朝から、珪は放課後のことばかり、考えていた。
帰り道の途中にある、いつもの紅茶専門店もいいが、ショッピングモールまで足を延ばすのも悪くない。
公園通りにオープンしたというカフェに、偵察に行かないかと言えば、あいつはきっと、面白がって乗ってくるだろう。
そんな思案を楽しく巡らせていたので、うっかり、忘れてしまっていた。
肝心の今日子を誘うことを。
それでも、珪は余裕だった。
月曜日はクラブもバイトもなく、大抵、まっすぐ帰宅するのを知っていたからだ。
放課後、日誌を提出して戻ってきた今日子を、いいタイミングで、教室に入る前につかまえた。
「もう帰るだろ?」
問いかけというより、念押しの台詞に答えようとした今日子の視線が、あ、と口を開けたまま、珪の後ろに流れた。
何かが、つむじ風のように自分の横を通り過ぎた、と思った次の瞬間、
「帰ったわヨ!元気だった?」
ごっつい腕に、今日子を奪い取られていた。
学校内で、人目も憚らずこんな真似をしてのける人間は一人しかいない。
「花椿先生っ」
がっちり抱え込まれ片手で後頭部を撫で撫でされている図は、大男が仔猫を愛でているようなもので、色気とはきっぱり無縁ではあった。
廊下を行く他の生徒も、教室内から様子を窺っているクラスメイトも、また掴まってるよ、というように笑っている。
が、目の前で今日子を抱き取られた珪は、ショックで声も出なかった。
「お帰りは、週末の筈では、」
花椿の拘束から必死にもがいて抜け出した今日子の息がぜいぜいと上がっているのは、苦しかったのと、びっくりしたのと両方の為だ。
「アラ、不満なの?」
「そういうことではなくて」
「じゃ、いいわネ。行きましょ!」
「へ?」
右腕を捕らえて組まれる。
「サッ!行くわヨ!」
「えっ、ちょっ、ああもう、美咲っ」
こんなことだろうと、鞄を持ってきた綾瀬が投げるように渡した時、花椿はもう、今日子を引きずるように歩き出していた。
十秒経たないうちに、今日子の姿は廊下を曲がって見えなくなった。
「相変わらず、派手にさらわれてるわねぇ」
感心する綾瀬の横で、呆然と珪は呟いた。
「うそだろ」
何が怖いと言って、花椿の運転する車に乗ることぐらい、怖いことはない。
数人、付いている秘書兼運転手の姿がドライバー席にないのを見て、覚悟を決めてシートベルトを締めた。
運転が荒い訳ではない。
ただ、注意力がおそろしく散漫なのだ。
『前見てください!前っ!』
オフィスに着くまでに、何遍、叫んだか分からない。
最上階の広い部屋に辿り着いた時、秘書の一人、吉森が駆け寄り、同情の眼差しで今日子を見た。
断って、ソファに崩れるように沈み込み、吉森が差し出したグラスを受け取る。
「大丈夫?」
申し訳なそうな吉森の表情で、今日子には、花椿が思いつきで、はば学までやって来たのだと分かった。
「隣りに並べてあるから、手前から順に着て見せて頂戴」
花椿一人がノリノリで、慌ててグラスの水を飲み干し、続き部屋へのドアを開けた。
この、通称、“お手伝い”をするようになって、もう一年以上になる。
高校一年の3学期のある日、遭遇した花椿のイメージを広げるのに役立ったとかで、以来、何かというと呼び出されるようになった。
二年になって、花椿が手芸部の特別顧問に就任したことで、接触の機会は更に増え、振り回されまくっている。
吉森の手を借りて、鮮やかなオレンジ色の花が描かれているドレスを着付け、爪先立ちしているのと変わりないようなヒールに足を滑らせる。
完成している服を着せられることは、珍しい。
大抵は、裁断もしていない生地のまま、肩から流し、ハンガーよりはまし、という時の方が多い。
綺麗なドレスを身に纏うのは単純に楽しくて、さらわれるように連れてこられたのも忘れて、花椿の元へ戻った。
デスクに座る花椿の前に、立つ人が居た。
腰まで波打つ栗色の髪が、まず目に入った。
長身で、膝上のミニスカートから伸びる足の格好がきれいだった。
花椿の視線を追うように、こちらを振り向く。
(うわぁ、きれいな人)
整った顔立ちは、葉月珪と通じる、クオーターかハーフであることを確信させた。
その美人は、探るような目で今日子を見ていたかと思うと、つかつかと歩み寄ってきた。
重心が全くぶれない滑るような動きが、彼女がプロのモデルであることを今日子に悟らせる。
