学期末テストの最終日。
日直当番の業務を終えると、有沢志穂は重い鞄を手に、速やかに教室を後にした。
家に帰ったら、今日のテストの自己採点をし、誤っていた箇所を復習。
それから、この夏の学習計画を立てる。
今学期の弱点の克服に、来学期の予習。夏休みの課題は沢山出されているし、塾の講習もある。
やるべきことは山積みで、効率良く計画を立てなければ、成果を上げられないうちに夏が終わってしまう。
二年後の大学受験のことを考えたら、まだ一年生といっても、のんびりはしていられない。
有沢は、はば学の中等部へ首席入学を果たした時から、学園きっての才媛と称されてきたが、得意な気分には少しもなれなかった。
成績がトップなのは女子に限ってのことで、自分より上を行く人間は二人もいる。
一人は、守村桜弥。
学校の勉強以外にも、その知識の幅は広く、教師陣にも一目置かれるほどの存在で、有沢は守村のことを心から尊敬していた。
以前、図書館で守村を見掛けた時、熱心に読んでいる雑誌の内容に興味を持ち、彼が帰った後、手に取って開いてみたことがある。
それは海外の科学雑誌で、中身は当然のことながらすべて英文。
辞書を引けば読むことは出来たが、内容を理解するまでには至らず、本当に頭がいいというのは守村のような人を言うのだとますます尊敬の想いを深くした。
対して今一人は、尊敬とは対極の位置に居た。
(・・・・・・もっと早く出ればよかった)
下駄箱のところで、靴を履き替えようとしている葉月を視界に捉えてしまい、有沢は表情を固くした。
葉月とは同じ中等部からの入学組で、一年目はクラスも一緒だったが、初め、ライバルとしてのカウントは一切していなかった。
それもその筈、葉月珪は来る日も来る日も居眠り三昧で、授業を聞いている様子は皆無だったからだ。
はば学では帰国子女であることなど珍しくなく、そのせいか、ハーフだろうがクォーターだろうが、入学後1ヶ月もすれば話題にも上らなくなるのに、葉月は違った。
明るい亜麻色の髪にも、緑の瞳にも、際立った容姿と共に、はば学生はいつまでも慣れなかった。
余りにも無口な為に日本語が不自由なのではと誤解されたり、一見、超然と一人きりで構えていることから、実は一般人ではなく、とある国の王子らしいとか、裏付けも何もない無茶苦茶な噂は有沢の耳にさえ、結構、入ってきた。
だが所詮、怠け者に変わりはないと、一学期の終わりが近付く頃には机に突っ伏して寝る葉月の姿は視界から完全に抜け落ちていた。
それだけに、全力で望んだ初めての期末テストにおいて、全教科トップの高得点で首席の座に“葉月珪”の名を認めた時、敗北感以上のショックで打ちのめされた。
以来、一度も葉月に勝てた試しがない。
(どうせ今回も負けてるに違いないのよ)
そんな風に考えてしまう自分がイヤで、とにかく、この不愉快な男を視界から消してしまおうと、前を行く背中を追い越すべく足を速めた。
「葉月君!」
知った声に、何となく、振り向いていた。
明るい、ぱっと陽が射し込んだような笑顔で、明日香今日子が駆けてくる。
周りの注目を集めていることなど、気付きもしない様で、
「葉月君、試験お疲れさま!」
今日子は葉月に話し掛けた。
「ああ、お疲れ」
この答えに、有沢はイラッとした。
今日子はともかく、葉月が疲れるほどの試験勉強などする筈がない。
苦も無く首席をキープし続ける葉月に、クラスの男子が
『おまえ、一体どこで勉強してるんだ?』
訊いたのに対して、
『学校』
と答えて相手を絶句させた逸話は、中等部の伝説になっている。
塾に行くでなく、家庭教師が付いている訳でもなく、日がな一日寝ているか、ぼーっと過ごしていても首席。
努力という言葉が、何度、有沢の中で虚しく響いたか分からない。
「葉月君はもう、このまま帰るの?」
校門をすぐ目の前にしての、今日子の問い掛けは確認のようなもので、葉月が頷くと、
「じゃあ、途中まで一緒に帰ってもいい?」
ニコニコと訊いた。
有沢は、思わず周囲を見回していた。
足を止め、好奇心満載の目を向けているのは、一人や二人ではない。
誰とも一切つるむことなく、単独行動を貫く葉月珪に、平気で近付いていく明日香今日子がどこまでの距離を許されるのか、興味津々で見定めようとしている。
「・・・・・・・・・・・」
葉月は、無言だった。
感情の現れない面は、常と変わらず、長すぎる沈黙に焦れた空気が辺りに漂い出した頃、
「・・・・・・・・・やめとく」
ぼそりと答えた。
「そっかぁ」
明日香今日子は、がっかりした様子で肩を落とした。
けれどすぐに気を取り直したようにニコッとして、
「じゃあ、また明日ね」
バイバイというように手を振った。
「・・・・・・じゃあ、また」
聞き取りにくい程、低い声でぼそぼそ言うと、今日子に背中を向けてしまう。
やっぱりなぁ、という空気が流れる中、有沢はイライラをヒートアップさせていた。
(『やめとく』って、何よ、その偉そうな断り方!用事があるとか何とか、もう少し相手の気持ちに配慮した言い回しは出来ないのかしら!)
