花火大会の日は仕事だと珪が知ったのは、期末テスト最終日のこと。
事務所から、夏休み中の仕事の打合せで呼び出しを受けていて、今日子からの
『一緒に帰ってもいい?』
という誘いに心を残しつつ、坂の下で待ち構えていた迎えの車に乗り込んだ。
仕事を始めた頃に寝過ごして遅刻、すっぽかしの失態を重ねたせいで、事務所からの信用は失墜していて、珪としては契約を解除してくれて構わないのに、なぜか次々と仕事を取ってくる。
今度もまた、長期休みなのをいいことに、遠慮なく入れてきた仕事量にうんざりし、提示されたスケジュール表にざっと視線をすべらせ、気付いた。
8月4日に、朝から続けて複数の予定が記載されている。
変更は出来なかった。
夏の予定確認があったのは今日子を誘うよりも前で、旅行など特別な予定は何もないと答えていた。
その後、花火大会の日の予定を押さえなかったのは自分のミス。
変更は出来ないものかと伺ってみたが、無理だと一蹴された。
というのも、この撮影は珪単独ではなく、もう一人モデルがいて、それが以前、寝過ごしてすっぽかしてしまった仕事の相手だったのだ。
今回は何があろうと遅刻は厳禁。
一時間前には撮影所入りして待機、昼寝なら控え室でするようにと細かく指示を受ける始末で、変更どころではなかった。
撮影自体は一応、夕方には終わる予定だったが、それを期待するのは甘い考えだと思われた。
自業自得とはいえ、相手のモデルからはハッキリと嫌われていて、再セッティング時の撮影は押しに押した。
こんな仕事の後に約束を、それも花火大会のような開始時刻が決まっているイベントに行く約束など、してはいけない。
だから言わなければならなかった。
花火大会には他の誰かと行ってほしいと。
夜の20時を回る頃、アルカードにやってきた葉月を見て、マスターの水橋は秘かに安堵の息をもらした。
「いらっしゃいませ!」
葉月の姿を認め、今日子が営業用ではない笑顔を浮かべて迎えたのに対して、当の本人は相変わらずの無表情。
神崎が素早く倒した予約席のプレートにも特に関心を払う様子もなく、ごく自然とカウンター左端の席に着く。
こういう様を見ていると、巷で葉月が”王子”と称されていることに水橋は納得してしまう。
ただし、
「モカ、頼む。ツナサンドも」
「かしこまりました」
尊大にも見えるこの態度の裏側を知らなければ、の話だが。
(今日子ちゃんに会えないまま何日もカラ振り続きで、しょんぼりしていたとは思えない)
期末テストの後、アルバイトを再開した今日子のシフトは変則的なものになった。
神崎が今日子の育成に本腰を入れ、教える内容に合わせた時間帯でシフトを組んだからだ。
アルバイトの範疇を超えてビシバシと神崎が鍛えるのに応えて、今日子も嬉々として通ってくる。
歴代のバイトの中でも、トップクラスの戦力に育ちつつある今日子を見ているのは水橋も楽しく、アルカードは活気づいていたが、その一方で暗く沈んでいく者がいた。
葉月である。
アルカードにやって来ては無表情で店内を一瞥し、求める人の姿がないとわかると、以前のように店の奥のテーブル席へは行かず、カウンターの水橋と向かい合う席に着く。
だからといって、何を話すでも訊くでもない。
例えば今日子の次のシフトはいつなのか、探りの一つもいれてくるなら、水橋としても対処のしようがあるのだが、黙したまま一時を過ごして帰ってしまう。そんなことが何度も繰り返され、先に音を上げたのは水橋だった。
『今日子ちゃんの明日の入りは何時だったかな』
『明日は水曜日ですから、17時半入りです。次の日も開店準備から入ってもらうので、帰りが遅くなると申し訳ないし、心配なんですが』
独り言に近いような呟きを確実にとらえ、必要な情報を提示してみせた神崎も、傍観者でいることに限界を感じていたらしい。
バイトのシフト情報は漏らさないという約束事をきれいに棚上げした水橋と神崎のお節介に、葉月が気付いたかどうなのか。
無反応すぎてわからなかったが、葉月は今夜やってきた。
そして今、向かいでコーヒーを淹れる今日子の手許に深い眼差しを注いでいる。
見つめるなら手ではなく顔だろうと思う自分は、せっかちなのだろうか。
「お待たせしました」
