暑いのか?」
陽も傾いて、気温も下がっているというのに。
「もう、いいから。それより、葉月君は公園でお昼寝?」
ヘンなヤツと思いながら、ひと眠りしていたと答えようとして、
「しまった」
ものすごく、とても、まずい事態に気付いた。
「またやった・・・」
目を吊り上げるマネージャーの、鬼のような形相が頭に浮かぶ。
「どうかしたの?」
また、心配そうなカオに戻った。
「いいんだ。おまえが気にすることじゃない」
「ね、もしかして、お仕事に遅刻しちゃった、なんてことは、」
「いや、」
「そうだよね。お仕事だもの、学校の授業とは違うもんね」
「遅刻っていうより、もう皆、帰っただろ。さすがに」
「えっ」
昼前に行く筈が、夕方になっている。
遅刻するなとあんまり煩かったから、日曜の朝寝を諦めて早起きして家を出たが、やっぱり眠くて、余裕を持って出た時間の分、ここで寝ていこうと横になった。
道理でよく眠ったと感じた筈だ。
もう、半日経っている。
「さすがに、って、きっと留守電とか入ってるよ。早く確かめないと」
「だろうな」
「落ち着いてる場合じゃないよ」
他人事なのに、自分の事のように焦っている。
「とりあえず、帰る」
「帰ってどうするの!電話しなきゃ」
「携帯、家に忘れてきた。道理で静かに眠れた筈だ」
「だったら、」
バッグを探って携帯を取り出す。
「これ、わたしの使っていいから、早く電話して。きっと皆、心配してるよ」
「けど、俺、向こうの番号知らない」
「えっ、そうなの?じゃあ、どうしよう」
本当に、他人のことで、なぜこうまで焦るのか。
「いいから、おまえは早く家に帰れ」
「でも、」
「そんなに心配するな。いつものことなんだ」
威張れることではないが、ほんとのことだ。
「それに、おまえには関係ない」
寝過ごしたのは自分の責任で、今日子が焦る理由など何一つない。
立ち上がろうとすると、さすがに身体が痛かった。
「起こしてくれて、サンキュ」
マネージャーに電話することを思うと、家に帰るのも気が重いが、このままここに居る訳にもいかない。
「また、明日な」
「・・・うん。また、明日ね」
今日子にしては、どこかぎこちない笑顔で、呆れられたかなと思ったが、それも仕方がないと珪は背を向けた。
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