第一、皆が見ている前でこんな断り方をされては、今日子の立つ瀬がない。
これでは、無謀にも葉月に誘いを掛けてあっけなく自爆したと、すぐに学校中に広まる。
明日香今日子は葉月に気に入られているとか、友達になったらしいとか、噂されているのは耳にしているが、今の態度を見る限り、とてもそうとは思えない。
気の毒に思う反面、葉月の一体どこがいいのか、物好きな、という気持ちで今日子を見ていたら、目が合った。
「有沢さん」
こちらを認めるや、親しげに名前を呼んで近付いてくる。
「これから帰るところ?」
さっき、葉月にしたのと同じ問いかけ。
「そうよ」
だから、次に何を聞かれるのかは分かっていた。
「もしよかったら、一緒に帰ってもいい?」
「ええ、いいわ。一緒に帰りましょう」
即座に答えたのには、自分は無神経な葉月とは違う、という反発が確かにあった。
「ほんと?ありがとう!」
素直に喜ぶ反応に気が咎める。
「・・・・・・別に、今日はまっすぐ帰るし、いつも断ってばかりだったから」
「ううん。だって予定がある時に、わたしが声掛けちゃってるんだもの」
入学式の日に、少し話しただけでクラスも違うのに、なぜか目が合うと今日子は話し掛けてきた。
それは、
『おはよう』
という挨拶や、
『帰る頃に雨降り出すなんて、ツイてないね』
とか、
『学食で、来週からお試しデザートフェアやるって聞いた?』
他愛のない会話だったけれど、途切れることなく続いていた。
「じゃあ、行こっか」
屈託なく言って歩き出す今日子の隣りに並びながら、相変わらず不思議な人だわと、有沢は思っていた。
下からの持ち上がり組はともかく、普通、クラスも違えば、共通の友人を介している訳でもない相手に、そうそう話しかけたりはしない。
ましてや、今日子には“綾瀬美咲”という特別な仲良しも存在する。
(綾瀬さんの成績順位、明日には分かるのよね)
高等部に首席入学してきた“綾瀬美咲”を、有沢は新たなライバルとして、秘かに注目していた。
「やっと試験も終わって、夏休みになるね」
「え、ああ、そうね」
勉強の方へ気持ちが向くのを、慌てて引き戻した。
「夏休みの前って、なんだかワクワクしない?」
「そうかしら」
「うん。だって、1ヶ月以上あるんだよ?いっぱい予定入れても、全部なんて埋まらないもん」
「それは、そうでしょうね」
「はばたき市は、海もすぐ近くでいいよね。有沢さんは、泳ぐの好き?」
「わたしは、あんまり・・・」
「じゃあ、海辺の散歩は?」
「いいとは思うけど、したことないから」
質問に答えているだけの会話が続くうち、有沢は段々と不安を覚え始めた。
(明日香さん、わたしのこと誘ったの、後悔してないかしら?)
実のところ、女の子同士のお喋りは得意じゃない。
理由は、他の子たちが興味を持つことに関心が持てず、共通の話題がないからだ。
お芝居や映画を見るのは好きだけれど、特定の芸能人に入れ込むほどのこともない。
スポーツ全般、やるのも見るのも興味なし。
TVを見るより本を読む方が好きだから、ハヤリものにも疎い。
図書館と本屋さんに行くのは遊びに行くのと同意義で、そういう自分が他の女の子たちとズレているという自覚くらいはある。
こんな、見るからに“女の子”な明日香今日子に提供出来る話題など、用意も無しに思いつかない。
「有沢さんは、夏休みはどうするの?」
「わたしは・・・・・・」
ここで勉強と答えたら、ひかれること請け合いだった。
会話が続かなくても、未定と答える方がまだマシと思える。
「わたしは、まだ何も、」
「今日子っ、待って!」
突然、坂の上から大きく呼びかける声が、続きを遮った。
見上げると、“綾瀬美咲”が手を振っている。
と、勢いよく坂を駆け下りだした。
それは、坂道で転ぶかもしれない、なんてことは全く考慮していないスピードで、走ってきた勢いを弱めることなく、ぶつかるように今日子に抱きついた。
当然、受け止め切れなかった今日子は2、3歩後退り、鞄も足許に落としてしまう。
「怒られた!」
我慢してきた感情をぶちまけるように訴える。
「氷室先生にお説教された!」
意外な言葉に驚いてしまった自分に対し、落ち着き払って今日子が言ったのは、
「また?」
意外に容赦のない一言だった。
→ Next
小説の頁のTOPへ / この頁のtop
|