葉月の前にコーヒーを置く今日子の笑顔が、個人的な親しみを込めたものであることも、他者に向けるものと比較しなければわからない。
(葉月くん、周りなんか見てないからなぁ)
カウンターを挟んで向かい合う二人の間にあるのは穏やかに流れる時間、といえば聞こえはいいが、会話が一つも交わされない。
別に、勤務中は私語厳禁と申し渡した覚えもないのだが、今日子は公私の区別がきっちりしていて、葉月に限らず仲のいい女友達が来店した時も同じく、自分から話しかけたりはしない。
アルバイトをするのは初めてだというが、働く上でのルールやマナーに関しては教える必要が全くなく、雇用主としては助かるが、葉月のようなタイプからしてみれば、声の掛けにくさのハードルが上がる。
結局、くるくるとよく働く今日子と会話もないまま時は過ぎ、バイト終了の時刻がきた。
控え室で私服に着替えてきた今日子が姿を現すと、おもむろに葉月が席を立った。
「ごちそうさまでした」
無駄の一切ない動きでレジ前の神崎のところへ行き、すばやく会計を済ませる。
まだ店内にいる他のお客に遠慮し、小声でお先に失礼しますと今日子が挨拶する間に、ドアを開けて待つ。
開いたままのドアに気付き、足早に外へと出る今日子の
「ありがとう、葉月くん」
礼を言う声が閉じるドアの隙間から最後に聞こえた。
レジ横の窓から外をうかがう神崎が、やがて微妙な表情で振り返る。
「これが計算で出来ているなら、世話を焼く必要はないんですがね」
それはまったくの同意見だった。
夏の夜の道を今日子と並んで辿りながら、こんな風に歩くのは久しぶりだと珪は考えていた。
夏休みでもアルカードに行けば今日子に会えるだろうと思っていたが、そう上手くはいかなかった。
シフトが変わったらしく、いつもの曜日と時間に行ってもいない。連絡先は知っていたから、偶然を待たなくても、例えば昨日、マスターと店員さんの会話から今日子のシフトを知るというようなラッキーがなくても、電話をすればいいのだが、約束を取り消すと伝えることにためらいがあった。
(頑張れば、間に合うかもしれない)
そんな希望を持ってしまったからだ。
花火大会の日に仕事を入れたくなかったのは、珪だけではなかった。
『葉月くんっ!』
スケジュールの決定から数日後、スタジオに行くと、沢木を始めとする馴染みの面々がすっ飛んできた。
『8月4日は頑張ろう!』
『・・・・・・・・・?』
各自のてんでバラバラな話をまとめると、カメラマンの横嶋を始めとする撮影チームは、毎年、花火を肴に酒盛りをする。場所はいつも、遠目なりにベランダから花火が見える横嶋のマンションなのだが、今年は海の家が共同開催するビアガーデンの抽選に当たったのだという。
『ビールはどこでも飲めるが、花火を間近に飲む機会ってのは、そうないだろ?』
『倍率、2桁は確実なんだ・・・実は、3桁ってウワサもある。これに当たるってすごいことだろ?』
『ここに住んでもう長いのに、考えたら近くで花火見たことがなくてな。で、まぁ酒も飲めるし、いい機会って訳だ』
だから、頼むから8月4日は時間どおりに終わらせてくださいお願いします、という言外の叫びは、葉月にもハッキリと伝わった。
『・・・・・・頑張ります』
瞬間、上がった複数のガッツポーズに、みんなが同じように思っているのなら、
(俺も行ける・・・のか?あいつと)
望みを抱いてしまった。
「でね、葉月くん、ナイトパレードがほんとにキレイだったの」
こうやって、一緒に並んで、花火を見ることが出来るかもしれない。
「葉月くんはリニューアルしてからのナイトパレード、観に行った?」
「行ってない」
最後に遊園地に行ったのは子供の頃、まだ両親とも日本に住んでいた頃だ。
「じゃあね、」
と、やけに嬉しそうなカオで手提げから手帳を取り出し、ひらりと一枚のチケットを引き抜いた。
「見て!一枚で2名様までの招待チケット!期限は8月末までだから、もしよかったら」
こちらを見上げて足を止める。
「一緒に行かない?いつでも、葉月くんの都合のいい時でだいじょうぶだから」
ワクワクと答えを待っている今日子のカオを見ていたら、花火に誘った時から心の中にあったもう一つの不安がふいに浮かび上がり、
「おまえ、俺でいいのか?他のヤツと行った方が楽しいんじゃないのか?」
止める間もなく口をついて出た。
