それは、ひと月前のこと。
尽は引越しを前に、様々な準備の為、父に付いてこの街に来ていた。
はば学は去年、姉ちゃんの文化祭見学に付き合ってチェック済みだったが、葉月の行動半径については、情報が不足していた。
市内の撮影所、ロケポイント、まずはこの辺りから実地検分と、尽は張り切っていた。
既に下調べ済みの、蛍光ペンのチェックや書き込みのされた地図を片手に歩く。
こうやって来てみると、はばたき市は予想以上にデートスポットだらけだった。
小学生の尽一人では、とても入れてもらえそうにない、お洒落なオープンカフェや、姉ちゃんが足を踏み入れたら最後、一時間は出て来れないだろう可愛い雑貨屋。
家から歩いて行ける一番近いところでは、森林公園なんか、いかにも好みそうな場所だった。
「この並木道を、葉月と歩く姉ちゃん」
指でフレームを作り、透かし見る。
「うん。いいじゃん、いいじゃん」
どこを取っても、ピタリとキマる。
惜しむらくは姉ちゃんの子供っぽさだが、大人な葉月が守るのだから、それはそれで絵になるってもんだ。
薄曇りの肌寒い日にも関わらず、テンションの高い尽は、ほっぺたを紅くして精力的に歩き回る。
霧のような雨が降り出したのは、父と約束した待ち合わせの時間まで、あと一時間を切ったところだった。
だからと言って、尽は焦りも困りもしなかった。
イイオトコの必須条件。
用意は周到であること。
水色の折り畳み傘を取り出し、余裕たっぷりにパサッと開く。
「げっ、マジ?」
留め金は、あるべき位置を越えて、根元まで。傘はおちょこに引っくり返ってしまった。
イイオトコの必須条件。
事前の点検と予備の用意も怠らぬこと。
頭に書き留め、手近な店の軒下に避難する。
通り過ぎたコンビニまで、走って戻れば5分。
この霧のような雨なら、たいして濡れずに行き着けるだろう。
一歩を踏み出そうとした時だった。
「あれ、って、」
天候のせいか、人もまばらな正面の横断歩道を渡って来る人。
開いた折り畳みの傘に、その明るい色の髪は隠れたけれど、視力2.0の両目で第一候補の男の顔を尽は、しっかと捉えていた。
葉月は道路を渡りきると、尽の前を、右側へと折れた。
チャンスだった。
一日目で実物に遭遇出来るなんて、大ラッキーだ。
これはもう、
(尾けるっきゃない)
雨も良識も忘れ、飛び出し掛けて、二歩で尽は踏み止まった。
目標の人物が、ピタリと足を止め、動かないのだ。
道路沿いの街路樹の根元を見据えたきり、一時停止が掛かっている。
何をそんなに、じっくり見てるんだろう。
距離を取って葉月の背後に回り込み、そこに、古びた毛糸玉のような灰色の猫を見つけた。
あんまり、可愛くない。けど、紅い首輪を付けているから、飼い猫なのだろう。
早く、あったかいねぐらに帰ればいいのに、拗ねてるみたいに、丸くなっている。
葉月が動かないのは、知ってる家の猫なんだろうか。
もっとよく確かめようというのか、葉月はその猫に近付き、手前で膝を折った。
そして、動かない。
3分は経ったと思う頃、折り畳みの傘が揺れた。
(うわぁ・・・)
尽は、目をまん丸にした。
濃紺の傘を猫に差し掛け立ち上がった葉月は、霧雨の中を悠然と去り、身体を起こした灰色の猫は、その背中をじっと見送っていた。
猫がまた丸くなったのは、葉月の後ろ姿が見えなくなってからで、尽が後を尾けるチャンスを失ったと気付いた頃だった。
走れば、追いつけるかもしれない。
迷ったが、止めにした。
代わりに、丸くなって、やっぱり拗ねてるように見える猫の許に行く。
「あのさ、傘、半分貨してくんない?」
言ってることが分かったのか、猫は少し頭を持ち上げたが、すぐにまた、丸くなる。
勝手にしろ、と言わんばかりに。
「ヘヘ、サンキュ―」
葉月の置いていった傘を分け合い、並んでしゃがむ。
「なーんかさ、意外っていうか、やられた、っていうか、うーん、そっか。こう来たかぁ。へぇ、なるほどね」
霧雨の中、尽はニヤける顔を隠そうともしない。
「葉月ってさ、もっとこう、クールなタイプかと思ってたけど、うん、いいじゃん」
ヘヘ、と笑いがこみ上げてくる。
「姉ちゃんと合うかもしんない。だってさ、今、姉ちゃんが一緒にいたら、」
たぶん、葉月と同じか、もしくは先に、丸くなってる猫に気付く。
そしておんなじように、しゃがみ込んで、
『ねぇ、雨降ってきたよ?早くおウチに帰らないと、風邪引いちゃうよ』
話し掛けるに違いない。
そしてたぶん、猫に煩がられるまで、一緒に雨宿りを始めるだろう。
「黙って傘置いてく、ってトコが、カッコイイよな。おまえの好きにしろってカンジ?うん、こういうクールさは悪くない」
姉ちゃんの、莫迦みたいに素直で子供っぽいトコ。
抜けてんじゃないか、ってくらい、お人好しなトコ。
のん気で、すぐ人に出し抜かれるけど、優しい、優しいトコ。
葉月は、わかってくれるかもしんない。
平気だよ、って、意地張って強がっても、寂しがりやな姉ちゃんのこと、守ってくれるかもしんない。
ゼッタイ、泣いたりしないように。
「イイオトコはさ、まだ他にもいるかもしんないから、あくまで仮だけど、まずは葉月狙いで行こっかな。どう思う?」
隣りの、毛糸玉に問い掛けてみる。
もぞっと身体を起こした灰色のカタマリは、
「ニャ」
ひと鳴きすると、うるさくて昼寝も出来やしないとでもいうように、タッと路地の隙間に消えた。
「よし!じゃあ、もうひと調べすっかな」
濃紺の傘を肩に差し掛け、立ち上がった。
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