衣替えも済んだ六月の教室。
お喋りしながら腕時計をチラッと見て、綾瀬は昼休みの残り時間を確かめた。
次の五時限目は教室移動がないから、まだゆっくりしていても大丈夫と考え、話題にしようとして、忘れていたことを思い出した。
「ね、二人に聞こうと思ってたんだけど、来週の体育祭のラストにある二人三脚リレーって何?」
お弁当の後も、寄せた机を囲んだまま、お喋りしていたのは四人。
「何って、そのまんまよ。二人三脚のペア3組でリレーするの」
問われた内の一人、中等部から持ち上がり組の宮野あいが答えた。
「なんでわざわざ二人三脚?普通にリレーでいいじゃない」
理解出来ないと言いたげな綾瀬に、もう一人の桜井彩乃が笑って答える。
「はば学の名物なのよ。確か、中等部でもやるようになったんじゃなかった?」
「二年前からね。彩乃って、転校したのは一年の時だっけ?」
「え、彩乃ちゃんて、高等部からの入学組じゃないの?」
知らなかったと今日子が言うと、
「中等部の一年に、半年だけね。だからわたしは出戻り組」
調理実習の班分けで同じグループになってから、この四人はよく、お昼を一緒にするようになっていた。
さばさばしているが実は熱い性格の綾瀬に、クールで落ち着いた宮野、ふわふわと儚げな印象でいながら一番大人びたところのある桜井。ここに、のん気で子供っぽい今日子という取り合わせは、共通するところが無いようでいて、けっこう気は合っていた。
「むかーしの生徒会長で、派手なイベント事が好きな人がいて、その時の企画が今でも残ってるんだけど、これがその内の一つ」
「二人三脚のどこが派手?」
「派手なのは、得点の入り方なの。まず、一位が50点で、」
「ちょっと待って」
綾瀬の制止を予想していたらしく、桜井は宮野と目を見交わして微笑った。
「なんでそれだけ5倍も点数がつくの?」
「お祭りらしく、最後に派手な逆転のチャンスを残しておく為なんですって」
「うちの体育祭はクラス対抗戦でしょ。当日まではそれほどでもないのに、始まった途端、けっこう、みんなムキになるから驚くわよ」
「そうなんだ。でも、最後にそんな大量得点が見込めるんなら、盛り上がるのは確実だよね」
今日子は素直に感心しているが、綾瀬は、その生徒会長は馬鹿じゃなかろうかと呆れていた。
大体、地道に積み上げてきた得点を、たった一種目でひっくり返されるかもしれないふざけたルールが、どうして受け継がれてきたのか不思議だった。
「そうなのよねぇ。せめて、普通の得点配分に直そうって意見は、生徒会でも何度か上がってるんだけど」
内心、ギクリとして宮野を見ると、お見通しといった表情で言葉を続ける。
「毎年、このラストに掛けてが一番盛り上がるから、結局、続いてるって訳」
宮野の、読心術でも会得しているのかと疑いたくなる洞察力。
つくづく侮れないと思っていても、綾瀬は決して表には出さない。
「はば学が、こんなお祭り好きな校風だなんて知らなかったな」
子供じみた負けず嫌いな性分を、十六歳の綾瀬はまだ、たっぷりと持ち合わせていた。
「外からだと進学校のイメージが強いけど、実際は卒業後の進路も色々だし、自由で居心地がよくて、わたしは好きよ」
「だから彩乃ちゃんは、はば学に戻ってきたの?」
今日子が訊くと、桜井はまるで不意を衝かれたようにうろたえて、
「・・・そう、かな」
小さく答えた。
「二人三脚リレーねぇ・・・」
朝に配られていた競技種目のプリントを取り出し、じっくりと見直していた綾瀬は、そんな桜井の様子には気付かず、イロモノな競技は避けようと決めていた。
「これはパス。なんか、面倒そう。障害物競走あたりにしとこうかな」
参加は一人、二種目まで。一つは体力測定の数値を参考に割り振られるが、もう一つは自薦または他薦による。
次の五時限目のクラスミーティングで、全員の出場種目を決定するため、各自、心積もりをしておくよう、朝のHRで言い渡されていた。
「美咲はそれがいいと思う」
宮野の言い方に含みを感じ、訊き返そうとした時、予鈴が鳴った。
途端に、教室内の其処彼処で、崩していた机の位置をガタガタと元に戻し始める音がする。
