リビングへのガラス扉を開けると、珪を出迎えるのはステンドグラス。
庭に面したサッシの中央に、縦長に嵌め込まれた明かり取りは祖父の作品。
個人の住宅にあるには不似合いなほど立派なそれは、この広いリビングには違和感なく調和している。
パーティーが出来る広さのリビング。それが、祖父の注文だったという。
賑やかなのが好きで、お弟子さんや仕事仲間、友人知人がひっきりなしに訪ねてきていた祖父らしい注文。
けれど、その人がいない現在(いま)、ここは無駄に広いだけの空間と化している。
もちろん、賑やかなパーティーなど、一度も開かれたことはない。第一、
(居るの、俺だけだ)
大きなダイニングテーブルに鍵を置いて、その奥のキッチンへ。
ここも、広い。
家族の誰も料理をしないのに、父親は何を考えて設計をしたのか、理解に苦しむ。
ヴァイオリニストの母親に、父は一切、家事をさせないというし、珪の記憶に強くあるのもヴァイオリンを弾いている姿だ。
父も、お湯を沸かすぐらいしかせず、珪自身も似たようなもの。
食事は昔からずっと、祖父のお弟子さんだった人の奥さんが世話をしてくれるおかげで、温めるぐらいのことしかしない。
調理台に、いつも置いて行ってくれるメモに習慣で目を当て、珪は珍しく、すぐにコンロの上にある鍋の蓋を取った。
蓋についた水滴が、中のロールキャベツに滴り落ちる。
偶然にも、夕食は同じメニューになった。
正確には、これはドイツ風ロールキャベツであって、今日子が作るクリーム煮とは味付けも全く違うのだが、珪にしてみれば大差ない。
(あいつ、楽しそうだったな)
買い物の様子を、目に見えるように話してくれた。
昔、通っていた幼稚園の話をしてくれた時も、あんなカンジだったような気がする。
よく笑うのも、プンとむくれてしまうのも、幼い頃の印象のまま、本当に変わらない。
明日もまた、ああやって笑ったり、怒ったりするカオが、沢山見られるんだろうか。
「コロッケパン、うまいのかな」
少し早いけど、夕食にしてしまおうと、コンロの火を点けた。
重い気分を持て余しながら、今日子は出掛ける仕度をしていた。
(感じ悪いと思ったよね、葉月君)
昨日、背中を向けてすぐ、落ち着かない気持ちになった。
離れるほど、その気持ちは増して、発作的に振り返り、呼び止めてしまったけれど、
“そんな言い方しなくたって!”
無表情な顔を見た途端、文句を言いたくなって、結局、子供みたいに走って逃げて来てしまった。
(わたし、何やってるんだろ)
ぶっきらぼうな珪の言い回しに、今日子はまだ慣れていなかった。
だからまともに響いて、食いしんぼだと思われたのが、恥ずかしくてならなかった。
(植物園に行った時も、腹減ってるのか、とか言われたし)
確かにあの時は、お腹空いたなぁと、思ってはいたけれど。
(葉月君て、ぼーっとしてるようにしか見えないのに、急に鋭いこと言うんだから)
よく食べるのは、ホントのこと。
(だって、うちの家族、皆いっぱい作るんだもの)
考えなしに動いてしまうのも、
(これでも、ちゃんと気付くようになったんだから。・・・失敗した時だけだけど)
昨日の夕飯も、いつものロールキャベツだと、クリーム味でじゃがいものタルトと味が被ると思い、前にネットで見たドイツ風に挑戦してみたら、失敗とも成功ともいえない微妙な味になってしまった。
バターで焼いてから、白ワインを入れて煮込むだけ。カンタン簡単と作ってみたのに。
『いつものクリーム煮にしときゃいいのにさ。姉ちゃん、思いつきでやるなよ』
偉そうに言う尽と姉弟喧嘩になりかけて、母に叱られた。
(また、ヘンなヤツ、って思われちゃったかな)
公園通りの雑貨屋で買った、白い花飾りのバレッタで髪を留める。
こういうのを好きだと言っていたけれど、
(覚えてないよね)
階下(した)に降りてキッチンへ行き、コーヒーを淹れておいたポットを取り上げる。
どこかでお茶をするにしても、連休で混んでるかもしれないし、というのは後付けの理由で、やっぱり、なんとなくの思いつきの行動。
(要らなそうなら、出さなきゃいいもん)
もっともらしく言い訳して、籠バッグに詰める。
「姉ちゃん、どっか行くの?」
リビングのTVで、ゲームに熱中しているように見えた尽が訊いてきた。
「うん、ちょっとね」
曖昧にごまかす。
ここで葉月君と約束があるとバレでもしたら、また余計なことを言われるに決まっている。
「ふうん。行ってらっしゃいっと」
これ以上、ツッコまれないうちにと、そそくさと家を出る。
そうして、玄関の扉が閉じる音を確認した尽は、ようやく肩の力を抜いて、息をついた。
「ハァ、やっと行った」
いつも身支度の早い姉が、中々、降りて来なくて、まさか中止になったんじゃ、とハラハラしていたのだ。
