「葉月くん、どうしたかなぁ」
軽く食べておこうと用意したサンドイッチをパクつきながら、今日子はそうすることがクセになってしまったように時間を確かめた。
朝からずっと、洗濯や掃除など家の手伝いをしていても、時間が気になって仕方がない。
様子を知らせるメールなどの連絡は、葉月からは一切なかった。
どういう状況になってもいいように仕度はしておくつもりだったが、
(いつ、浴衣に着替えよう)
あまり早く着てしまうとシワになるし、なにより暑い。
暑いのは苦手で、実をいうと花火大会へも、軽くて涼しい更紗のワンピースで行くつもりでいた。それが綾瀬美咲に知られるや、大却下を食らった。
たとえ気温が40度を超えようと、花火大会へは浴衣で行くのが礼儀だという綾瀬の主張には真向から反論したが、
『葉月君が浴衣で来たらどうする気?二人で歩いてて浴衣着てるのが男子の方だけって、どうなの?』
問われて沈黙した。
そんなことにはならないと、言い切れるほど今日子は葉月を知らなかったし、有沢までが
『はば学生なら、男子でも浴衣の着付けは出来るしね』
注意喚起を重ねてきた。
紳士淑女を育てるという理事長の方針により、独特のカリキュラムが盛り込まれているはば学では、家庭科の授業で浴衣の着付けを習う。
何事もきっかけ、様々な経験の機会を増やすことが、一つのはばたきに繋がるのだという理事長の持論はともかく、その授業が行われるのは初夏。間もなく始まる夏のバーゲンで、着付けに困らなくなった女生徒たちの財布から、お小遣いやバイト代が景気良く羽ばたいていくのは恒例となっていた。
今日子自身は去年、家族で花火を観に行く際、買ってもらったお気に入りの朝顔の柄の浴衣があり、散財を免れていたが、綾瀬は髪飾りから下駄まで一式揃えて夏休み前に金欠となり、有沢の紹介で花屋のバイトを始めることになった。
そのくせ、今夜、家族でホテルのディナービュッフェ付き花火鑑賞プランへ行くのには、
『浴衣?着ないわよ。食べ放題行くのに、なんで帯締めて圧迫してかなきゃいけないの?』
と、相変わらずの花より団子だ。
『それより、三人で浴衣着てお出掛けしない?』
ショッピングモールで、浴衣で行くとお得になるイベントをやっているとかで、有沢も混んでいないなら行ってもいいとOKを出した。
混んでいない時点でそのイベントは成功しているのだろうか?という気もするが、人混みの苦手な有沢にとっては重要なポイントだ。花火大会についても有沢は、何度も見たし混むから行かないとクールだったが、地元民ならではのアドバイスを幾つもくれた。
『海岸まで出なくても、りんかい公園からよく見えるのよ。足元も砂がつかなくて済むしね。陣取りは禁止されてるから、夕方から行っても意外に空きはあるから大丈夫。あと、打ち上げが終わるのは20時過ぎだから、それから食事やお茶をするにしても、まっすぐ帰るにしても、モールにも駅にも近いから、ちょうどいいんじゃないかしら』
そして昨日、あらためて電話で訊いたところ、
『公園まで行くのが間に合いそうになかったら、煉瓦道からでも見えるから大丈夫よ。それにあの辺は、少し見たら満足する人たちで頻繁に入れ替わるから、打ち上げが始まった後でも簡単に移動出来るわ』
教えてもらって気がラクになった。
煉瓦道なら、撮影所を出るのが19時になったとしても、20~30分で着く。打ち上げ開始が
19時20分の予定だから、始まって早々には着けるだろう。
「葉月くんの終了予定が17時だから、2時間押しまでは大丈夫だよね」
昨日から時刻表や周辺地図を見て、何度もシミュレーションした行程を思い返す。
と、携帯が鳴り、誰からだろうとディスプレイを見て、
「葉月くんっ!?」
慌てて取り上げた。
終了予定にはまだ間があり、このタイミングでの電話は、何かアクシデントが起きたのではないかと不安でいっぱいになった今日子の耳に、
『俺。今、撮影終わった』
拍子抜けするほど淡々とした、葉月の報告が届いた。
(ワンピースとサンダルなら走れたのに)
浴衣と下駄で出せる限りの速度で足を動かしながら、今日子は焦りまくっていた。
予定どおりにいく筈がないと葉月を悩ませていた撮影は、とても上手くいったらしく、30分も前倒しで完了した。
その報せはとても嬉しかったが、
『じゃあ、一時間後に』
いつもの分かれ道となる公園での待ち合わせを指定されて焦った。
サンドイッチの最後の一切れはアイスコーヒーで流し込み、ソッコーで洗い物を済ませると、洗顔、髪をまとめ、素早く浴衣に着替えようとして、ここでつまづいた。
授業では難なく着られたため、その後、復習もしないでいたら、手順は覚えているのにちっともキレイに着付けることが出来ない。
帯に至っては混乱して、ネットで検索して結び方を確認する始末で、こちらのシミュレーションを怠ったうかつさを、後悔するハメに陥った。
ようやく支度が整ったのは約束の時間の3分前。
走れば間に合うが、浴衣の裾をからげてダッシュする訳にもいかず、精一杯の早足で公園を視界にとらえた時には、
(葉月くん、もう来てる!それに浴衣だ!)
