「こんにちは、アルカードです」
そっとドアを開けて、撮影の最中ではないことを確かめてから、挨拶の声を上げる。
「明日香ちゃん、待ってたよ」
もう顔馴染みになったカメラマン助手の沢木が、待ちかねたように駆けて来る。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、いいタイミング。今ちょうど、休憩に入ろうとしてたとこなんだ」
沢木の言葉通り、皆がワッと集まってくる。
スタジオの隅に設けられた簡易テーブルに、撮影中ならポットを交換して簡単な片付けをしてくる。
コーヒーのサービスをするのは、頼まれた時と休憩時だけ。
その機会は多くないだろうと聞いていたが、実際は、二回に一回くらいの割合だった。
おかげで各人の名前と顔、好みも、早く覚えることが出来た。
ラップサンドを包む紙を、引き剥がす間も惜しむように島野が齧り付くのは、空腹で目が回る寸前ということだから、
「どうぞ、ミルク多めになってます」
一番の好みはブラックだけれど、空腹でお店に来る時は必ずカフェオレなのだ。
口の中が一杯の島野が、受け取ったカップをサンキューというように目の高さに掲げてみせる。
コーヒーを待たずに春日が洋梨のデニッシュを頬張っているのは疲労困憊という意味だから、一応確認してから、普段、スティック半分の砂糖を全部入れる。
そうして、いつも皆に行き渡るまで手伝ってくれる沢木に、カップ半分まで注いで渡す。
沢木は熱いコーヒーが好きなので、すぐ飲みきれる量だけ注ぐようにしたら、とても喜んでくれたので、以来、同じようにしている。
この頃には、島野がラップサンドを詰め込み終えているので、今度はミルクなしの二杯目を。
そうして、二巡もする頃には休憩タイムも終わりに近付く。
今日もそれは同じで、沢木が人心地ついたようにカップを置くや、ドアの開く音がし、何気なくそちらを見ると、現れたのは葉月だった。
店には休憩時間ともなればやって来るけれど、スタジオで顔を合わせるのは、バイトの初日以来。
気付いてはくれているようだが、こちらのテーブルには近付くことなく、カメラの前に行ってしまう。
沢木たちもすぐさま各自の持ち場に戻り、なごやかなようでいて、仕事場独特の空気が張り詰める。
音を立てないよう、手早く片付けをし、空になったポットを抱えてバスケットを提げる。
そして邪魔にならないよう、速やかにスタジオを出なければいけないのに、
「それじゃ、始めるよ」
カメラマンの横嶋が掛けた声につられて、つい、そちらを見てしまった。
眩しいような光の中に、葉月がいた。
連続して響くシャッター音。
その音に混じって、誰かの声がする。
「・・・ちゃん、明日香ちゃん?」
呼ばれているのは自分だと気付き、慌てて声の方を向いた。
ヘアメイクの本宮が不思議そうに自分を見ている。
「すみませんっ、すぐ出ます」
「あら、」
何か言いかけられたのに、逃げるように足早にドアへ向かう。
「いいよ、葉月君。じゃあ次は、」
指示を出す横嶋の声を背に廊下へと出る。
ドアを閉めてしまってから、挨拶を忘れたことに気付いたが、今からその為に戻るのは間が抜けている。
失敗したと悔やみながら、ポットを抱え直した。
「ああ、びっくりした」
呟きが洩れる。
自分はどれくらいの間、呆けていたのだろう。
たぶん、1~2分。いや、3分?まさか5分も経ってはいない筈だけれど。
撮影中の葉月を見たのは、これが初めて。
学校に居る時とも、遊びに出掛けた時とも、まるで雰囲気が違う。
「早くお店に戻らなきゃ」
意識を自分の仕事に向けようとしながらも、別人のように感じた葉月の残像が、心の中から消えなかった。
『葉月君が撮影してるとこ見たの、明日香ちゃん、初めてだっけ?』
『そうなんじゃないか?目をまん丸にして驚いてて、可愛かったなー』
休憩を兼ねてアルカードに向かう珪は、そんな会話を幾度となく、心の中で思い返していた。
胸もアタマも、もやもやする気持ちで一杯だった。
イラついているし、不安でもある。
今の、この自分。
カメラの前で、格好をつけて見せているこの作り物の自分を、今日子はどう感じたのか。
目を丸くしていた?
何に?
驚いたというなら、それは呆れたのか、ヘンだと思ったのか。
スタッフの、可愛かったという表現にもムカムカしているが、これは気楽で他人事な言い草への八つ当たりだろう。
どちらにしても、みっともない。
昔の自分だったら、こんな時、どうしただろう。
つい気になって考えてしまうのは、この前の体育祭の時から。
今日子と一緒に、二人三脚で一番になれた。
正確にはトップでバトンを渡せただが、チームとして一位になれたし、クラス優勝も出来たのだから、一緒に一番になる約束は実現出来たと思う。
そのことは嬉しかったけれど、以来、何かと言うと、心が昔に戻ってしまう。
果たさなければいけない、もっと大切な約束のことも、今日子が思い出さないことを理由に、逃げているだけの自分を思い知る。
約束をしたあの頃とは、まるで変わってしまった自分に気付かれた時、どんな反応をされるのか、それを知るのが怖い。
臆病になる気持ちのまま、それでも、手は、アルカードの扉を開く。
ドアベルの音に、カウンター内に居た今日子が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じ、変わることない笑顔だった。
触れれば温かなぬくもりを感じられる微笑みを見つめ、いつもの席に座る。
「おつかれさまです」
変化は何も感じない。
心の底からほっとした。
(・・・いや、でも、)
少し、落ち着きがないように思う。
「ご注文は何になさいますか?」
いつもなら、こちらがオーダーするまで待っていてくれるのに。
(忙しいのか?)
「じゃあ、モカとツナサンド」
代わり映えのしない注文を復唱し、カウンター内に戻っていく。
この席から、向かい合う今日子の、流れるように無駄のない仕草を見ることが、習慣になっていた。
(やっぱりこのバイト、こいつに合ってる)
紹介こそ、し損ねたけれど、先に見抜いていたことには変わりなく、得意にも似た気分になる。
珪自身、すっかり覚えてしまったいつもの行程。
(ん?)
マスターが淹れる筈のコーヒー、その仕度を今日子がしている。
目線を上げて見た顔は、緊張していた。
(ああ、そうか)
真剣に、息を詰めた表情で、慎重にお湯を注いでいる。
フワっとふくらむコーヒーの粉と、立ち昇る香り。
(最終試験、パスしたんだな)
ここへ来るまでのイラつきや不安が消えていくのを感じる。
変わらない今日子と接していると安心する。
だから、恐れていても、ここへ来てしまうのかも知れないと思った。
「お待たせ致しました」
カップを置く手が、微かに震えている。
それに気付くと、珪までも緊張してしまった。
見ないようにしながら意識している、今日子の気配を強く感じながら、カップに口を付ける。
コーヒーは美味しかった。
この店で、何十回となく飲んできたけれど、これが一番美味いとさえ感じる。
これからは、ここに来れば今日子がコーヒーを淹れてくれる。
胸の内が温かくなるのは、熱いコーヒーを飲んだせいだと、珪は単純に考えていた。
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