「やったぁ!」
歓声が、ドア越しに聞こえてくる。
聞き耳を立てるまでもない。
朝から上の空で落ち着かず、挙動不審だった姉が意を決して、電話を掛けに部屋に籠もるまで、尽はずーっと観察していた。
よく通る姉の声が急に音量を上げたものだから、うろたえまくりの誘い文句すべてが丸聞こえで、葉月の奴、煩くて耳押さえてんじゃないかって心配になる。
「姉ちゃん、入るよ」
ノックと共にドアを開けると、携帯を手に握り締めたまま、満面の笑顔で迎えられた。
「姉ちゃん、午後、暇?」
分かっていて、聞く。
「特に予定ないけど、なぁに?」
今なら、大抵のコトは聞いてくれそうな、機嫌の良さだ。
「買い物、付き合ってくんない?はばたき駅の近くに輸入食品のスーパー出来たからさ、偵察がてら一緒に行こうよ。姉ちゃんも興味あるだろ?」
「そうだね。いいよ、付き合ったげる」
浮かれているせいか、いつも以上に思いきりがいい。
たぶん、何も考えてない。
チャンスだった。
「じゃあさ、仕度出来たら降りて来てよ。俺、父さんに言ってくるから」
「このまま行けるよ。仕度なんてないし」
「ダメだよ!」
Tシャツにジーンズ。
似合わないとは言わないが、スポーティーな格好では、姉らしさが半減する。
「ピンクのシフォンのスカートに、ビーズの花が付いた七分袖のヤツ。あれに着替えろよ。休みの日だからって、手ぇ抜くなよな。誰に会うか、分かんないんだぜ」
途中、でっかいお世話と機嫌を損ね掛けたが、最後の台詞で考え直したようだった。
たぶん、葉月と偶然会ったことを、思ったに違いない。
「もう、面倒くさいな」
口では文句を言いつつ、着替える気になっている。
「それと、昨日話した“アルカード”。近くだからさ、ついでに寄ってみようよ」
部屋を出る間際、ドアから顔だけ覗かせて言うと、ピンときたのか、すぐに反応した。
「さては、そっちが目的ね」
「さぁ、なんのコトだか、ワカリマセーン」
素早くドアを閉めてしまう。
「お姉ちゃん、コーヒーゼリーなんて、奢んないわよっ」
中で声を張り上げている。
(完璧)
これ以上ないくらい、見事に引っ掛った。
(ってか、カンタン過ぎだよ。姉ちゃん・・・)
自分で罠を仕掛けたくせに、易々と嵌まっていく姉の将来が、本気で心配になる。
(やっぱ、しっかりした、頼れる男に守らせなきゃダメだな)
でないと、お人好しで素直すぎる姉が、利用されてどんな目に遭うか、分かったもんじゃない。
とりあえず、暫定一位の男を、とっととGETして、はば学でのガード役に据えてやる。
尽は決意を新たにし、考え抜いた作戦の第二段階に着手した。
「俺はコーヒーゼリー。姉ちゃんは?同じのにする?それか、ケーキセット?俺のおごりだから、何でも好きなもの頼んでいいぜ」
「あんたじゃなくて、お父さんの、でしょ」
向かいの尽からメニューを取り上げる。
何をどう上手く言ったのか、父からちゃっかりお小遣いをせしめた尽に引っ張られるように、今日子は喫茶アルカードに連れ込まれていた。
前に、母とここで待ち合わせた時、食べたコーヒーゼリーが絶品だったとかで、何とかしてもう一回来たかったらしい。
昨夜も、パソコン貸してと部屋にやって来て、アルバイト募集の告知を見つけるや、
『姉ちゃん、アルカードでバイトしようぜ!』
勝手に一人で盛り上がった。
『姉ちゃんがここでバイトすればさ、余ったコーヒーゼリーやケーキなんか、貰って帰れるかもしんないじゃん?それか、姉ちゃんのツケで食いたい放題』
子供の発想な割りにずうずうしいのは置くとして、アルバイトの募集自体には気を惹かれた。
もとより、バイトはするつもりだったし、喫茶店で働くのにも興味がある。
実際にここへ来てみると、お店の中は、ちょっとクラシックな感じで、落ち着いた雰囲気が洒落ている。
空いている時間帯なのか、数人いるお客さん達はそれぞれ、ゆったり寛いでいる。
カウンターの向こうでコーヒーを淹れている、黒のタイを締めたマスターらしき人は、穏やかで優しそうだった。
コーヒーのいい香りが漂うこんな場所で、働けたらいいだろうなぁと思えてくる。
程なくして、尽のコーヒーゼリーと、今日子の頼んだアルカードブレンドとチーズケーキのセットが運ばれてきた。
(美味しい・・・)
コーヒー好きな両親の影響を受けて、今日子は飲むのも淹れるのも好きだった。
「姉ちゃん、チーズケーキ一口ちょうだい。俺のも一口あげるからさ」
