夕食には早く、お茶には少し遅い時間。
葉月洋子が待ち合わせに指定した店に着いた時、入り口で順番待ちをしているのは、女の子が一人だけだった。
珈琲も軽食も美味しいので、最近、評判の店だったから、混んでいるだろうと思ったが、ちょうどいいタイミングに当たったらしい。
後から来るもう一人と待ち合わせだと、店員に
「葉月です」
名前を告げた時、前に並んでいた女の子が振り向いた。
目が合ったのは、ほんの2~3秒で、その女の子は恥らうように視線を外し、うつむいた。
思わず、洋子は微笑んだ。
(可愛い子ねぇ)
という感想には、その女の子の外見に対する賞賛も含まれていた。
肩に付くか、付かないかくらいの、さらさらした素直そうな髪。ほんのり桜色の透明感のある肌、表情に深みを持たせる長い睫毛と大きな瞳。顔立ちは整っていて、お化粧次第でどんな風にでも印象を変えられるのでは、と思わせた。
これだけのことを、洋子はその僅かな間に見て取った。
目を引いた子をチェックしてしまうのは、ファッション雑誌の編集という職業柄、と洋子は思っているが、恋人は、
『君の場合は趣味だろう』
と失礼なコトを言う。
人のこと言えるの?と反論すれば、
『僕は日々、鍛錬を怠らないだけさ』
涼しいカオで答える。
口では負けない自信のある洋子が、彼にはカンタンに言い負かされてしまう。
それが恋ゆえの弱みなのか、彼自身の器量に負けているせいなのか。
(たぶん、両方ね)
その人に、自分でも整理の出来ていない気持ちをどうやって説明したものか。
洋子には、まったく自信がなかった。
4人組の女性客が会計を済ませて店を出ていく。
待つほどもなく、女の子と洋子の二人に、席の用意が出来たことが告げられた。
(あすか、飛鳥?明日香?どんな字かしら)
呼ばれた女の子の名前に、また興味を惹かれる。
(腰の位置、高いわねぇ)
後ろを付いていく形になったので、ついついプロポーションのチェックを始めてしまう。
半袖のAラインのワンピースがよく似合っていて、センスも悪くないようだった。
(それに、きれいな歩き方)
どこかレッスンに通っているのだろうかと思わせる、きちんと矯正された姿勢が、実際の身長よりも彼女をすらりと高く見せていた。
テラスに近い、4人席を2つに割った席に案内され、奥に並ぶ形でテーブルに着く。
メニューを渡されて、来てから頼みますと答えているところを見ると、彼女の方も待ち合わせらしい。
興味は尽きなかったが、チェックも大概にして、彼が来るまでに自分の考えをまとめなければならなかった。
今度のコトだけは、いつものように言いくるめられる訳にはいかない。
なるべく遅く来てよね、とテラスの外を見ると、よく知った顔が目に入った。
(珪?)
足早に通り過ぎたその姿が、視界から消えたと思うと、すぐに店の中に入ってきた。
ぐるっと店内を見回すと、目的の何かを認め、まっすぐこちらに向かってくる。
その何かが洋子でないことは明らかで、それが証拠に、あと数歩というところで、珪はギクッと足を止めた。
「どうしたの?珪」
ニュアンスの違う声が被り、洋子と、あすか、という名の女の子は互いの顔を見合わせた。
(珪が女の子と待ち合わせ!?)
