庭に面したガラスサッシに張り付いて、空を見上げている。
曇っている空は今にも泣き出しそうで、朝から何度もこうやって空を見上げている今日子の表情もまた、泣き出しそうだった。
しょんぼりとソファに戻ると、つけっ放しのテレビのチャンネルを変えていく。
画面の左上に表示されている天気予報の、降水確率はどこも50%。
今夜は花火大会だった。
雨が降れば、次週に延期になる。
ただ、それだけのこと。
けれど、この日、珪と一緒に花火を見に行くことを、今日子はずっと楽しみにしていた。
6月末の日曜に植物園へ行って以来、二人で出掛ける機会は作れなかった。
だから、本当に楽しみだった。
朝、昨日とは違う、ひんやりとした空気に、タオルケットを引き寄せ目を覚ました。
それから何度も、何度も、空を見上げている。
そんな今日子の様を、憮然と見ている者が2人いた。
父、明日香奨と、弟、明日香尽である。
「姉ちゃん・・・姉ちゃん、」
呼びかけても、ぼーっとしたままの姉の前に立ち、
「姉ちゃん!」
声を張り上げた。
「な、なに?びっくりさせないでよ、尽」
「じゃあ、一度で返事しろよ。ったく。飯の仕度、手伝って」
偉そうに腕組みして言う弟に、今日子は、ぷんと横を向いた。
「い、や。今日はあんたの当番でしょ」
「えー、いいじゃんか」
「そんな気分じゃないの。今日は夕飯作らなくていいんだから、ラクでしょ。一人でやって」
「なんだよ。自分はいつも俺に手伝わせるくせに。ケチ」
「尽?今、なんて言った?」
「今日子、」
姉弟の言い合いに、奨が割って入った。
「尽を手伝ってやりなさい」
「えー、なんで」
「二度、言わせるのか?」
娘の文句を、有無を言わさず封じる。
はぁい、と不服そうに立ち上がった。
ダイニングテーブルの椅子の背に掛けてあるエプロンを付け、本来の食事当番である尽に献立を聞く。
「パスタにしようと思うんだけどさ、ガーリックたっぷりのあさりと、キャベツとソーセージの奴と、どっちがいい?」
答えの分かりきっている選択を人の悪い笑顔で提示する弟に、
「キャベツとソーセージ」
野菜室からキャベツを取り出し渡した。
「そうだよねぇ。ガーリックはまずいよねぇ。デートに差し支えるもんね」
ニヤニヤ笑いを無視して、パスタを茹でる為の鍋を用意する。
「ただいま」
買い物に出ていた母、ゆりに、三者三様、おかえりの声が掛かる。
「今夜の花火、なんとか大丈夫そうね」
母の言葉に、えっ!と今日子が反応した。
「空が明るくなってきてるわ」
「ほんと !?」
水を張った鍋をシンクに置きっぱなしに、リビングのサッシの前に走り寄る。
「こっち側はまだ暗いわよ。それより、早く御飯にしましょ」
「うん、わかった」
さっきまでの不服顔とは打って変わって、ニコニコしてキッチンに戻る。
と、ソファに置いたままの携帯が鳴った。
飛んで戻って、取り上げる。
こぼれるような笑顔で電話に出、急いでガラス扉を開け、廊下に出て行く。
この一連の娘の行動を見ていた奨は、広げていただけの新聞を畳むと、ダイニングテーブルに投げ出した。
「とっても、意外」
仕度が出来たら呼んでくれと、書斎に戻る後を付いてきたゆりの第一声に、奨の眉間の縦皺が深くなる。
「掌中の娘を奪われた父親の反応としては、ごく穏便な方だと思うが?」
「そうかもね。でも奨が、娘の微笑ましい恋に、こんなに取り乱すなんてやっぱり意外」
夫の眉間に、ピトッと人差し指を付ける。
よしなさいと妻の手を逃れ、ライティングチェアーに掛けた奨は、本人の性格もあって30代半ばより上には見られない。
顔を出せば、今以上に本が売れるのにと、出版社を惜しがらせている整った容貌。その口許を皮肉たっぷりに歪めた。
「街中の至る所にベタベタしてる2人の写真を貼り出すような、あれのどこが微笑ましいと言うんだ」
「物書きとは思えない、歪んだ表現だこと」
『速瀬先生、あれ、お嬢さんですよね』
新はばたき駅で待ち合わせていた担当編集者に会うなり、ポスターの前に引っ張って行かれた。
どんなに装いを変えようと、父親の自分が娘を見誤ることはない。
だから緑の瞳の、やたら綺麗な顔立ちの青年に、俺だけのものだと言わんばかりに抱きしめられているあの、亜麻色の髪の娘は、我が娘に相違ないのだ。