一カケずつ交換すると、今まで食べたコーヒーゼリーの中で一番美味しくて、小学生のくせに口のおごっている尽が執着するのも分かる。
(ここでバイトしたいな)
いいな、が、したい、に変わる。
理屈より感覚で行動してしまう今日子の思考の流れは、キョロキョロと応募の方法を探す仕草に表れ、尽は姉の気が他に逸れてしまわないよう、ゆるむ口許を引き締め、静かにコーヒーゼリーを口に運んでいた。
そうして会計でレジの所へ行った時、
「あのう、すみません」
尽の描いた筋書き通り、今日子はマスターに声を掛けた。
「ネットでアルバイト募集の告知を見たんですが、まだ応募出来るでしょうか」
「はい。大丈夫ですよ」
印象そのままの、柔らかな声と話し方だった。
「わたし、明日香今日子といいます。はばたき学園の一年です。こちらで働かさせて頂くには、どうしたらいいでしょうか」
緊張した面持ちで申し出た様子に、マスターは心の中で微笑を誘われていた。
「そうですね、まず、簡単な履歴書を出してもらって面接をします。あなたの希望を伺ったり、こちらでの仕事内容を説明するためのもので、難しいことは何もありません。ただ、」
マスターは熱心に耳を傾けている今日子の顔を見守りながら続けた。
「はば学の生徒さんは、事前にアルバイト申請をして受理されてからじゃないと、ダメじゃなかったかな?」
ひどく慌てる反応が予想通りで、マスターは噴き出しそうになるのを、営業用スマイルの下に抑えこんだ。
「ああでも、たぶん大丈夫ですよ。うちは今まで何人も、はば学の生徒さんに働いてもらっていますからね。許可が下りたら、またいらっしゃい。お待ちしてますよ」
「ありがとうございます!」
嬉しくなった気持ちのまま、明るい笑顔で今日子はお礼を言った。
それはこれから3年間、アルカードの常連客を増やし続けることになる最初の笑顔で、内定を決めたマスターは、その日のうちに、上げたばかりの募集の告知を取り下げたのだった。
「ほんと、姉ちゃんて相変わらずだよなぁ。急にバイトさせてくれとか言っちゃって、俺、びっくりしたぜ」
帰り道、口先三寸の出まかせを言うと、姉はさすがに、ちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべた。
「だって、早く言わないと、他の誰かに決まっちゃうかもしれないでしょ」
それが、そうでもないんだよな、と尽は心の中で呟いた。
喫茶店の中でも、アルカードの時給は安い方なのだ。
席数もそれほど多くはなく、店はマスター一人で切り回しているようなもの。
やり手で知られる奥さんが、ショッピングモール他に出している姉妹店から、社員が一名派遣されている他は、バイトは曜日交替の一名に止めている。
つまり、時給の割りに、けっこう働かされるのだ。
「ま、姉ちゃんなら問題なく勤まるもんな。これで、ケーキもコーヒーゼリーも食いたい放題。俺って、ラッキー」
「あんたはまた、勝手なコト言って。もう、食いしんぼなのって、ゼッタイ、ウチの家系よね」
「何言ってんの?そんなの今更じゃん。姉ちゃん、休み明けたら、すぐ申請しろよ」
「言われなくても分かってます。まだ雇ってもらえた訳でもないのに、尽、浮かれすぎだよ」
浮かれたくもなる。
葉月珪をマークして、仕事先の撮影所と、その隣りにある喫茶アルカードが、毎日、スタジオからの注文で配達をしていることを突きとめ、思いついた計画。
渡りに船のバイト募集。
真面目な姉の申請が学校で却下される筈もなく、マスターとのファーストコンタクトもバッチリ好印象で、採用は決まったも同然。学校以外で葉月珪との接触をどう増やすかの課題は、これでクリア出来る。
「やったね!」
お膳立てはすべて整った。
あとは姉ちゃんの、学校じゃ見れない一面に触れ、その魅力に落ちるがいい!葉月珪!!
「尽、そんなに気に入ったの?あのコーヒーゼリー」
昨夜から、コーヒーゼリーと連呼した甲斐あって、天然ボケの姉は、なんにも気付いていない。
「そ、今んとこ、俺ん中じゃ一番なんだ」
まったく、無邪気な子供のフリをするのも楽じゃない。
いずれ、二人が付き合い出したら、この人知れぬ努力の礼として、たっぷり奢ってもらうことにしよう。
(もちろん、葉月にな)
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