裾を押さえ下駄を鳴らし、駆け寄っていくと、気付いた葉月が止めるように手を上げた。
「走らなくていい。転ぶぞ」
「遅れてごめんなさいっ」
待っていると言ったのに、逆に待たせてしまったことが申し訳なくて謝ると、
「俺も今来たとこだから」
気にした様子もなく言われたが、なぜかじっと見つめられた。
「・・・浴衣、着たんだな」
「あ、うん、そうなの」
美咲、有沢さん、ありがとう!と心の中で礼を言う。
「葉月くんも、浴衣すごく似合ってるね」
この葉月の隣りをただのワンピース姿で歩くのは、かなり、とても、乙女心が居たたまれなかったと、友人二人の忠告に感謝する。
葉月の浴衣はオーソドックスな市松柄だが、さりげなくモダンで涼しげで、なによりモデルという職業柄、立ち姿がキマッている。
「おまえも、似合ってる」
「ほんと!?実は上手く着れなくてタイヘンだったの。帯とかヘンじゃない?」
さっき走ったことで崩れていないか心配になって背中を見せると、
「きれいに結べてる」
安心させるように言ってくれた。
「ヒラヒラして・・・金魚みたいだな」
「金魚?」
濃い紅と桃色を合わせた半幅帯は、リボンを大きめに作って羽根も垂らすようにしていた。
それが金魚のヒレを思わせるのだろうか。
「俺、好きだよ・・・金魚」
ちょっと独特な表現ではあるものの、ほめてもらえたのが嬉しくて、
「ありがとう、葉月くん」
見つめて伝えた。
「・・・じゃあ行くか」
唐突に身を翻して歩き出すのを追って、隣に並ぶ。
「葉月くん、お仕事おつかれさま、早く済んでよかったね」
「俺も・・・驚いてる」
屋外撮影時の空模様がもたらす影響、移動の交通事情や、待ち時間のことなど、歩きながらぽつりぽつりと話してくれる言葉に耳を傾ける。
いつになく多くの言葉で伝えてくれるのを聞きながら、今日の花火大会に間に合うかどうかを、どれだけ葉月が気に掛けてくれていたか、あらためて感じた。
「色々、ラッキーだった」
だから、そんな風に話を締めくくろうとする葉月に言葉を添える。
「葉月くんが頑張ったんだよ、ほんとにお疲れさま」
「・・・・・・サンキュ」
こちらを見ることもなく前を向いたまま、呟きは吐息のようだったけれど、言葉に込めた気持ちは通じた気がした。
空はまだ明るさが残っていたけれど、暑さはずいぶんと和らいで、風もそよぐ程度で、今夜の花火に影響が出るような強さはない。
「ね、葉月くん、打ち上げまで時間がまだあるけど、どうしようか?」
お店はどこも混んでいるだろうけど、30分くらい座ってお茶できないかなぁと、頭の中で候補の場所を巡らせる。
「海まで出てから考えよう」
「えっ、海?海岸まで出るの?」
思いがけない葉月の言葉に足を止めた。
「ダメか?」
葉月も足を止め、窺うようにこちらを見た。
「だめではないよ、ないんだけど」
有沢から訊いた話では、打ち上げ場所に近い浜辺の無料エリアは、昼間からの陣取り勢でいっぱいで、夕方から行ったのでは出遅れもいいところらしい。打ち上げは湾内で行われるので、基本的に海岸一帯からは見えるが、鑑賞の良し悪しの差は当然出てくる。
りんかい公園か煉瓦道から観る想定でいたので、海岸エリアはノーチェックだった。
「海岸はどのあたりから観るのがいいか、わからないんだけど、とにかく行ってみる?」
脳内の地図検索を、カフェから海岸沿い行程に変えて訊くと、葉月はコックリと頷いた。
「じゃあ、行こう!」
のん気にお茶などと、言っている場合ではなくなった。
海岸沿いは交通規制が掛かっているから、移動は歩くしかない。いっそ少し先の灯台近くの駅まで電車で行って、そこからメインエリアに向かって歩きながら場所探しをするのもありだが、時間的なことを考えると、会場近くから距離をとりつつ混み具合を確かめて、鑑賞ポイントを見つける方が安全策だろう。