『すごいなぁ、あの葉月珪の相手役なんて。お嬢さん、いつの間にモデルになったんですか?』
知らんっ!の一言のもとに、奨は切り捨てた。
モデルがどうのという以前に、この時、奨の脳裏を占めていたのは、いつの間にあの男とそういう関係になったんだ?という一事のみだった。
葉月珪の名にも、顔にも、覚えはあった。
はばたき市に越してくる前、
『姉ちゃんと同じ、はば学に進学するんだって』
得意げに息子が見せたのが、モデル葉月珪の特集記事だった。
『よぉし!姉ちゃんの彼氏第一候補は葉月に決めた!』
目を付けた相手を姉の恋人として品定めする真似を尽はしょっちゅう、やっていたから、
『おまえ、顔で決めたな』
あの時も、聞き流していた。
それが、いつの間に。
大好き!と言っているようなその笑顔は本当に幸せそうで、出会い頭に殴られたって、これほどの衝撃は覚えまいと、ショックで頭がグラグラした。
打ち合わせの内容は、何も覚えていない。
飛んで帰った奨は、
『バイト先の縁で、ちょっとお手伝いしただけ』
もうこれきりのことだからと、娘に切り捨てられた。
それ以上の追求は、一切受け付けないと撥ね付ける、頑とした態度も初めてのことで、ショックは倍増した。
「一年の時からずっと同じクラスで、よく二人で遊びに行ってるのに、気付かないあなたがぼんやりなのよ」
この件に関して、妻は同情を寄せるどころか追い討ちを掛けるばかりで、慰めてもくれない。
「中学じゃ、あの子は誰とも、個人的な付き合いはしなかったじゃないか」
「いつまでも子供じゃないってコトでしょ。大体、葉月君のどこがそんなに気に入らないっていうの?」
読書用の、ゆったりとした一人掛けのソファで、優雅に足を組んでいる妻は楽しそうに言う。
「顔がいいだけの馬鹿でもなし、手足が長いだけの運動音痴ってこともなく、お家も裕福なのに学生のうちから働いて、真面目ないい子じゃない」
「君が言うと誉めてるように聞こえない」
「容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、世界を舞台に活躍するご両親を持ち、自身も有名モデルで何不自由のない身の上。あと、何があったかしら?」
言い換えてまで、茶化しにかかる。
「そこまで揃うと嫌味だな」
その手には乗らないぞと、奨は苦い顔のまま言った。
「何もかも持ってるくせに、この上、俺の娘までだと?欲張るのも大概にしろ」
欲張るというなら、確かに今の葉月珪は、己の心の欲するところに忠実となっていた。
ただひとつ望む存在に、手を伸ばそうと頑張っていた。
約束の時間を、3時間も早める電話を掛けた。
頂き物の、ばら寿司を、一人じゃ食べきれないから早めの夕食を一緒に、と誘った。
同じシチュエーションで、去年は、自分の分を取りわけ洋子の元に持って行ったが、今回はすぐに今日子を呼ぼうと思いついた。二人だけで居たいという望みのままに、敬遠していた家へ呼ぶことも、ためらわなかった。
勝負に出た人間は結構、強くなれるものだと、自分に余裕すら感じていた。
けれど―――。
(・・・・・・)
玄関の扉を開け、浴衣姿の今日子を一目見た途端、その余裕はどこかへ行ってしまった。
去年とは違う、藍色の浴衣に身を包んだ今日子は、いつもと違って、ひどく大人びて見えた。
「お招き、ありがとうございます」
かしこまって、そんな風に言う瞳は笑っていたけれど、乱されたペースは復調してくれない。
「珪?どうしたの?」
首を傾げると、チリンと、鈴の音がした。
「あ、ああ、上がれよ」
玄関先で突っ立っている場合ではない。
珪は今日子を招き入れた。
動揺が表に現れないのが、珪の一番の敗因と言ってよかった。
「座って。麦茶でいいか?」
「うん。ありがとう」
ソファに今日子を残し、キッチンへと一時、退却する。
2つのグラスにカラコロと氷を放り込み、麦茶を注ぐ。
冷蔵庫にペットボトルを戻し、バタンと閉め、
「よし」
珪は気合を入れ直した。
リビングに戻り、今日子の前にグラスを置く。
自分も一人掛けの方に座り、まずは一口、麦茶を飲んだ。
新調の浴衣が似合っていると誉めようとして、
「珪は今年、浴衣着ないの?」
先制された。
「・・・後で着替える」