今日子は、大きな瞳をきょとんとさせ、小さく首をかしげた。
ほんの数秒、けれど珪にとっては長い間の後、
「葉月くんがいい。葉月くんと行くの、楽しいよ」
まじめなカオと、どこか子供っぽい口調が懐かしい記憶に触れ、胸を締めつける。
「・・・おまえ、ヘンなヤツだな」
「えー、なんで?いつだって葉月くんと遊びに行くの、楽しいのに」
ますます子供っぽく言い募るサマに、なんだか本当にこいつの時間は昔のまま止まってるみたいだと思う。
「・・・チケット代、払わないとな」
返事の代わりに言って歩き出す。
「あ、それは大丈夫。実はこれ、立花さんからの頂きものなの。遊園地が楽しいトシでもないから、もらってくれって」
ちょうど美咲もいて二人で貰ったんだよと、のん気に答える今日子をよそに、
(また、あいつか)
珪はムッとして、立花のことを思い出した。
マスターの友人で、アルカードの常連、それも今日子が淹れるコーヒーを店に出す最終試験の試験官役を務めるくらいで、だから接する機会が多い分、親しくもなるのだろうが、
(こいつのこと、名前で呼んだ)
花火大会にも誘った。
それがなんだかひどくムカついて、花火に行くなら俺と行こうと半ば勢いで約束を取り付けた。
「立花さん、忙しいみたいでしばらくお見えにならなかったんだけど、こないだ少しだけいらっしゃって」
マスターに預けるつもりでいたが直接渡せてよかったと、コーヒーも飲まずに帰ったのだという。
「頂いちゃっていいのかなぁと思ったんだけど、マスターが、あいつが持っててもムダにするだけだからって」
だから美咲と何か御礼を考えているのと、今日子は楽しそうに言う。
不要だというのを貰ったのなら、礼なんかしなくていいだろうと思うが、口には出さないでおく。
口にすれば、お客さまからの頂きものだからそういう訳にはいかないと、まじめなカオで諭されそうな気がしたからだ。
「・・・・・・おまえ、夏休みなのに忙しそうだな。バイトとか、部活とか、色々」
「そう?でも、楽しいし!葉月くんこそ、夏休みなのにお仕事たくさん頑張ってるんでしょう」
撮影所の皆が言ってたよ、と感心したように続ける。
「葉月くんは、えらいね」
モデルという仕事が好きではないこと、本当はやりたくないと思っていることを、今日子はわかっている。
えらいね、という言葉に込められたいたわりを感じて、隣を歩く今日子に目を向ける。
なぁに?という眼差しを返してくれる今日子に、なにかを、心の中にある気持ちを伝えたかった。けれど、
「・・・・・・・・・」
それを言葉にすることは出来なかった。
結局、何も言葉に出来ず、花火大会の日の仕事についても話せないまま、いつもの公園前で別れて家に帰ってくると、暗い筈の玄関に灯りがともっていた。
この時間に合鍵で家に入るような人間は、二人しかいない。うち一人は海外にいるのだが、帰国したのだろうかと、反射的に身構えて中に入ると、女物の白いサンダルが揃えてあった。
詰めていた息を吐き、自身も靴を脱ぐ。
リビングに続くガラス扉を開けると、奥のダイニングテーブルで仕事をしていたらしい洋子が、
「おかえり、珪」
パソコンから顔を上げて言った。
「ただいま」
「おつかれさま。夕飯は?もう食べたの?」
「食べた」
「じゃあ、冷蔵庫に色々入れといたから、明日にでも食べて」
「ありがとう」
「何か飲む?コーヒーでも淹れましょうか?」
「いや、いい」
「じゃあ、いただきものの美味しい梨があるから、それを剥くわね」
今度は選択肢なしの決定で、逃がす気がないのが伝わってくる。
早く手を洗ってらっしゃいと促されれば、従うより他ない。
話があるのだろうことは、連絡もなしに来て家で待ち構えていた時点でわかっていた。
電話よりも早く確実につかまえて、顔を見ながら話したい内容で、たぶん返答を必要としている。
なんとなく誰からの、どういう用件なのか想像がついてしまい、気が重いと感じる自分に罪悪感を覚える。
のろのろと手を洗って戻ると、テーブルの上のパソコンは閉じて脇に避けられ、梨を盛ったガラスの皿が二つ置かれていた。
「実はね、昼間、兄さんから連絡があったの」
テーブルに着くなり、洋子は前置きなしで本題に入った。
正確には叔父にあたる珪の父のことを、洋子は子供の頃からの習慣で“兄さん”と呼ぶ。