(まずは駅に着かなくちゃ)
先の見えない行程に気持ちが急いて、自然と足が早まってしまう。
「なぁ、俺、無理を言ったか?」
「・・・え?」
忙しく頭を働かせていたので、反応が遅れた。
「そんなことないよ。どうして?」
「いや・・・なんか・・・」
歩みは止めないままだが、俯きがちに口ごもる。
「葉月くんは何もムリなんて言ってないよ?楽しみにしてた花火大会に行くんだもん、したいことは、みんなしようよ。わたしも海岸で観るのは初めてだし!」
意気込んで言うと、
「・・・おまえって・・・」
呟きが小さくて聞き取れず、つい、葉月の顔を下からのぞき込んでしまう。
「・・・行ってみるか」
表情はいつも通りだが、気持ちが動いたのを声に感じる。
「うん、行ってみよ!」
強く応じると、葉月もその足を速めた。
海岸はやはり混んでいた。
打ち上げ場所の正面エリア付近は遠目にも人がいっぱいで、早々に諦めの判断に至った人たちについて、海岸沿いを移動することにした。
うっかりすると、はぐれてしまいそうな人出の中で、周囲に気を取られて逆に葉月を見失ってしまうことがないよう、今日子は慎重に気を付けていた。
葉月の方でも気に掛けてくれていて、今も、距離が開きそうになったことを察してすぐに振り向いた。
空いた間を急いで詰めようとして人にぶつかりそうになり、それを避けようとして、下駄で不安定なせいか、よろけてしまう。
「大丈夫か?」
とっさに手を掴んで支えてくれ、大丈夫と答えると、掴んだ手はそのままで歩き始めた。
不思議な感覚だった。
お喋りをすることもなく、ただ黙々と歩いているだけなのに、少しも居心地の悪さを感じない。
それどころか、葉月に手を引かれているだけで、なんだかとても安心出来た。
葉月の手の熱さだけを感じながら、どれくらい歩いたのか、
「そろそろ、浜に降りてみるか」
ぽつりと訊かれた。
もう、羽ケ崎の海岸まで来ていた。
「そうだね」
この辺りも、ズラリと屋台が並んで賑やかだが、家族連れが多いせいか、比較的のんびりとした空気が流れている。
浜辺への階段を降りる時、掴まれていた手は自然に離れた。
手首から葉月の熱が急速に失われていくことに心が竦む。
「もし、はぐれたら、」
と、葉月が手を上げて階段脇の屋台を指さした。
「この綿あめ屋の前に居ろ」
手を離して一番に言うことがそれ。
「もう・・・葉月くんてば」
おかしくて笑ってしまうと、葉月は何が可笑しいのかわからないというカオになる。
「なにかヘンか?」
「ううん、なんでもない」
さっきの竦んだ感覚はもう無く、安心感が戻ってくる。
「でも、はぐれないように葉月くんの傍にいるね」
「ああ、そうしろ」
砂浜をゆっくりと下駄で踏みしめながら、二人で海へと近づいていく。
ビニールシートを広げて寝転んでいるグループも多くて、葉月くんもその方が良かったよねと思い、来年の参考にしようと心に決めて、
(また来年も、葉月くんと来れるかな)
今年の花火も上がらないうちに抱いた願いに気付く。
「陽が落ちてからじゃ、後から来ても合流するのは難しそうだな」
葉月の方は遅れてきた時のパターンをシミュレーションしているのか、考えるように辺りを見回している。
「それはそうだよ」
気が早すぎる願いに蓋をして、言葉を続ける。
「去年の夏にね、家族で花火を観に行くのに、仕事が終わらなくてお父さんだけ後から来ることになって」
「会えなかったのか?」
「後半に運良く合流出来た。でも、チケット制で居る場所がハッキリしてたのと、二部構成の合間の休憩時間に間に合ったからで、そうじゃなければとても無理だったって。ここのは休憩もないし、打ち上げが始まったら、さっきの綿あめ屋さんくらい明るくて目立つトコにいないと、見つけるのって難しいんじゃないかな」