濃く淹れた紅茶を思わせる琥珀色の瞳の、射抜くような視線に合って、たじろいだ。
「あなた、双子の姉妹いる?」
出し抜けの質問に、すぐには反応出来なかった。
「いるの?」
強い口調に気圧され、無言で首を振る。
どうしてか、苛立ちと不満の感情をぶつけられていると感じた。
「ふーん」
値踏みするような視線で、上から下まで眺められ、
「ヘンな子」
きっぱり言い切られた。
「失礼なコト、言わないの」
花椿が咎めた。
「だって、見る度に別人なんだもの。なんでこんなに、コロコロ印象変わる訳?ヘンじゃない」
指を指され、状況が把握出来ず、戸惑っていた今日子も、さすがにムッとした。
「何なんですか?あなた一体、」
今日子の負けん気を感じたのか、その美人は面白そうに、そして少し意地の悪い、笑みを浮かべた。
「アリス。自分が誰の代役をしたかも知らないの?」
その夜、珪は、今日子の電話を待っていた。
留守電を入れたのは夕方で、今はもう、夜の22時を過ぎているというのに、掛かってこない。
心待ちにしていた今日子と過ごす時間を目の前で奪い取られて、珪の気持ちは収まりがつかなかった。
一人きりの夕食を済ませ、少ない食器を片付け、部屋に戻る。
指輪のデザインを描き始めてみたが、まるで集中出来ない。
門限の21時を回っても着信音が鳴らない時点で、珪はペンを手離した。
嫉妬している訳ではない。
花椿が今日子を構うのは、創り手として、今日子という素材を気に入っているからだと、承知はしていた。
素材という言い方は今日子に失礼かもしれないが、同じ、モノを生み出そうとする側の人間として、惹かれる気持ちはよくわかった。
買い物に付き合った時、まるで似合いそうにない服をふざけて勧めたことがある。
『本気で言ってる?珪』
途方にくれる表情を面白がりながら、だったらこの服が似合うのは、それを引き立てるアクセサリーはと、イメージを巡らせるうち、帰ってから、何枚もデザイン画を書き散らした。
薄紅の桜の花びらを受ける白い手、小手鞠のような紫陽花の上に屈むように寄せた横顔、銀杏の葉をくるくると回す細い指。
時には、その印象から溢れてくる何かをつかまえて、形にしたくなった。
この一年、今までにないほどデザイン画を描き、作品を仕上げた。
たぶん、花椿も似たような感覚を味わっているのだろうと思う。
着信音が鳴り響き、珪の心臓は軽く飛び跳ねた。
わざとゆっくりとした動作で携帯を取り上げる。
「はい」
我ながら、愛想のない声だった。
「遅くなってごめんね、珪」
着信に気付いたのが遅くて、今、帰ってきたところという言葉に、花椿に寄せる理解は容易く嫉妬へと変わった。
大人だからといって、門限を遙かに越えて拘束するほど、好き勝手をしていいのかと腹が立った。
「夕食を一緒に、って誘われて」
そんな時間になる前に帰せと、口には出さず、毒づく。
「話が全然、途切れなくて、こんなに遅くなっちゃった」
「おまえが一方的に聞かされてたんだろ」
あの強烈なパワーに押されて、いつまでも付き合っているお人好しの図がカンタンに浮かぶ。
「ううん。たぶん、わたしが一番、喋ってた」
意外な答えが返ってきた。
「それでね、わたし、つくづく思ったんだけど」
しみじみと言う。
「あのアリスの代りにわたしを使うなんて、無茶もいいとこよ。珪、どうして止めてくれなかったの?」
そうして、花椿のオフィスでアリスに会ったこと、いつものお手伝いの後、3人で食事をし、話しているうちに、すっかり遅くなってしまったのだと聞かされた。
「今日会ったばかりで、よくそんなに話すことがあったな」
人見知りしない性格は知っていたが、アリスはそんなに話が弾む相手だったか、と思い返す。
確か、やたらとツンケンした、高慢ちきな女だったような印象がある。
仕事はきっちりこなすから、別に性格など、どうでもよかったが、話して楽しい相手とも思えない。
「えーと、その、ほら、やっぱり女の子同士だから」
お喋りの内容には突っ込まれたくないのか、急に歯切れが悪くなる。
話の内容に興味があった訳ではない珪は、それよりもと、本題を切り出した。
「今週の日曜、何か予定あるか?」
先手必勝。予約は早く入れろと珪は学習した。
「うん。花椿先生に、今週の土日は空けておいてネ、って言われてる」
「・・・・・」
既に先手は打たれていた。
「おまえ、水曜と金曜は部活だったよな」
「そうだよ」
