「やっぱり、いいわねぇ。お正月は着物よね」
何度目かわからない洋子の言葉に笑ってしまう。
近くまで迎えに来てくれた森山仁の車に乗って、洋子のマンションに行った。
見栄を張る気力もなくして、足の痛みはもう我慢出来ないところまで来ていたから、草履を脱いだ時には、ほっとした。
振袖を、今日一番喜んでくれたのは、洋子さんなんじゃないかと思うほど、可愛い、綺麗と褒めて貰えて単純にうれしくなる。森山が写真を撮ろうと、何枚も写してくれた。
超一流のカメラマンに撮ってもらっているのだと思うと、緊張して固くなってしまったが、洋子がいいタイミングで言葉を掛け、森山が上手く合いの手を入れるものだから、楽しくなって、いつの間にかリラックスしていた。
珪とも一緒に写してもらったが、車に乗った時からずっとだんまりの人のことなんて、もう知らないと内心拗ねていたから、どんな風に撮れているか、わからない。
沢山撮ってもらった後、洋子と森山の手によるご馳走のテーブルについた。
学生の頃から一人暮らしだったという森山は、家の事は、ひと通りこなせるとのことで、
『二人でいる方が、交代要員がいて気楽だぞ』
この一言が、婚約の決め手になったのだと、洋子は笑って教えてくれた。
母の忠告は覚えていたが、それを忘れそうになるほど、食事は美味しかった。
トマトとモッツァレラのカプレーゼを一カケ、昆布じめの鯛の手鞠寿司を一つ、牛のたたきの和風特製ソース掛けを一枚。
なんてことをしているうちに、
(く、苦しい)
気付いた時には、もう、手遅れだった。
誓って、量はそんなに食べていない。
一口ずつ味見をしたくらいの、いつもの半分にも満たない量の筈なのに、はち切れそうに苦しい。
しかも、何本目かわからない紐の結び目が喰い込んでいる。
息が浅くしか吸えず、身体をまっすぐにしていられなくて、テーブルの端を掴んでいた。
急に無口になってしまった今日子の異変に、最初に気付いたのは森山だった。
「大丈夫かい?今日子ちゃん」
サービスに気を取られていた向かいの洋子も、すぐに反応した。
「どうしたの?気分悪い?」
「・・・いえ」
気分がどうのいうより、とにかく苦しくて、きつくて、どうにも耐えられなくなっていた。
「どうしたんだ?」
心配そうな珪に答えることも出来ない。
前屈みになると、胸が圧迫されて余計に苦しくなるのに、背中が痛くて、身体が起こせない。
「大丈夫か?どこか痛いのか?」
どこかも何も、痛いところだらけだった。
「洋子」
森山が洋子を引き寄せて耳打ちした。
「あ、ああ、そうね」
素早く察した洋子が席を立って、今日子の側に回った。
「いらっしゃい」
抱えられて、何とか、立ち上がる。
「今日子」
珪の呼びかけにも答えられないまま、洋子に支えられてテーブルを離れた。
「珪君」
後を追おうとした珪を、森山は引き止めた。
洋子に任せておけばいいと言っても、心配で、そんな訳にはいかないという表情でいる。
「座って、珪君。君が行っても、どうにもならないよ。むしろ、行かない方がいい」
少しきついくらいの言葉で、ようやく席に戻る。
「俺・・・また、気付けなかった」
絞り出すような苦しげな呟きに、森山は心の中で、今日子にごめんねと謝った。
「着物が苦しかったんだよ」
知られたくはないだろうと思うが、目の前の苦悩する青年を放っておくと、どこまでマイナス思考に落ち込むかわからない。
「振袖着たの、初めてだったんじゃないかな。かなり、きっちり着付けてるみたいだから、食べて苦しくなったんだよ」
「・・・どこか、具合が悪くなったんじゃ、ない?」
「このまま我慢してたら、気持ち悪くなったろうけどね」
安堵したように深く息をつく。