好奇心のメーターが瞬時にMAXを振り切る。
「店、変えよう」
動いたのは、珪の方が早かった。
「え?なんで?」
訳がわからないというように、女の子が珪と洋子を見比べる。
「いいから」
テーブル越しに手を取って、立たせようとする。
「ちょっと待ちなさい、珪」
デートの邪魔をする気などなかったが、露骨に逃げ出そうとする珪の態度に、文句が口をついて出る。
「紹介くらいしてくれても、いいんじゃないの?」
バチバチと視線がぶつかり、珪は口を開いた。
「従姉の洋子さん。彼女は明日香今日子」
それじゃ、と、今日子に会釈する間も与えず、強引に掴んでいる手首を引く。
「あのね、珪」
この年下の従弟の傍若無人は、今に始まったことではないが、この態度は見過せない。
「洋子姉さん、どうせ仕事だろ?俺たちは遠慮するから」
この態度のどこに、遠慮という言葉が当てはまるのか。
「あいにく仕事じゃなくて、デートなんだ」
とっとと逃げ出そうとする珪を阻んだのは、
「森山さん・・・」
「久しぶりだね、葉月君」
洋子の待ち人だった。
「ずいぶん、早かったのね」
「たまには定刻どおりに来ないとね」
お互い忙しい身で、約束の時間は待ち合わせの為の目安でしかないのに、こんな時に限って早々とやってくる。
「ちょうどよかった。葉月君にも話があったんだ。少しだけ、時間いいかい?」
「いや、俺たちは、」
「手短かに済ませるよ。ほら、座って座って」
穏やかな声と口調で、相手に有無を言わせず、自分のペースに巻き込んでしまう。
この一見では分からない強引さと、人たらしの手腕こそが森山の真骨頂で、もとより、珪の敵う相手ではない。
むっつりしたまま席に着いた珪に倣って、今日子も再び椅子に掛ける。けれど状況が飲み込めず、困っているのは丸分かりだった。助けを求めるように珪に視線を送るのだが、その珪はというと、座を取り持つ気など、これっぽっちもない様子だった。
(ま、あったらあったで、びっくりだけど)
森山はといえば、手回し良く、二つのテーブルをくっつけ、珪の前にメニューを広げている。
「それじゃあ、改めて自己紹介するわね」
だんまりを決め込んでいる従弟を無視して、洋子は隣りの席の今日子に向き直った。
「葉月洋子です。珪の従姉よ」
習慣で渡した名刺に目を当てた今日子が、あっ、という表情をした。
「もしかして、珪、葉月君がモデルをするきっかけになったっていう」
律儀に苗字に言い直す様が、かえって仲の良さを洋子に推測させた。
「そ、最初はページの穴埋めに借り出しただけなのに、あっという間にすっごい人気者になっちゃって、」
「断っておくけど、」
不機嫌丸出しの声で、珪が割って入った。
「俺は好きでやってる訳じゃないから」
なんなら、今すぐにでも辞めてやると言わんばかりの苦い表情で言う。
「辞められては困るな。僕はまだ、君を撮り足りないのに」
赤面モノの台詞を顔色ひとつ変えずに口にする。聞いている洋子の方が恥ずかしかった。
返事もしない珪を意にも介さず、森山は人のいい笑顔を、はす向かいの今日子に向けた。
「森山仁。カメラマンだよ」
「明日香今日子です」
森山に呼応するように、ニコッと今日子も笑った。
「葉月君のクラスメイトです」
その時、珪の表情に、さっと苦痛の色が過ったことに洋子は気付いた。
「あら、珪でいいのよ?」
考えるより先に口が勝手に動いていた。
「いつも、そう呼んでるんでしょ?」
「え、」
直球すぎる自分の言葉に、今日子が戸惑った様子なのを見て、
「わたしのことも、洋子、って呼んでね。葉月が二人じゃ紛らわしいでしょ?」
ね?、と、片目をつぶってみせる。
「じゃあ、わたしのことも、今日子って呼んでください」
素直な気質らしく、うれしそうに答える。
「それじゃ僕も、仁って呼んでもらおうかな」
この辺りの、洋子と森山の呼吸の合わせ方は抜群で、見事に初対面の緊張をほぐし、ぎこちない空気を緩和させてしまう。
そうして仏頂面の従弟を、「珪」と呼ぶほど親しい明日香今日子という女の子に対して、どれほどの興味と関心をそそられているか、互いに充分、察し合ってもいた。
が、しかし。
「森山さん」
ここに、空気のまったく読めない、読む気もない男がいた。
「話って、なんですか?仕事のことなら、後で連絡しますから」
「いや、仕事のことじゃないんだ」
今にも席を立ちそうな珪に、森山はのんびりと言った。
「実はこの前、洋子にプロポーズをしてね」
「仁っ!」
思わず上げてしまった声に、オーダーを取りにきた店員が驚いて、テーブルに置こうとしていたグラスの水を揺らした。
びっくりした珪は目を丸くしている。
そんな状況ではないにも関わらず、洋子は、ああ、こんな表情が出来るようになったのかと、胸の内でほっとするのを感じていた。
「いつまでニヤニヤしてる気だ?」
「ニコニコって言ってよ」