厳格な担任が本鈴と同時に扉を開いた時、机はあるべき位置に整然と並び、生徒たちは全員着席していなければならない。
今度守られていなければ、厳しい叱責の上に、反省文の提出が確定している。
高校生にもなって反省文なんて冗談じゃないと、皆、担任の言葉を遵守する方を選んでいた。
(あーあ、なんでこんな先生が担任に当たっちゃったんだろ)
頭ごなしに押さえつけられるのは不服だが、担任の言葉は正論で、反旗を翻す隙は一分もない。
綾瀬は渋々、机を直すために立ち上がった。
「げっ、ヤバっ」
予鈴に焦ったのは、屋上にいた男子たちも同様だった。
担任に限って、一度口にしたことを違えることはないと、この二ヶ月で身に染みている。
我先にと昇降口へ向かって行く中、一人、ピクリともしない男がいるのを、楠本は視界の端に止めていた。
(そのうち起きて・・・・こないだろうな。たぶん)
五時限目が始まっても戻らない葉月を、中庭に居たとの目撃証言をもとに、呼びに行かされたのは一昨日のこと。
正々堂々、授業がさぼれるチャンスと、見当たらなければすぐに戻りなさいという指示は聞き流す気で、のんびり中庭まで行ってみれば、葉月はすぐに見つかった。
花咲く中庭の一隅に据えられたベンチの上で、悠々と手足を伸ばして仰向けに寝そべり、昼寝を決め込んでいる光景を目にしたのが女子であれば、その絵のような世界を壊すことなど到底、出来はしなかったろうが、
『起きろ、葉月!おまえはどこの酔っ払いだ』
楠本は遠慮なく叩き起こした。
「おい、楠本?」
足を止めてしまった楠本に、一人が扉のところから声を掛ける。
「悪い、先、行っててくれ。すぐ追い掛ける」
答えて、Uターンした。
別に、一人でも欠けていたら全体責任、とまで言われていた訳じゃない。
ただ、ここで置いて行ったところで、どうせ後で誰かが呼びに行く破目になるのだ。
次の時間は授業ではないから、自分の時のようにロスした時間分の補習という要らんオマケは付かないだろうが、二度手間は省いた方がいい。
人形のように両足を投げ出し、フェンスに凭れて寝ている男の前に、楠本は183センチの長身を屈め、
「葉月、起きろ」
声を掛けた。
が、案の定、反応がない。
まったく、こんな姿勢でよく熟睡出来る。
首だの、尻だの、痛くないんだろうか。
「葉月、」
男を優しく起こしてやる気など毛頭ないから、左肩をつかんで揺さぶってやると、ようやく伏し折れていた頭を起こし、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと焦点の合わない瞳。
パチパチ瞬きをすると、ここはどこだったかというように、辺りを見回す。
(なんつぅ、間抜け面)
末の弟がもっと幼い時分、昼寝から揺さぶり起こした時が、こんなカオだった。
「まだ寝たけりゃ教室で寝ろ。行くぞ」
残り時間は、あと数分しかない。
どう見てもまだ寝惚けているが、全速力で屋上を出る楠本の、一応、後には付いて来る。
階段を駆け下りながら一度、振り返ると、葉月は眠そうに欠伸していた。
(モデルの仕事ってのは、そんなにキツイのか)
ガソリンスタンドのアルバイトも、予想していたよりしんどかったが、今のところ、どんなに忙しくても、翌日ここまで疲労を持ち越したことはない。
階段を降りきれば教室はすぐそこで、よし、間に合うと楽観したが、
「うっ」
既に、担任は扉に手を掛けていた。
本鈴がタイムアップを告げるように鳴り始める。
あと、30秒あれば。
楠本が反省文を覚悟した時、その名の一字にある氷のような面のまま、氷室が扉に掛けていた手を離し、後ろへと下がった。
その隙に、素早く教室へと駆け込む。
視線が集中する中を自席に着いたところで、本鈴の最後の一音が消える。
次いで葉月も席に着き、そのタイミングを計ったかのように、氷室が教室に入ってきた。
座ったばかりの椅子を引いて立ち、礼をしながら、へぇと、楠本は意外に感じていた。
融通の一切利かないカンカチコと見ていたが、案外、そうでもないらしい。
お目こぼしは、葉月を引率してきたのが理由かなと思うと、ちょっと可笑しかった。
クラス委員の荒木と桜井が前に出て、体育祭の出場種目についてのミーティングが始められた。