「恥ずかしくて決まり悪いだろうから、気が付かないフリをしてあげるんだよ」
お節介かなと思いながら付け加えると、わかりましたと答える。
原因がわかっても、戻ってこないのが不安なのか、二人が去った方を見ている。
「30〜40分は戻らないと思うよ。帯を緩めて、ちょっと休んで、着付けを直してくるんだからね」
「・・・はい」
しょんぼりと、前に向き直る。
撮影の時からは想像もつかない子供じみたこの様が、葉月珪の素の姿なのだと、たぶん、今日子もまだ知らないだろう。
「珪君」
「はい」
「一言だけ、忠告するよ」
「はい」
「眩しくて正視出来ない気持ちは、男としてよくわかるけど」
真実を突かれて、はっきりと珪はうろたえたが、構わず続ける。
「そっぽばかり向いていると、気に入らないんだって、誤解されるよ」
「俺はっ」
乱暴に椅子を引いて立ち上がった珪と、ぴったり視線を合わせる。
「いくら今日子ちゃんが優しい子でも、女の子っていうのは、基本的にあれこれ考えすぎて不安になるものだからね。ちゃんと言葉で気持ちを伝えて、不安を一つずつ取り除いてあげるのも、優しさなんじゃないかな。それが好きな女の子なら、尚のことね」
俯いて、椅子に腰を下ろす。
「・・・俺、わからないんです。どう言えばいいのか」
「上手く言う必要なんか、ないんだよ」
「いつだって、あいつから目が離せないのに、肝心なことは何も気付けない」
「彼女の方で、隠してるのかも知れないよ。だったら、わからなくても仕方ない」
どう言っても納得しがたい表情でいるのを見ていると、若いなぁ、という感慨にとらわれる。
三十を過ぎたばかりで、こんな気持ちを味わうとは、と森山は複雑だった。
「例えば洋子だけど」
すまんな、と心の中で断り、事後承諾で協力させる。
弟も同然の珪と、その次に心を寄せている今日子の為だからと言い訳をして。
「結婚して、今の生活も関係も、すべて変わってしまうのが恐いと思ってた、なんて、一見、想像つかないだろ?」
「・・・全然」
はっきりした返答に、ま、そうだろうな、と苦笑する。
「お互い仕事が忙しくて、一緒に暮らしても上手くいかなかったら、とか、結構、悩んでたんだ」
「・・・それで、どうしたんですか?」
「たくさん二人で話して、一つずつ不安材料を消していった。ま、実際は始めてみないと、わからないことの方が多いんだけどね」
「どれぐらい、かかったんですか?」
「ひと月くらいかな」
「そんなに・・・」
「いや、短かったね。僕は長期戦を覚悟してたし」
急須を取って、ポットの湯を注ぐ。
帰りも車で送る必要があるなと、森山はずっとお茶を飲んでいた。
「こわく、なかったですか?その、やっぱりダメになるかもしれないし」
やっぱりと言われては、森山としては笑うしかない。
「あいにく、僕に諦める気はこれっぽっちもなかったんでね。それに大切な人を失わずに済む為の努力なら、いくらだってするよ」
熱いお茶を注いで、珪の前に置く。
「君だって、そうだろ?」
「俺は・・・」
「どんな言葉でも、気持ちは伝えた方がいい。僕はそう思うよ」
答えは返らなかったが、森山はそれ以上、何も言わなかった。
「ほんっとに、締め付けてたのね」
あっちを緩め、こっちを緩め、とうとう帯を解いて、ようやく深呼吸の出来た今日子の姿は、落花狼藉といったところだった。
「これは苦しいわ。すぐに気付いてあげられなくて、ごめんなさいね」
「いえ、わたしが悪いんです。母からも注意されてたのに」
見栄えを優先したらしい着付けは、詰め物だらけだった。
「着物ってね、細身の人に着付けるの、難しいのよ。少し、このまま休みましょうね」