今日子の家まであと少し、という処の小さな公園で、しばらくおしゃべりをしていくのが、いつの頃からかの習慣だった。
門限まで残された時間を、珪が足を止めてくれたのをいいことに、今日子はおしゃべりをやめなかった。
「今日はほんとに楽しかったね」
「俺は楽しくない」
葉月洋子と森山仁に乗せられたせいか、珪の口も表情も、いつもよりずっとほぐれている。
そんな珪をもっと見ていたく、話していたかったのだ。
「でも、」
鉄棒に寄りかかっていた身体を起こして、珪の表情を窺うように、顔を傾ける。
「洋子さんのことも、仁さんのことも、好きでしょ?」
腕を組んだまま、プンと珪はそっぽを向いた。
「苦手の間違いだろ」
(うそばっかり)
ふふっと微笑みがこぼれる。
従姉に求婚したとの報告に、
『洋子姉さんに?本気で?』
『ちょっと珪、それどういうイミよ』
訊ねた珪の語尾に付いた、?の意味するところにしっかり気付き、詰め寄る洋子をよそに、
『もちろん本気さ。僕はこれからの人生を、ずっと彼女と共に生きたいと思ってる』
森山は真剣な表情で答えた。
プロポーズの時と同じ言葉をこんな場で口にされて、真っ赤になってしまった洋子と、森山とを見比べると、やがて、
『おめでとう、姉さん』
と祝福した。
その顔はもう、いつもの無表情に戻っていたけれど、珪がこの従姉にどれほど親しんでいるか、今日子には察することが出来た。
『わたし、まだ受けた訳じゃないわっ』
『まだ?何やってんだよ、洋子姉さん。早くOKしなよ。森山さんなら文句ないだろ』
『そんなこと、あんたに関係ないでしょっ』
『だったら、わざわざ報告するなよ』
『わたしが言ったんじゃないわっ』
予想外の展開に動揺し、口をすべらせた洋子と言い合いをする珪の様は、自分と尽とのやりとりを思わせたからだ。
「ね、仁さんて、珪の写真、いっぱい撮ってるの?」
別れ際、近いうちに一緒に仕事をしようと差し伸べた森山の手に、珪が素直に応えていたのが、妙に印象に残っていた。
「わりと、多いほうかもな」
特集や表紙の仕事の時、カメラマンは大抵、森山だった。
「珪が中学の終わり頃に撮ったのが最初だ、って、仁さん言ってたよね。それってまだ代役の時?」
「いや」
このままだとページに穴があく、協力して頂戴!と洋子に頼まれ、読者モデルの代役を務めた。
一回きりの筈が、二回、三回と断れず、書店から追加注文が殺到するほどの反響に、洋子の従弟ならばと、珪本人は勿論、洋子の承諾もなしに特集記事の告知がされてしまった。
「その特集の時のカメラマンが森山さんなんだ」
「・・・ずいぶん、強引な展開だったんだね」
一年の初めの頃、モデルを始めたきっかけを尋ねた時、代役を頼まれて以来、今に至るのだと聞いて、頼まれごとに弱い人なのかなぁ、と思った。が、どうやら、そんなレベルの話ではないらしい。
「でも、その後もよく、仕事請けたよね。断るの難しかったの?」
「ああ、それは、」
答えかけて、珪は言葉を切った。
「珍しいな」
しげしげと見つめられて、今日子はドキっとした。
「え?なにが?」
「おまえ、今までそういうこと、聞かなかったろ?」
「そうだった?」
「ああ。大体、おまえと仕事の話なんかしたことない」
それは、聞かなかったのではなく、聞けなかったのだ。
モデルの仕事を珪が好んでいないのは察していたから、あえて話題にしなかった。
「どうして急に、興味持つんだ?」
「それは・・・」
「それは?」
透きとおるような翡翠の瞳に、秘密を見透かされそうで、時計を見るふりをして目を逸らす。
「あ、もうこんな時間」
「ごまかすな」
ほぐれているのは口だけではないらしく、いつになく、珪からも踏み込んでくる。
「・・・仁さんと話してる時の珪って、なんだか、ラクそうだなぁって思ったから」
仕方なく、珪のことをもっと知りたいからという気持ちに気付かれないように答えた。
「仕事の関係っていうより、お兄さんみたいな存在なの?」
逆に質問されて、
「・・・どうだろう。考えたことない」
困っている様が、つまりは森山への好意を表していて、今日子は羨ましくなった。
自分の知らない世界で、珪を好きな人も、自覚のあるなしに珪が好意を持っている人も、きっと沢山いるのだろう。
『ビリヤードの教え方を教わってきた』
ほんの少し誇らしげな珪に
『その教えてくれた人、いい人だね』
と言ったら、
『そうだな』
やさしく目許を和ませた。
姉と呼ぶ洋子や、おそらくは兄のように親しんでいる森山。
学校以外の、珪を囲む世界を自分は知らない。関わることも出来ない。
そのことを、寂しいと感じている自分がいる。
「洋子さんと仁さん。うまくいくといいね」
「ああ、そうだな」
胸の奥に秘密がある。
もっと珪を知りたいという気持ち、もっと近づきたいという強い想いは、すべてその秘密に繋がっていた。
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