桜井は本鈴が鳴るまでに、既に種目を黒板に書き出しており、荒木は要点を簡潔に述べ、
「それでは、順に種目を読み上げていきますので、希望者は挙手願います」
担任教師のカラーがよく表れた流れで始められたのだが、
「まず、」
「待ちなさい」
荒木の進行を、氷室の厳しい声音が遮った。
何か誤りがあったかと、荒木が気弱げな表情で伺い見るが、氷室の視線が咎めていたのは、
(葉月・・・)
また、寝ていた。
開始5分で机に突っ伏して。
寝たけりゃ教室で寝ろとは言ったが、本当に寝ている。
「葉月、起きなさい」
その叱責は、聞いているこっちが怒られたような気になるのに、当の本人へは覚醒の作用すら及ぼさない。
「おい、葉月」
後ろの席の早野が、堪りかねて身を乗り出背中を叩く。
「・・・ん」
さすがに反応して身体を起こしたが、後ろを振り返ると、
「何?」
「何って・・・」
聞き返されるとは、早野も思わなかった。
「今は、クラスミーティングの時間だ」
蒼く冷たい怒りのオーラを立ち昇らせる氷室の言葉に、前へ向き直ったが、
(またか)
葉月より前方の位置に座る楠本は、ぼやーっとした、屋上の時と同じカオに、未だ寝惚けていると察した。
「葉月、君は自分の出場種目を決めたのだろうな」
「種目・・・」
感情の表れない目が、黒板に当てられる。
荒木が端に避け、すべての種目が確認出来るようにする。
楠本は、葉月の視線が一点で止まったのに気付いた。
「じゃあ、」
なぜか、クラス中が葉月の次の言葉を待ってしまう。
「二人三脚」
どよめきが起こった。
選択肢が、あまりにも意外過ぎる。
単独で行える競技以外を葉月が選ぶとは、誰も思わなかった。
「よろしい」
だが氷室は、この積極的とも取れる選択が気に入ったようだった。
「この種目はクラスの優勝の命運を決する。そのことは、理解しているな?」
とても理解しているようには見えないが頷く。
「では、君のパートナーだが、」
氷室は言葉を続けていたが、葉月の視線はまた、一点に向けられた。
「明日香」
「・・・えっ」
名指しされ、皆と同じく、葉月に注目していた明日香今日子が驚く。
ピタリと当てられたままの視線に、
「あの、わたし?」
確かめるように自分を指差す。
肯定を表わすが如く外されない視線に、はっきりと焦りの色を浮かべる。
「でも、わたし、二人三脚なんてやったことないし、葉月君に迷惑掛けることになったら、」
「おまえは」
戸惑いの言葉を葉月が遮る。
「出来る」
大きくも、力強くもない、淡々とした声。けれど、
「葉月君・・・」
独り言のように呟いてから、明日香今日子はその表情をキリリと引き締めた。
「わかった。頑張ってみる」
(これ、ただの二人三脚だよな)
展開する二人の訳分からん世界に、楠本はこの競技は自分の知るそれとは違うのだろうかと首を捻った。
「では、葉月君のパートナーは明日香さんで。あと二組、この種目に参加する人はいますか?」
呆気に取られているクラスメイト達へ、動じていない桜井が呼びかけると、
「はいっ、わたしも出ます!」
綾瀬美咲が手を挙げる勢いのまま立ち上がった。
「パートナーは、」
目が合ったのは、たまたまだったが、
「楠本君、いい?」
「俺で良ければ」
即座に答えていた。
なんか知らんが、
(面白そうだ)
そう思ったからだ。
「じゃあ、あと一組は、わたしと工藤君で」
次いで、宮野が手を挙げる。
「ちょっと待て、俺はやるなんて一言も」
指名された工藤は抗議の声を上げかけたが、
「だめ?」
言い方は可愛らしいが、目は笑ってない宮野に、
「参加します」
事後承諾は速やかに成立した。
「それでは、二人三脚リレーの出場者はこの六人とします。走る順番については三組で話し合って決めて下さい。次の種目、借り物競争を希望する人は挙手願います」
桜井が、氷室にすら口を挟む隙を与えないまま、さくさく進行させていく。
体育祭に格別、面白みも見出せず、楠本は早い時間の競技に参加して、後はさぼりを決め込むつもりでいたのだが、これは退屈せずに済みそうだと、一転、楽しみになっていた。
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