「姉ちゃーん、風呂空いたぜー」
ドアをドンドン叩く。
「姉ちゃーん」
返事がない。
前の家では、机とパーテーションで仕切っただけの同じ部屋だったから、気配ですぐに様子が分かったのに。
部屋が別々になってしまったことを、改めて不満に思いながら、もう一度、ドアを叩く。
「入るよ」
返事がないのを無視してドアを開けると、
(あっちゃー)
ラグを敷いた床にぺたりと座り、クッションを抱いてちんまりと居る、姉の姿があった。
学校が始まって、まだ一週間。
夕飯の時、やけに静かだと思ったら、もう、落ち込むことがあったらしい。
(計画通り、葉月に番号渡せてれば、チャンス到来だったのにな)
姉を落ち込ませているのが、その葉月とは知らず、尽は傍に行き、ちょこんと座った。
「なんか、あった?」
年が離れているのが、かえって気楽なのか、尽はこうやって姉の悩みやグチを聞いてきた。
「・・・・・・」
「とりあえずさ、風呂入ってきたら?俺、まだ起きてるし」
すぐに立ち上がって行こうとすると、
「尽、」
(ほらな)
心細げに名前を呼ぶのだ。
「なに?姉ちゃん」
そうして、座り直すと、
「あのね、」
ゆるゆると話し出す。
「わたしって、適当?」
「はい?」
訊かれた言葉が意外過ぎた。
生真面目すぎると、いつも思っていた。
人の言うことをすぐ信じる素直さと共に、尽から見れば、危なっかしいだけの欠点。
適当に流すということを、どうやって姉に習得させようかと、考えているくらいなのに。
いつものように、スラスラとなぐさめの言葉が出てこないのをどう思ったのか、
「お風呂、入ってくるね」
無理に微笑うと、部屋を出て行ってしまった。
「・・・俺、まだ修行が足りないかも」
世界一のイイオトコに渡すまでは、姉を守るのは自分の役目なのに、フォローの一つも出来なかった。
「けど、誰に言われたんだろ」
どこのアホウか知らないが、姉を全く分かっていない奴の言うことなんか、ちっとも気にする必要はないのに。
「よし、出てきたら、この線でなぐさめよっと」
姉の好きな蜂蜜入りのレモンティーを準備しておこうと、尽は立ち上がった。
湯船の中で、今日子は落ち込みまくっていた。
明日、学校で、
(葉月君に何て言おう)
ずっと考え続けているのに、一言も思いつけない。
最初は、謝ろうと思った。
けれど、それこそ、適当な気がした。
仕事の翌日、昼まで起き上がれないほど疲れているのに、写真を見ただけで安易にすごいとか、大変だねと、知ったかぶりした自分を、不愉快に思ったのだろうと、今日子は考えていた。
だから、何も分からないまま謝るのは、もっと適当で、失礼だと思えた。
立ち去って行く背中を見た時の取り残された気持ちが、薄れることなく、今日子を落ち込ませている。
「何て、言おう」
いつまで湯船に漬かっても、言葉は、一つも見つけられなかった。
「姉ちゃん、もう気にすんなよ!」
後ろで、尽が声を張り上げている。
昨日、のぼせて風呂を上がってからずっと、そう言って、なぐさめてくれている。
大丈夫と、笑って手を振ってみせたのに、信用してない顔つきでいる。
訳を、何も話さなかったからかも知れない。
同じ姉弟なのに、どうして尽はあんなに気が回るのか。
友達が沢山いるのも、相手の気を悪くさせるような失敗をしないからなんだろう。
とにかく、もう少し考えて喋らなければいけない。
(葉月君に会ったら、会ったら、えっと、)
朝の道を、まだ、のぼせているような頭で歩く。
「あっ、」
道を向こうから、うつむきがちに歩いてくる人。
公園のところで、学校へ向かう道に折れようとして、上げた顔がこちらを見る。
離れていたけれど、自分に気付いたのが分かった。
目が合ったのは、ほんの数秒。
ついと、目を逸らされる。
止まっていた足が前に出る。
「葉月君!」
考える間もなく、走り出していた。
傍に駆け寄り、
「おはようっ」
大きすぎる声で言った。
どう思ったのか分からない無表情。
けれど、逸らされた緑の瞳を、もう一度こちらに向けてくれていた。
「おはよう、葉月君」
今度は、普通の大きさの声で言うと、
「・・・おはよう」
ぼそりと、返してくれた。
ほっとして、頬が緩むのが自分でも分かった。
「早いんだな」
歩き出すのに合わせて、横に並ぶ。
「そうかな。いつもこれくらいの時間だよ。葉月君も、この時間に出るの?」
「決まってない」
「ああ、前の日、お仕事だと眠いから?」
言ってから、また!と焦る。
気を悪くしたかと、そっと窺い見ると、深い緑の瞳が見つめていた。
「おまえ・・・」
心の中でビクっとした。
「早いんだな。足」
「・・・足?」
「あっという間だった」
さっき、ダッシュで駆け寄ったことを言っている。
「そうかな」
「意外」
褒められて、うれしくなったところへ、
「トロいんだろ?」
失礼なヒトコトが降ってきた。
「そんなことないよ!」
思わず反発した。
「よく言われるって言った。この前」
植物園からの帰り道、別れ際に交わした会話だ。
「言われるけど、そんなにトロくないもん」
反論にもならないことを返しながら、ほんとうに、もっとよく考えて喋ろうと思う。
(葉月君て、話したこと、けっこう覚えてるんだ)
「走るのだけは早いって、言われるんだから」
「だけ、なのか」
「そう、です」
(わたしって馬鹿?学習能力ゼロ?・・・でも、)
ふわっと、心が軽くなる。
(また、葉月君と話せてる)
昨日の失敗を、許してくれたのだろうか。
「そういう葉月君は、走るの速いの?」
「速い」
即、悪びれず言うので、可笑しくなる。
「じゃあ、ボール使っても速い?」
「おまえ、球技苦手なんだろ」
「なんで分かったの!?」
心底びっくりして、足が止まってしまった。
見上げた深い緑の瞳は宝石のようで、ああ、やっぱりきれいだなと、ぼんやり思う。
「目・・・」
ドキッとした。
今、まさか、自分は口に出していた?
「いや、なんでもない」
横顔を向け、先に行ってしまう。
すぐに追いかけて隣りに並ぶ。
(わたし、言ってないよね?口に出してないよね?)
大慌てで、今のやりとりを反芻する。
その傍らで、珪も思い返していた。
(もう、近寄ってこないと思ったのにな)
『葉月君!』
まっすぐ目指して、駆け寄って来た。
(昔と同じだ)
銀杏の樹の下に自分を見つけて、走ってきたあの頃と。
それに、言い当てられて、まん丸になった瞳。
(自分で白状したようなものだろ。驚くことか)
胸の奥が、ざわめく。
(ヘンなヤツだよな。こいつ)
でも、気分は悪くなかった。
- Fin -
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