風に梢が揺れるたび、木洩れ日がキラキラと零れる穏やかな春の日。
庭の樹を見上げたまま動かない小さな娘を、奨は見守っていたが、苦しげに息をつくと、
「今日子」
優しく呼び掛けた。
それでもビクッと身体を震わせた娘は、こちらを振り返ることなく、パジャマの袖で顔を擦る仕草をした。
「何を見てるんだ?」
傍らに膝をついて一緒に見上げる。
陽に透ける、葉の緑が綺麗だった。
「ああ、きれいだな」
こんな風に、自然の色を感じるのは久しぶりで、それだけ余裕をなくしていたのだと思う。
娘と手を繫いで、目に映るきれいなものを数えて歩くことも、もう随分していなかった。
チカッと、重なり合った葉の隙間から、洩れる光が目に眩しい。
まばたきして、傍らの娘に眼差しを戻す。
ふっくらした頬には涙の跡がこびりつき、擦ったせいで少し赤くなっている。
腫れぼったい目は、眠っている間も夢に泣いてばかりいたせいで、奨は再び強い後悔に襲われた。
「さ、おうちに入ろう。また、お熱が出たらたいへんだ」
腕を広げると、素直に手を伸ばして、首にしがみついてきた。
片言で甘えていた頃のように抱き上げ、踵を返すと、急に身じろぎし、伸び上がるようにして梢をふり仰いだ。
再び溢れてきた雫が、ひとつ、ふたつ、頬を滑っていく。
唇を噛んで、声は立てず、涙だけ零している。
「まぶしかったか?お目目が、お日さまの光にびっくりしたんだな」
泣いていると思われたくない娘の為に、奨はそんな風に言って、また一緒に梢を見上げた。
目に映るこの景色は、無くしてしまった記憶のどこかに、繋がっているのだろうか。
「・・・とーさま」
小さな、弱々しく震える声。
いつも元気すぎて、はしゃがれると、よく透る声に思わず耳を塞いでしまうほどだったのに。
「どうした?」
「・・・ここが・・・クシュクシュするの」
掴んだのは、パジャマの胸の辺り。
「ずっと、するの・・・」
梢を見上げる瞳は涙でいっぱいなのに、まだ、声を上げて泣くことを我慢している。
「どうしてかなぁ・・・」
「・・・今日子」
躊躇いながら、奨は聞かずにはいられなかった。
「けいくんに、会いたいかい?」
「・・・けい、くん?」
その名前は、不思議そうに繰り返された。
「けいくんて、だぁれ?」
後悔で、胸が締め付けられる。
『帰る!前のおうちに帰るっ。約束したの・・・ずっと待ってるって、約束したんだもんっ ・・・会えなくなっちゃう、あそこで待ってなきゃ、けいくんと会えなくなっちゃう!』
他愛ない子供の我が儘と、とらえ損ねた言葉が今になって心に響く。
「そうか・・・わからないか・・・」
クシュクシュと、ずっと続く胸の痛み。
(それは、寂しいっていう気持ちだよ)
ノックの音に、ぼんやりしていた意識を、奨は現在に戻した。
「お父さん、コーヒー淹れてきたよ」
開いた扉から、トレーを手にした娘が顔を覗かせる。
「ああ、ありがとう」
床に積んだ本、散らばっている資料を器用に避けて来ると、なみなみとコーヒーを満たしたカップを、慎重に机へと置いた。
「いい香りだな」
膝の上に広げていたアルバムを、汚す前に片付けようとして、娘の視線に気が付いた。
「おまえも見るか?」
開いたままアルバムを差し出すと、トレーを机の端に置き、受け取った。
「ねぇ、なんで急にこんなの見てるの?」
「こんなのはないだろう。おまえが幼稚園に行ってた頃の、選り抜きばかりを集めた傑作集だぞ」
「・・・ふぅん」
まるで気のない反応。
ページを繰り、瞳は過去の自分を映しはしたけれど、何の感情も呼び覚まさないまま熱いコーヒーを二口啜る間に、アルバムは閉じられた。
「なんだ、もういいのか」
最後まで見ることもせず、アルバムをトレーと置き換える。
「みみず腫れも、たんこぶも、擦り傷も切り傷も治ってる時の、写真ばかりなんだぞ」
負けん気が強いせいで男の子とケンカになるだけじゃなく、勢い余って滑ったり転んだり。
この街に住んでいた頃は、小さな傷を作ってばかりいた。
「もういいよ。その話は」
案の定、プンとむくれる。