火・木は自分も仕事で、今日子もバイトで、つまりは、今週の予定はすべて埋まってしまったのだ。
「来週の日曜」
「え?」
「来週の日曜の予定は?」
「何もないけど」
「じゃあ、予約。俺と付き合えよ」
思わず、命令口調になった。
これ以上、横取りされては、堪るものではない。
「あの、どこに?」
「どこでもいい。おまえの行きたいとこで」
「わたしの?なんで?」
訳が分からないという反応に、適当な候補を幾つか挙げて選ばせた。
「じゃあ、来週の日曜は植物園な」
また明日、と電話を切った時、約束を取り付けたにも関わらず、珪は落ち込んでいた。
まだ、月曜日だった。
来週の日曜といえば、二週間近くもある。
そのことに、文句を言うことも出来ないのが、友達というポジションなのだった。
「どうしたんだろ、珪」
首を傾げつつ、階下へと下りる。
強引な誘いのわりに、だいぶ先の約束をする理由が分からない。
ヘンなの。
不思議に思いながら、今日子はその理由を追わなかった。
すぐにベッドへもぐり込みたいくらい、クタクタだったからだ。
お風呂だけは入ろうと降りてきたが、湯船で居眠りしてしまいそうだった。
「プロのモデルさんて、体力あるんだなぁ」
早朝から仕事だったというアリスは、送ってもらった車の中から、またね!と元気一杯に手を振っていた。
反感を剥き出しに、ピシピシ、きつい言葉を投げつけられた時は、どうしようかと思った。
イギリス人の母の血を色濃くひいたというアリスは、日本人離れした顔立ちとスタイルの持ち主で、こんな綺麗な人の代わりを自分が、という事実に、気を悪くするのもムリはないと納得してしまった。
おしゃべりは止めてこっちに来て、と花椿に呼ばれたせいで、アリスの挑発には水が差された。
品定めするような視線を背中に感じ、ビクビクしていたら、花椿に叱られた。
こっちに集中して!と前からもプレッシャーをかけられる。
もう知らない、と今日子にしては珍しい開き直りで、花椿の指示に従った。
一通り済んだ時には、いつもの3倍は疲れていて、すぐにも帰りたかったが、
『さ、食事に行きましょ』
有無を言わさず、連れ出された。
当然のように一緒に来たアリスは、車の中ではそっぽを向いていて、どう接したらいいのか分からない。
ホテルの地下フロアにある中華の店に着くと、すぐに個室に通され、3人で円卓を囲んだ。
「アリスはね、自分がいなくても問題なく撮影が進んだのがショックなのヨ」
料理のオーダーの後、花椿が爆弾を落とした。
「別にショックなんてっ」
すぐに反応してしまったのが肯定を意味し、今日子と目が合ったアリスは、プイと顔を背けた。
「そんなコト、当たり前じゃないネェ?」
相槌を打つ訳にもいかず、視線を避けて俯く。
「だって、じゃあ、葉月珪はどうなのよ。さんざん待たされた挙句、すっぽかされたこと、何回あったか!」
「あのコはトクベツよぉ。代わりが利かないでしょ」
口にしている内容のキツさに、こっちの胸が苦しくなってくる。
大体、今日、帰国したばかりという花椿が、なぜ、代役の一件を知っているのだろう。
「アラ、アタシの耳に入らないことなんて、ある訳ないでしょ」
心を読んだかのようなタイミングに飛び上がった今日子を、花椿は面白そうに見た。
「よかったワヨ。アレ」
もうスチルまで見ているのかと、赤くなったり、青くなったりしている今日子をよそに、
「あったりまえでしょ!」
なぜか、アリスが請け合った。
「このわたしの代わりなのよ?その辺の適当なド素人にやられてたまるもんですか!」
その辺のド素人であることを自覚する今日子は、ますます縮こまった。
「それで、わざわざ、はば学まで見に行ったって訳?」
驚いたのは、今度はアリスも同じだった。
「・・・あの、わたし、ちっとも気付かなかったんだけど」
「気付かれないようにしてたの!」
何を言っても、今日子の返答へは、!がつく勢いになる。
「素人くさくないわりに、プロっぽくもない。パッと見、地味かと思えば、そうでもないし、衣装一つで雰囲気別人でしょ。この世の終わりみたいな顔で歩いてるかと思えば、次の日にはぶっちぎりで走ってるし。あなたみたいに印象コロコロ変わる人、見たことない。ほんとに、双子の姉妹とかいないの?」
まだ、その可能性を捨て切れていないらしい。
誓って6歳下の弟だけと答え、いつ、はば学に来たのかを聞いてみた。