「今ね、休みが取れたんでエリカさんのとこに行ってるそうなの。それでもし都合が付けば、珪もどうかって」
洋子が微妙な表情でいるのは、急にそんなことを言われても、都合など付けられないと知っているからだ。
「一応、兄さんには、珪も仕事の予定が入ってるから難しいとは伝えてある。数日の滞在でとんぼ帰りってのも、国内じゃないんだから、ちょっとね」
断ってもいいのだと布石を打ってくれた上で、たとえ一緒に過ごせる時間が短くても、両親が呼び寄せたいと思っている気持ちを伝えてくれる。
「どうする?兄さんにはわたしから連絡するわよ?」
丁度ついでがあるしねと、目を合わさずに言う。
「・・・俺、やっぱり、やめとく・・・父さんたちには悪いけど」
この答えを予想していたらしい洋子は、
「りょーかい」
なんでもないことのように受け合ってみせた。
「まぁ、しょうがないわよ。仕事のスケジュールも飛び石でまとまってないし、兄さんたちも、不確かでも先に予定を言っといてくれたら、まだ調整のしようがあったのにね」
「・・・ありがとう、姉さん」
洋子の気遣いを痛いほど感じて、ようやくそれだけを口にする。
「わたしはこっちでの珪の保護者なんだから、当たり前のコトしてるだけよ。それより、冷蔵庫に野菜たくさん詰めといたから、悪くならないうちに全部食べること。いいわね?」
こんな風に話題を変えられたら、わかった、としか答えられない。
ただ、どれだけの量が詰まってるんだろうと、冷蔵庫を開けてみるのが少しこわくなった。
「あとね、今日は他にもいいモノを持ってきたのよ。見て見て!」
空気を変えるためだけとは思えないテンションで、隣りの椅子に置かれた大き目の紙袋から取り出したのは、
「ほら、新しい浴衣!涼しげでいいカンジでしょ?」
帯まで揃えて並べてみせる。
「私も新調したから、土曜の花火大会はこれ着て3人で行きましょ」
語尾にハートマークが付きそうな浮かれた笑顔を向けられて、珪は呆気にとられた。
(なんで・・・)
今日子と花火大会に行くことは、誰にも言っていない。
仕事の予定を変えたいと申し出た時でさえ、マネージャーにも理由は言わなかった。
「森山さんのマンションのベランダから、花火がよく見えるんですって。混雑も気にせず涼しい部屋から観られるなんて、贅沢よねぇ」
ウキウキしている洋子をよそに、珪は無表情のまま脱力していた。
(・・・3人て、誰のことかと思った)
偶然、洋子が今日子と知り合いになり、一緒に花火大会に行くことまで聞きつけ、いらぬお節介に乗り出したのかと、一瞬のうちに駆け巡った想像がハズレていたことに心底ほっとする。
いやでも、洋子はデートに付いてくるほど無粋じゃないと思い返し、
(・・・・・・デートじゃないだろ)
心に浮かんだ単語に動揺した。
「デ、花火に、っていうか森山さんのとこへは姉さんだけで行けばいいだろ。俺は遠慮しとく」
口に出して断れば、この場合の無粋な存在はどう考えても自分だ。
『彼女には、誰か想う相手がいるのかな』
何度誘っても、3人でのお出掛けになるか、わたしは都合が悪いので珪と2人でどうぞと断られるのだと、森山から男同士の相談を持ちかけられたのは最近の話。
ついには自宅へと招いたのに、いつものパターンに陥ったらしい森山に同情しつつ、
「俺は行かない。それに仕事あるから、その日」
きっぱりと断った。
「えー別にデートじゃないんだから、始まるのに間に合わなくたって大丈夫なのに。それに昔、兄さんたちと行った時みたいに海岸まで出る気なら、遅れたら合流するのも難しいけど、森山さん家ならその心配もないでしょ」
デートじゃないと言い放つ洋子に、これは明日にでも直接、森山に断りを入れなければダメだと、珪は黙ったまま梨の皿を引き寄せた。
ついでに洋子が相手では、先に意思表示をしてみせなければ何も進展しないことを教えなければと思う。
森山なら、自分の拙い言葉でも察してくれるだろう。
「いつもやる気ないくせに、なんでこんな時だけ仕事優先するのよ」
色々と失礼な洋子の台詞にも、珪はシャクシャクと梨を食べることで、だんまりを決め込むことにした。
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