「姉ちゃん、うまくやれよ」
公園入り口に着いたのは、約束の5分前。
連休中で、さすがに人は多かったが、混雑というほどでもない。
(こんにちは、葉月君。昨日はゴメンね、じゃ、唐突すぎるかな)
謝るのは、まだちょっぴり癪だが、不本意ながら言われたのはホントのことだし、あの態度は良くなかった。
だからここは素直になろうと決め、どう謝ろうかと考えていた。
(今度から気を付けるね、かなぁ。もう言われたくないけど)
フクザツな乙女心を抱えて、伝えるべき言葉を探す。
スウっと、前が曇ったように翳った。
俯いていた顔を上げると、待ち人が立っていた。
「待たせたか?」
「う、ううん。わたしも、今来たとこだから」
相手が遅刻して来たことにも気付かず、首を横に振る。
じっと、視線を注がれた。
「あの、葉月君?」
「その服、似合うな」
白のチュニックに、小花柄のフレアスカート。
お気に入りの服を褒めてもらえて、単純に嬉しくなる。
「ありがとう」
「そのバレッタも、やっぱりいいな」
白い花飾りのバレッタのことも覚えていて、ちゃんと気付いてくれる。
「うん。わたしもこれ、すごく好き」
さっきまで胸を占めていた落ち着かないモヤモヤは、もうどこにもなくて、楽しい気持ちで一杯になる。
「葉月君、昨日のことなんだけどね、あの、」
「ん?ああ、コロッケパン、けっこう旨かった」
そう言う顔は無表情だったけれど、気にしてないと言ってくれているようで、蒸し返す必要はないのだと感じた。
「・・・ありがとう、葉月君」
「礼を言うの、俺だろ?サンキュ」
珪の方は、気にしてないどころか、すっかり忘れているのだが、今日子は
(葉月君、優しいな)
ほっとして、うれしくなっていた。
「芝生公園の方、行ってみるか」
「うん」
陽射しが暖かなせいか、胸の中までポカポカする。
幾つものボートが漕ぎ出している池のほとりの小道を沿うように歩いて、噴水を通り過ぎると、一面、緑の芝生が鮮やかな広場まで来た。
「芝生、いい色になったな」
「ほんと。なんだか寝転がりたくなっちゃうね」
尽がまだちっちゃくて、素直で、可愛かった頃、二人でコロコロ転がって、髪も服も芝だらけになったことを思い出す。
「天気もいいしな・・・昼寝するか」
「・・・え?」
聞き間違えたかと、表情を確かめるように見上げた。
「あの辺、あったかいんだ」
一人でスタスタ行ってしまう。
ぼーっと見送ってしまい、慌てて追い掛けた。
「葉月君、あの、寝て過ごすの?」
「ダメか?」
残念そうな雰囲気で問われた。
聞き間違えでも、冗談でもないらしい。
「ダメって訳じゃないけど・・・」
「そうか」
納得して、目指した木陰に腰を下ろし、仰向けに寝転んで、頭の後ろで腕を組む。
ともかく傍らへ座ると、
「おまえは?」
もしかしなくても、横にならないのかと訊かれている。
「えっと、わたしはいいかな」
「そうか、じゃあ」
目を、閉じてしまう。
茫然としている間に、聞こえてきたのは、すこやかな寝息。
「ほんとに・・・寝ちゃった」
今まで誰と遊びに行っても、着いたばかりで昼寝に誘われたことはない。
まして、光の速さで寝入ってしまわれたことも。
仕事の疲れが溜まっているのかとも思うが、父が倒れるように眠り込む時と比べて、
「すごく、気持ち良さそう」
眠ることを楽しんでいる表情、なんてものがあるとしたら、きっとこんなカオ。
長い睫毛を伏せた頬に、瞼に、木洩れ日がチラチラと踊っている。
手を差し掛けて、影を作った。
見上げると、風が吹くたびに、さやさやと葉が擦れて光がこぼれる。
「こんなに気持ちいいんだもの。眠くなっちゃうよね」
芝生はたぶん、午前の陽射しで温まって、フカフカ暖かい。
お昼寝タイムの人は他にもいて、のんびりゆったりした空気に誘われて眠くなる。
どちらかは起きていた方がいい気がして、眠気を振り払うように上を向いた。
陽に透ける葉の緑が綺麗だった。
(きれい・・・葉月君の瞳みたい)
「・・・あ、れ?」
前触れもなかった。
止める間もなく湧き上がった涙が溢れ、頬を伝い落ちる。
「え?・・・なんで・・・」
悲しくもないのに、ただ涙が溢れる。
「やだ・・・」
両手で目を押さえても、止まることなく、指を濡らす。
(葉月君が寝ててくれてよかった)
こんなヘンなところを見られたくない。
曇り歪んだ視界の中、バッグからハンカチを探り当てる。
「眩し、か・・・った、のかな」
訳の分からない涙に、自分でも外れている気がする理由を付ける。
この涙が止まるまで、赤くなっているだろう瞳が元に戻るまで、葉月君にはこのまま眠っていて欲しいと願った。
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