「水曜と金曜と土曜の体育祭」
それで分かった。
水曜日は、まだ珪に想いを気付かれたことを知らなかった。
金曜日は二人三脚の練習で、組んだ腕や身体の触れた部分から、珪の突き放すような拒絶を痛いほど感じ取って、絶望していた。
土曜日の体育祭から、必死に吹っ切ろうとしているけれど、ちっとも上手くいっていない。
心をコントロールすることの出来ない自分の印象が、その都度、違って見えたというのも、的外れな指摘ではないのだ。
「大体、葉月珪が悪いのよ」
何も知る筈がないアリスの言葉にドキっとした。
「わたしもう、葉月珪とは仕事したくないって言ってあったのに、また組まされてうんざりだったのよ?それなのに、わたしが来れないとなったらカンタンに別の人間と組むなんて、失礼だわ!」
「言い出したのは、沢木クンと聞いてるけど?」
アリスはグッと詰まった。
アルコールは頼まず、薫り高いジャスミンティーを楽しんでいる花椿は、すべての成り行きを把握しているらしい。
(怖い・・・怖すぎる)
学内の噂話にも疎い今日子には、花椿の情報網がどんなものやら、想像もつかない。
「・・・言い出したのが誰だって、同じよ。葉月珪に振り回されるのは、もうゴメンだわ」
ここでやっと、アリスの腹立ちの本当の対象は、珪なのだと今日子は気付いた。
「寝過ごしたとか言って撮影すっぽかして、それも公園で寝てたら夕方だったとか、他人のこと馬鹿にしたウソまでついて、ほんっと、腹立つったら」
「それ、ウソじゃないよ」
思わず、声を上げていた。
キッとアリスに睨まれた。
「なによ、庇うの?」
「珪はウソつけるほど器用じゃないもの!寝過ごすのなんか、しょっちゅうだし、眠くなったら場所なんて選んでないし。公園のベンチで寝てるとこ見つけて起こしたら、またやった、って、撮影に遅刻どころか、もう皆帰ってる時間だ、って言ってたこともほんとにあったから」
女の子二人が言い合う様に、挨拶を兼ねて自ら前菜を運んできた店長が、個室の入り口で足を踏み入れ兼ねている。
構わないからと、花椿が促した。
「じゃあ、なに?」
立ち上がらんばかりの勢いで、アリスは身を乗り出した。
「葉月珪は、眠けりゃ、時も場所もお構いなしだって言うの?」
「うん」
その通りなので、今日子は頷いた。
「ウソばっかり!」
「ほんとだってば!」
珪はウソつきではないことを証明しようと、今日子は納得してもらえそうな事例を頭の中で探し、そして見つけた。
「眠かったからって、期末テストの最中に寝ちゃって、0点取るくらいなんだから!」
しんと、その場は静まり返った。
そうして、個室の外にまで聞こえる花椿の大爆笑が響き渡った。
何も聞かなかったと、店長は足早に去り、この後、サービスにはすべて彼自身が当たり、他の者をこの部屋に近づけさせなかった。
「やっぱり・・・まずかったよね」
テスト中に寝るなんて有り得ないと疑うアリスに、無理矢理起こして中途半端に悪い成績を残させるより、いっそ赤点で追試を受けさせた方が良い成績を残すからと、はば学の教師たちは匙を投げていること、珪を叱って叩き起こすのは、もはや担任の氷室一人であると、懸命に説明した。
葉月珪はウソつきではないと説いている筈が、いつの間にか、いかに珪が寝ぼすけか、という証明に変わっていた。
花椿は終始笑いっぱなしで、アリスも終いには納得した。呆れて怒る気も失せた、と言った方が正しいのかも知れないが。
サッと、髪と身体を洗って、もう一度、湯船につかる。急に、眠気が襲ってきた。
タオルで包んだ髪から、ついと雫が首筋を伝う。
短い髪は洗うのがラクで、小さい頃からずっとこの髪型だった。変えようと思ったこともないのに、アリスの栗色の波打つ長い髪を思い出したら、急に羨ましくなった。
「お姫様の髪みたいだったな」
呟いてから、自分の発想の単純さに笑ってしまう。
撮影の時に付けた、亜麻色の髪のウィッグも素敵だった。
白い服に合っていて、お化粧もしてもらって、自分じゃないみたいだった。
「でもあれは、アリスが着る筈だったんだよね」
そして、珪が腕に抱いて、スチルを撮るのも。
ズキンと、思いがけないほどの痛みを覚える。
「ダメ!寝ちゃいそう」
ザバッと、水音を立てて、湯から上がった。
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