手を取って、ベッドに並んで腰掛けた。
「でも、早く戻らないと、珪が心配するから」
まだつらいに違いないのに、残してきた珪のことを心に掛ける。
「仁がいるから、大丈夫よ」
それに、心配させるくらいでちょうどいいと、心の中で付け加える。
気付かれないように、そっと今日子を盗み見ては、視線を宙に彷徨わせて落ち着きの無い珪の様子を、一部始終見ていた。
(この甲斐性無しっ)
叱りつけたい心境に、洋子はあったのだ。
「・・・なんか、すごくカッコ悪い」
泣くのかな、と思ったら、今日子はふふっと笑った。
「わたし、こんなことばっかりやってて、ほんとにカッコ悪いですね」
「経験値を上げれば、未然に防げるようになるわよ。十八で何でも完璧にこなせたら、大人組の立つ瀬がないじゃない」
「じゃあ、早く大人になれるように頑張ります」
笑った表情は前向きでよかったけれど、ずいぶんムリをしているな、と感じた。
それもこれも、あの意気地無しのせいだと思うと、ますます腹が立ってくる。
「伝えるの、やっぱりこわい?」
洋子の出した答えは、奇しくも、アリスと同じだった。
今日子にハッパをかけて告白させた方が、どう考えても早そうだと思ったのだ。
「こわいです」
まっすぐに身体を起こし、正面を見据えて今日子は答えた。
「珪は優しいから、一緒にいると、このままでもいいかなって思っちゃうけど、でも、そんなのはウソだから。このままでいいなんて、逃げてるだけだから」
凛とした横貌は、今まで見てきた中で一番、綺麗だと感じた。
「こわいけど・・・ほんとにすごくこわいけど、ちゃんと伝えようって、思います」
「いつ、そうするの?」
「大学に合格したら、春からも珪と一緒に居られるようになったら、伝えます」
「そう・・・」
「先延ばしにしてるみたいなんですけど、何か支えになるものがないと、やっぱりこわくて」
「大丈夫よ。たくさん、頑張ってるんでしょ?」
「落ちる訳には、いかないんです」
勝手な理由なんですけど、と恥ずかしそうに顔を傾けて微笑った。
「珪が落ちるかも知れないわよ?あのコ、寝ぼすけだから」
「・・・いくら珪でも、受験でまでは、寝ないと思うんですけど。・・・たぶん」
自信なげに付け加えた一言で、今日子の中の珪のイメージがどんなものか、よくわかる。
「寝坊して、すっぽかすかも知れないし」
「目覚ましコールします」
本格的に心配になったのか、きっぱり言う。
「じゃあ、わたしも電話で叩き起こすことにするわ」
顔を見合わせて、同時に笑い出す。
受験の朝、珪が二人からの目覚ましコールで、やかましく起こされたのは、こういう訳だったのである。
もう一度、着付けをし直して、来た時よりはどうしても崩れて見栄えも半減し、疲れが出て、くたびれた状態の今日子が戻ってきた時、珪はすぐに立って傍へ行った。
正面から、じっと見つめられて、今日子は恥ずかしかったけれど、
「着物が苦しくなっただけなの。心配させて、ごめんね、珪」
正直に告げた。
(そんなこと、いちいち言う必要ないのに)
洋子は焦れったく思った。
「どこか悪くなったんじゃなければ、別にいい。それに・・・すごく綺麗だ」
(珪君、タイミングも一応、考えよう)
アドバイスの仕方が足りなかったと、森山は反省した。
けれど、今日子は
「ありがとう、珪」
うれしそうに、にっこりと笑った。
(珪は、このコに引き取ってもらおう)
(珪君は、このコじゃないとダメだな)
未来のいとこ夫婦は、心の中で同じ結論に達していた。
大学受験まで、あと、ひと月半だった。
- Fin -
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