「あ、そっか。浴衣って、けっこう暑いもんね。シャツとジーパンの方が涼しい?」
「たぶん」
シーンと、会話はそこで途切れてしまった。
「・・・えっと、あの、麦茶、頂きます」
沈黙に耐えかねたように、今日子がグラスに手を伸ばした。
会話の取っ掛かりを求めて、誉め損なってしまった浴衣にちらっと視線を向け、珪は気付いた。
「どうした?この手」
問いかけと、今日子の左手を掴んだのが同時だった。
白い手の甲一面に、赤い跡が点々とある。
「ちょっと火傷しただけ」
視線を避けるように今日子は手を引こうとしたが、珪は掴んだ手首を離さなかった。
「どうやったら、こんな火傷の仕方するんだ」
人差し指と親指の間の、薄い皮膚の所が一番大きく赤く、あとは雨だれの跡のように、点々と赤い染みが出来ている。
「ティーポットにお湯を注ぐ時、ちょっと手許が狂って。でも、ちゃんと冷やしたし、別に大丈夫だから」
「ドジ」
「うっ、それ、尽にもお父さんにも言われた」
「だろうな」
手を離し、ちょっと待ってろと、珪は立ち上がった。
中二階の自室へ行き、薬箱から火傷に効く塗り薬を取り出す。
水ぶくれになるほど酷くはなかったことに、安堵はしていた。それでも、どうしてこう、あいつは抜けてるんだと、心配と腹立ちがごちゃまぜになった感情に心をかき乱される。
リビングに戻ると、今日子は右手を重ねて、左手の甲を隠していた。
そんな子供じみた仕草に、いつもの今日子を見つけておかしくなる。
隣りに掛け、強引に右手を除けて、左手を引き寄せる。
「この薬、よく効くから」
薄くのばすように、慎重に赤い染みの上に薬を塗っていく。
「跡が残ったら、どうするんだ。ちゃんと気を付けろ」
言葉ほど、もう機嫌を悪くしてはいなかったが、今日子は拗ねたような表情になった。
「珪、お父さんと同じこと言う」
「そうか。意見が合うな」
手を離すと、さっと引いて、袂で左手を隠す。
今更、意味があるのか?それ、と笑いたくなる。
袂に描かれている花は、桜のような薄紅色だが、花びらは先が細く裂いたようになっていた。
「これ、何の花だろう」
珪の呟きに、
「撫子」
小さな声で今日子が答えた。
「いいな。おまえに似合う」
「・・・ありがとう」
チリン、と鈴の音がした。
その音を追って、珪は今日子の髪にある和飾りに気付いた。
「それ、付けてくれたんだな」
手を伸ばして、スッと引き抜く。
チリンと、鈴が鳴る。
藍色を基調とした蒔絵の和飾りには、小さな鈴が一つ、付いていた。
さっきから鳴っていたのは、この鈴だったのだ。
「これを付けて花火に行こうって、珪が言ったんだよ?」
「そうだったな」
偶然見つけて、一目で気に入った。
きっと似合うと思ったが、誕生日でもないのに贈り物をしていいのか、受け取ってくれるだろうかと迷った。
手にした和飾りに見入っている珪に、たまたま店に入ってきた綾瀬美咲が気付き、後押しされて買い求めた。
その足ですぐ、渡しに行くよう励まされ、今日子の家を訪ねると、心配は杞憂に終わり、嬉しそうに受け取ってくれた。
「髪、まとめるのに苦労したろ」
再び、髪に挿してやりながら言う。
「うん。少し伸ばさないと、文化祭で困るかもしれない」
自分でも髪に手をやって、乱れを確かめている。
「そういえば、今年は何を作ってるんだ?」
「内緒」
やっと、会話が紡がれ出したのに、そんな意地悪を言う。
「内緒にしたって、当日、見ればわかるじゃないか」
「じゃあ、見に来て」
上げた顔が、思いがけず近くて、珪はドキリとした。
「今年で最後だし、頑張って作るから・・・だから珪、見に来てくれる?」
「ああ。必ず行く」
即答すると、ありがとうと微笑う。
その微笑みに触れたくて、膝の上にあった筈の右手が今日子に伸ばされた時、遠慮のない携帯の着信音が鳴り響いた。
二人して、飛び上がった。
電源を切っておかなかったことに歯噛みしながら、テーブルの上の携帯を取り上げる。
マネージャーの高坂から、明日の仕事の時間変更を告げる連絡だった。
長期の休み中は、曜日限定の法則は、しばしば崩される。
短いやりとりで打ち合わせを終えると、珪は通話を切り、ついでしっかりと、電源も切った。
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