凍りつきそうな北風が、洋館の窓ガラスをピシピシと震わせる冬の寒い朝。
室内に居ても窓の前に立てば、背中はひんやり冷たくなる。
これから始まる撮影行程に、屋外が含まれていないことを、珪は感謝せずにはいられない。
プロ意識がどうのと言われても、寒いものは寒いのだ。
もっとも、この強い北風の中では撮影自体、中止になったと思うけれど。
(・・・なったよな?いくらなんでも)
車を止めた駐車場からこの洋館の中へ滑り込むまでに、風になぶられた髪はクシャクシャに乱れてしまった。
『またまた、ホントはセットする間もなく、慌てて出てきたせいじゃないの?』
冷やかしは、この際、甘んじて受けるべきだろう。
隣の食堂との境に、邪魔にならないよう、ひっそりと立つ今日子に視線を向ければ、
「葉月君、よそ見しないで」
すかさず、カメラマンの横嶋からツッコミが入る。
笑い声が上がる中、
「メイク直しの間くらい、いいじゃない。ね?」
本宮の取り成しは、心の中の呟きそのままだったから、さすがに気恥ずかしくなる。
「明日香ちゃん、葉月君からもっとよく見える位置に移動したげて」
スタッフのお節介な気遣いに、今日子が困ったカオで、どうしようと助けを求めてくる。
当分、ネタにされるのは確実なのだから、物はついでだ。
いいんじゃないか、と頷いてみせる。
また笑われても仕方がない。
今朝はどうしても、離すことが出来なかったのだから。
寝坊だけは出来ないと、眠りに落ちる間際、思ったのが効いたのか、目を覚ましたのはアラームをセットした時刻より十分も前。
ほら、ちゃんと起きただろ、と腕の中で眠る今日子に言ってみたくなる。
最近は目覚ましをセットし忘れても、起きるべき時間に、ひとりでに目が覚めるのだと教えたのは安心させる為だったのに、
『どうしてそんな危ない真似するの!』
かえって、ものすごく、本気で、心の底から心配された。
今日子の中にある、“珪は寝ぼすけ”という印象は、簡単には払拭出来ないものであるらしい。
『だって、知らないうちに目覚まし止まってたって、遅刻してたの、一年ちょっと前のことじゃない』
言われてみれば、それもそうかと思う。
「ん・・・」
眠りが浅くなっているのか、今日子が腕の中で落ち着かなげに身じろぎする。
安心させるように背中を撫でてやると、また、スゥと寝息を立て、深い眠りに落ちていく。
(一年か)
永遠を始めてから、まだそれだけの時間しか経っていないのが、不思議な気がした。
もうずっと長く、遠く離れていた間でさえ、互いの心の中に居たことを、今は知っているから、そんな風に感じてしまうのだろうか。
(けど、その割りにいつまでたっても余裕がないのは、どうしてなんだ?)
