バイト一日目は、ものすごく忙しかった。
初日では、比較しようもない筈だが、
『今日は、お客さん多いなぁ』
なぜかマスターが苦笑したから、通常よりも今日は大変なのだろう。
それにしたって、早く仕事を覚えて慣れないことには、物の役に立てない。
集中力のすべてと脳みそをフル回転させて挑む今日子の覚えの良さに、これはほんとにアタリだと、忙しさの中にもマスターは満足して、ご機嫌だった。
「いらっしゃいませ」
ドアベルの響きに、既に条件反射となった笑顔を向ける。
入ってきたお客の顔を認めて、今日子は自分でも気付かずに、ほっとしたような柔らかな表情を浮かべた。
(ん?)
柄にもなくマスターが物見高く注目してしまったのは、葉月珪が、いつもの入り口から死角になる奥の席ではなく、カウンター左端の席へ、
「ここ、いいですか?」
律儀に了解を求めて座ったからだ。
その端の席は、脇を何度もカウンター内からフロアへと出入りする為、そんなことは気に掛けない常連客が掛ける他は、満席にでもならない限り、空いている席だった。
今ならカウンターにもテーブル席にも空きはあるのに、脇目も振らず、そこを目指した。
「いらっしゃいませ」
水とおしぼりが置かれると、
「モカをホットで。あと、ツナサンド、頼む」
明日香今日子の顔を見て、注文する。
「モカをホットと、ツナサンドですね。かしこまりました」
知り合いと見えるのに、それ以上は会話もなく、明日香今日子はオーダーを通し、教えたとおりテキパキとサンドイッチの準備に取り掛かる。
葉月珪はといえば、その働く様を興味深げに見守っていて、これも珍しい。
世の中のことすべて、自分にさえも関心なし。
マスターから見て、葉月珪とはそんな印象があったのに。
「お待たせ致しました」
モカのカップとツナサンドが前に置かれる。
葉月は、手も触れなかった。
ただ、じっとそれを眺めている。
オーダーに間違いはない筈だが、一体どうしたのかと、次のコーヒーを淹れながら気に掛けていると、
「なぁ、」
カウンターを挟んで前に立つ、同じく何かミスがあったのかと不安な様子の明日香今日子に声を掛けた。
「はい」
声から、緊張が伝わってくる。
「コーヒー、おまえは淹れないのか?」
「え?」
手許が、少し揺れてしまった。
「え、だって、あの、わたしはアルバイトですから」
言葉遣いが素に戻りかけている。
「バイトだと、コーヒー淹れないのか?おまえ、上手だろ」
プロとしての根性で手の震えは止めた。
が、俯いて、必死に堪えなければ、こみ上げる笑いが隠せない。
「葉月君、コーヒー淹れられるのはマスターと社員の神崎さんだけなんだよ」
素早く小声で答えているが、葉月は納得がいかないのか、理解しがたい様子でいる。
ここまで感情が表れるのも初めてだった。
「はい、こちら3番のテーブルにお願いします」
オーダーのブレンドを示すと、明日香今日子はすぐに意識をこちらに向け、返事をし運んで行く。
「こんばんは、葉月君」
諦めたようにカップを取り上げる葉月に、営業スマイル内ぎりぎりで声を掛けた。
「こんばんは」
いつも通りの、起伏のない声と無表情。
「彼女には、今日から来てもらってるんだけど、知り合いかな?」
「はい」
そういえば、同じはば学だったと思い出す。
「それは奇遇だね。彼女、コーヒー淹れるの上手なのかい?」
「はい」
たったそれだけ。
けれど、戻ってきた明日香今日子は赤くなった。
誉められてうれしいの半分、プロと比べられて恥ずかしいの半分、といったところなのだろう。
「それじゃあ、彼女にも教えて、コーヒー淹れてもらうことにしようか」
「えっ」
思いがけなかったのか、びっくりして、目を丸くしている。
「お店で出せるようになるかは努力次第だけど、やってみる気はあるかい?」
今、配達に出ている神崎も、求めるレベルに達しさえすれば、反対はしないだろう。
「はい・・・はい!よろしくお願いします!」
(久しぶりに特訓するのも楽しそうだし、それに)
明日香今日子の反応は予想の範疇だが、
(葉月君、嬉しそう、かな?)
客商売に慣れた目にも、僅かに感じるばかりのこの反応が、今後、どう変化していくのかにも興味がある。
励ましの一言さえ出てくることはなく、黙々とサンドイッチを食べている。そんな葉月珪に、頑張るね、というように明日香今日子は笑いかけていた。
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