誇張して話したことは一度もないのに、作り話と決めつけて、はなから信じようとしない。
「あ、忘れるとこだった。尽がね、明日の夕飯は自分がするから、お父さんは仕事してて、だって」
そうして、胸の痛みに繋がりかける糸は、無意識のうちに断ち切ってしまう。
どれだけ月日が経っても変わることなく、それは習性のようになっていた。
「別に大丈夫だぞ。夕飯作るくらいの時間は、ちゃんとある」
なるべく仕事に集中出来るようにと、子供たちが協力してくれるのは嬉しいが、家族と過ごす時間が少なくなると、それはそれで、仕事に対する意欲が低下していくのだ。
「尽がやるって言ってるんだから、いいの。それに明日は、お父さんと尽の二人だけだもん」
「そういえば、明日からだったな、バイトに行くのは」
「うん。お母さんは会食で遅くなるしね」
「美咲ちゃんと一緒のじゃなくて、よかったのか?」
唐突にアルバイトをしたいと言って来たのは、クラブ活動と同じパターンで、綾瀬美咲に誘われたのだとばかり思っていた。
「美咲は一学期はやめとくって。様子見て、夏休みか、二学期からにするんだって」
「それはまた、ずいぶんと慎重だな」
「うん。美咲ってね、先のことまでちゃんと考えてて、凄いんだよ。わたしも見習わなくちゃ」
いや、それはムリだろう。
頭で考えるより、感性が先に立つ。
今日子のそれは、天性のものだ。
「お父さん、今、直しようがないからムリって、思ってない?」
正確に父親の思考を読み取った娘に、
「そんな筈ないだろ。いい友達が出来てよかったな」
しらばっくれてみせると、うん、と嬉しそうに笑う。
この危なっかしいほどの素直さ。
入学早々、しっかりした友達が出来て、本当に良かったと奨は思った。
「あのね、お父さん、ひとつ聞いてもいい?」
「なんだ?」
傍に引き寄せてある一人掛けのソファの上から本を下ろしてやると、トレーを胸に抱いたまま、ちょこんと座る。
なりは大きくなっても、仕草や雰囲気は幼い頃とあまり変わらない。
座って低くなった位置から見上げてくる、困ったようなカオなど、
『とーさま、あのね』
小さな手を伸ばして、膝によじ登ってきた頃、そのままだった。
「お母さんて、高校の時、すごく人気あったんだよね」
「あったな」
「じゃあね、お父さんは他の人から、お母さんに迷惑だから近付くなって、言われたりした?」
「そういや、そんなこともあったな」
「お父さんは、その時どうしたの?」
「やなこった、ってシカトした」
「おとーさん・・・」
「あたりまえだろう」
久しぶりの相談事と、内心、張り切ってみれば、何を考慮の余地すらないことを聞くのか。
「ゆりの中に俺の居場所を確保しようって時だぞ。他の奴らなんかに、いちいち構ってられるか。大体、ゆり本人から迷惑だって言われたなら考えもするが、他人に言われて遠慮する必要がどこにある」
「・・・美咲も、おんなじコト言ってた」
口ぶりと表情からして、もっとピシャリと、やっつけられたと見える。
「どうした、美咲ちゃんにくっ付いててヤキモチでも焼かれたか?あの子は男女問わず、モテそうだからな」
何度か家に遊びに来ているが、さばさばした気性や頭の回転の良さを思わせる物言いは、美少女然とした外見に爽快感すら与えていて、綾瀬美咲が男だったら完璧なのにと、尽が未だに残念がるのも頷けた。
「美咲はね、すっごくモテるんだよ。学校内でもナンパされてたくらいなんだから」
「ああ、姫条君だろ。おまえもその時、一緒にナンパされたんじゃないのか?」
「ついでじゃないかなぁ」
例によって、鈍い。
一体、誰に似たのか。
小・中学校と、それなりにモテていたのに、当人はまるで気付かず、尽の審査をクリア出来ない者たちはその時点で妨害に遭い、敗退していった。
嬉しそうに女友達の話を続ける娘は、父親の目にはアルバムの中の頃と変わらないように見える。
これでは恋を知って大人になるのは、まだ当分先のことになるだろうと、迂闊にも奨は楽観していた。
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