昨夜も、アルカードで待っていたのは、遅くなった今日子を無事に送り届ける為だった。
それが、一緒に家へ連れ帰ってしまったばかりか、求める気持ちも抑えきることが出来なかった。
(でも、あれはおまえが悪いんだぞ)
迎えに来てくれてありがとう、なんて、あんな風に微笑うから、
『嬉しかったの。ありがと珪、大好き』
あんな優しい声で囁くから、理性もタガも、止めようもなく弾け飛んでいた。
正直に告白するならば、今この時も、触れ合う肌の誘惑に、即座に陥落する自信がある。
(こんなことで威張ってどうする)
自嘲のため息は情けなさ過ぎて、とても今日子には聞かせられない。
観念するという表現がぴったりだと思いながら、ようやく、腕を解いた。
手離すのは惜しくてならなかったが、もう起きて、仕度をしなければならない。
午前中の仕事さえ済めば、午後はずっと二人だけで過ごせるのだから、その為にも頑張れと自分を励まし、あたたかくて柔らかな身体をゆっくりと離していく。
「・・・け、い・・・」
舌足らずな、甘い呟き。
「い・・・や・・・」
肌の上を滑るように下りた手が背中に回り、ぴたりと寄せられた身体が、また腕の中に戻る。
(おまえ・・・)
寝惚けているのは分かっていた。
今日子は、相手を困らせると知っているワガママは口にしない。
だから、普段見せることのない甘えに触れることが出来て嬉しいのだけれど、この状況はマズイ。
とても、マズイ。
昨夜の意識は、パジャマの上だけを今日子に着せ掛けるところまでしか持たなかった。
与えられる刺激すべてダイレクトに伝わる今のこの自分の状態で、離さないでという熱に囚われたら、再びこの腕を解くことなど出来そうにない。
その上、理性は働くのをやめようとしている。
進退窮まった薄闇の中に、ひどく現実的な電子音が響いた。
いつの間に十分経ったと、無粋なアラームを急いで止めたが、もう遅い。
「・・・珪・・・」
眠たげでも、さっきとは明らかに違う、意思の感じられる声。
「・・・もう、朝?」
今日子が目を覚ましてしまった。
「いいから、おまえは寝てろ」
がっかりしているのが自分でも分かるくらい、声に表れていた。
助かったことには違いないが、もう少しくらい、甘い葛藤に浸っていたかった。
「目、閉じてろ。おやすみ」
出来るだけ優しく囁いて、背中を撫でてみた。
もしかしたら、夢の続きを見てくれるかも知れないと期待して。
けれど今日子は、
「いま何時 !?」
その手を撥ね退ける勢いで飛び起きた。
「珪、起きてる?目、覚めてる?」
「・・・起きてる」
「よかったぁ」
こういうやつだと、わかっていた。
目覚めてすぐ、寝坊していないか、心配してくれる優しさも。
ただ、
(俺の方が寝惚けてたのか?)
甘える声や仕草に触れていた、ほんのわずか前に戻りたくなるのも確かだった。
おまけに寒い。
掛布団を剥がされて、覆うもののない肩も胸も、むき出しになっている。
「珪?」
毛布を手繰り寄せ、頭から引き被った。
「二度寝したらダメだよ。ちゃんと起きて?」
背中を向ければ、促す声はいっそう優しくなるが、欲しい甘さはカケラもない。
「おまえ、俺のこと全然信用してないだろ」
「そんなことないよ。ただ、ちょっと、どうしたかなって思っただけで、」
否定はしても、後が続かない。
「十分前から起きてた。おまえが寝惚けて言ったことも、みんな聞いた」
「えっ」
事実は、寝言のうちにも入らないような呟きだったけれど、ちゃんと伝わっているから同じことにしてしまう。
「・・・わたし、何、言っちゃったの?」
やけに焦っている。
わざと答えないでいると、教えてよと、毛布の上から揺さぶってくる。
「離さないで、やだ、って言ってた。寝言だけどな」
馬鹿みたいに拗ねているのは、昨夜の甘い名残の気持ちを留めているのが、自分だけのような気がするからだ。今日子の寝起きがいいのは今朝に限ったことではないけれど、この拍子抜けした気持ちの持って行き場所がない。
「・・・それ、寝言じゃない」
消え入りそうな声。
聞き間違いかと、起き上がっていた。
スタンドの灯りを点ければ、眩しそうに背けた横顔が、うっすら紅く染まっている。
「それなら・・・おまえも、一緒に行くか?」
問い掛けるのはフェアではなかった。
一緒に行くことが出来れば、往復の行程は楽しいドライブデートになると、心の内で先走っているのは自分の方だ。
「・・・・・・行く」
小さく、吐息のように零れた言葉だったけれど、今度は耳を疑ったりはしない。
両手で頬を包み、こちらにカオを向けさせる。
見つめ返す今日子の潤んだ瞳には、昨夜の名残が消えることなく、甘くたゆたっていた。
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