「・・・そう、なんだろうな・・・」
「葉月くん」
「なんだ?」
「ありがとう、今夜の花火に誘ってくれて」
まだちゃんと気持ちを伝えていなかった気がして、葉月に向き直った。
「葉月くんと一緒に来れて、ほんとによかった」
うれしい気持ちが伝わっただろうかと見つめると、暗い中で、葉月のまとう空気が和らいだ気がした。
「・・・俺も、」
続く言葉は、わぁっと上がった歓声とスピーカーから流れる軽快な音楽にかき消された。
「始まるみたいだな」
と葉月は言い直すことはせず、打ち上げエリアの方を向いてしまう。
「始まるね」
これから花火が上がるだろう方向の夜空を見上げながら、消えてしまった言葉の続きを聞きたかったと思う自分を、今日子は感じていた。
その夜の花火は、今日子の記憶に鮮やかに残った。
打ち上げ会場から少し離れた羽ケ崎の海岸からでも花火はよく見え、遮るもののない夜空に次々と光の華が開く様は、とても美しかった。
『綺麗だね』
葉月の横顔に伝えると、
『だな』
必ずこちらを見て、応えてくれた。
夢のような時間とは、こんなひと時をいうのだろうと、花火が上がるごとに過ぎてしまう時を惜しんだ。
連続して上がった尺玉の最後の光がスゥーっと海に消えた時、とても寂しくなった。
『終わったな』
呟いた葉月の声も沈んでいた。
帰り道は、灯台近くの駅まで歩いて、そこから電車で戻って来た。
その間、あまり話はしなかった。
今見てきた花火のことや、他にも話したいことは沢山あるのに、ただ、隣りを歩く葉月の気配を感じていたかった。
「今夜は、沢山歩かせたな。大丈夫だったか?」
葉月が口を開いたのも、分かれ道の公園を前にした時だった。
「平気。葉月くんこそ、一日お仕事の後で疲れなかった?」
「俺も平気」
「だったら、よかった」
もう少し一緒にいたいと思う気持ちを抑えて足を止める。
「じゃあ、今日はありがとう」
俯いてしまって、顔が上げられなかった。
きっと今、自分はヘンなカオをしている。
「・・・送る。家まで。もう、遅いから」
思わず顔を上げた時、葉月はもう歩き出していた。
「ありがとう・・・葉月くん」
うれしくて、一緒にいたい気持ちのまま、寄り添うように隣に並んだ。
夕方、慌てて家を出た時には遠く感じられた道のりは、本当にもう少しの間でしかなく、それこそ花火が消えるまでの間のように、すぐに家の前へ着いてしまった。
門のところで足を止めて、今度こそはと葉月を見て、
「送ってくれてありがとう」
感謝を伝えた。
「・・・ああ、じゃあ、また」
「うん、またね。おやすみなさい」
合わせた葉月の眼差しは、すぐに逸らされたりはしなかった。
「・・・また、連絡する・・・例のチケット、ナイトパレードの。夜だけじゃなく、一日空いてる日、連絡するから」
「・・・うん。うん、待ってるね」
嬉しい気持ちでいっぱいになって言うと、
「・・・そんなには待たせない」
その言葉は踵を返した葉月の背中越しだったけれど、ちゃんと今日子に届いた。
街灯の明りが等間隔に照らす道を一人になって歩きながら、珪は思っていた。
(俺も、うれしかった)
約束を守ることが出来た。
今日子と一緒に花火を観ることが出来た。
(それに、この感覚・・・)
長い間、欠落していた心の欠片が拾われて、元の場所に収められたような充足感があった。
拾ってくれたのは、今日子だ。
珪には、その欠片を見つけることも出来なかったのに。
埋められた場所はその在りかを感じること出来るほど、あたたかく脈打っている。
(次は、ナイトパレードだな)
綺麗だねと、微笑う今日子のカオを隣りで見ていられる日を、珪は探し始めていた。
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