「悪かった。もう桜子にしか、チューしないから」
「ムリだもんっ!」
間髪入れずの一言に、再びギャラリーと化した姫条と鈴鹿が、おおっと、感心の声を上げる。
「さすがに、よう分かっとる」
「ああ、それに、いい動きしてるな」
すばしこく父親の手をかいくぐり、ソファに飛び乗ったかと思うと、背の部分を乗り越えてすべり落ちる。
「バスケ教えてみるか。けっこう、イイ線いくかもしれねぇぞ」
数年前まで、寒々しいほどの広さを感じさせたリビングを、ターッと駆けてきた桜子は、くるりんと、姫条の長い足の後ろに隠れた。
「桜子っ、とうさまの話を聞きなさい」
この程度の追いかけっこで珪が息を切らしているのは、精神的ダメージの影響なのだろう。
「ヤダっ!」
桜子は、カンカンに怒っていた。
「桜子、」
膝をついて、息子から成り行きを聞いていた今日子は、可笑しくてたまらなかった。
「今日は、とうさまのお誕生日なんだから、一回だけ許してあげたら?」
「だって・・・とーさま、ゼッタイまた、やくそくやぶるもん」
ゼッタイとまで言い切られた珪が反論するより早く、
「だいじょうぶ。とうさまが約束を守れるように、かあさまがちゃんと、よけるから」
にっこり笑顔で娘に受け合った。
「かーさまには、ぼくがチューしてあげるね」
すかさず、背伸びをした透が母親の頬にキスをする。
「ありがとう、透」
お返しのキスを息子に返すと立ち上がり、
「さぁ、ごはんにしましょうね」
透と一緒にスタスタとキッチンへ戻っていく。
「葉月・・・」
鈴鹿がしみじみと続けた。
「おまえ、ほんっとに、顔に出るようンなったなぁ」
「とーさま、かわいそう。泣かないで」
やっと傍へ来てくれた娘は、その大きな瞳に、三つの子供に出来る最大限の同情を込めていた。
「泣いてない」
娘を抱き上げた珪のカオは、それはそれは情けないものだった。
「とーさま、いっかいだけ、ゆるしてあげる。だから、げんき出してね」
父親の頭を小さな手で撫で撫でして、なぐさめる。
「けど、約束は守らせんのな」
この容赦ねぇとこ、やっぱ葉月の娘だと鈴鹿は妙に納得し、姫条は、
「桜子は常に直球勝負なんや」
落ち込む父親の代わりに答えたのだった。
パーティーの主役が酒の肴にされてしまうのは、ある程度、仕方がないと言っても、今年は些か、気の毒な様相を示し始めていた。
もちろん、
“きょうは、さくらこにしか、チューしちゃダメ”
という約束のせいである。
姫条と鈴鹿が面白がって喋ったこの顛末は、続々と集まる来客者に伝言ゲームのように伝えられるうち、
“今日、葉月珪は、最愛の奥さんにキス出来ない”
と表現を変えていた。
結果、どうなったかというと、
『桜子、葉月が母さまのトコに行こうとしてるぞ』
今日子のいるキッチンへ飲み物を取りに行こうとするだけで、
『とーさま、ダメ―っ』
桜子が追いかけてくる。
その度に弁解したり、慌てたり、ムスッとする珪の反応を面白がって、皆が皆、すっかり悪ノリしていた。
「ほら、ちゃんと両手で持つんだぞ。走るなよ、転ぶから」
地下のワインセラーにまで、しっかり、くっついて来た桜子にせがまれ、内心、危ぶみながら、ワインの瓶を持たせる。
「だいじょ―ぶだもん」
両手でしっかりと瓶を抱えて、トコトコ、リビングに戻っていく娘を見送りながら、珪は一人、廊下でため息を洩らした。
乾杯から既に2時間以上経過しているのに、まるで酔えない。
「あいつら、何しに来たんだ?俺の誕生日なんか祝う気ないじゃないか」
ぼそりと一人ごちる。
「そんなコト言わないの」
頭の上から声がして見上げると、すぐ横の、二階へ通じる階段に今日子が居た。
「皆、この日に予定を合わせてくれてるの、知ってるでしょう?」
「年一回の同窓会代わりに、してるだけじゃないのか」
構われ過ぎて、ご機嫌を損ね始めているらしい珪の方へ、今日子は手すりから身を乗り出すようにして顔を寄せた。
触れ合った唇は、その温度を認識する間もなく離れた。
「わたしからしちゃダメとは、約束にないわよね」
残りの数段を降りてくる今日子の横顔は照れていて、そのままリビングへ逃げ込もうとしたのに、腕を捉えられてしまう。
「もう一回」
「えっ」
そう来るとは思わず、今日子はうろたえた。
「今の、短かすぎ」
迫ってくる表情が、本気の意志を伝えている。
総出でマッタを掛けられまくり我慢を意識したせいで、内心、焦れ焦れしていた珪を煽ってしまった、これは今日子のミスだった。
「ダメだってば」
掴まれた左腕を引き寄せられて焦る。
「なんでだ?」
「だって、ほら」
今日子が目配せした先にいるのは、
「透・・・」
リビングへのガラス扉の前で、透が黒目がちの瞳を、じーっと、こちらに当てていた。
「とーさま」
トコトコと、透は父の許へやって来ると、チョイチョイと手招きした。
そうして、しゃがみ込んだ父の耳に、こしょこしょと何事か囁く。
珪は、この様子を見守る今日子にチラッと目をやると、透の小さな耳に、こっそりと囁き返した。
父親と目を合わせ、ニコッと笑った透は勢いよく駆け出し、リビングへの扉を開けるや、
「さくらこ!、きょうは“とくべつな日”だから、あといちじかん、おっきしてて、いいって!」
大きな声で叫んだ。
うわ―いっ!という桜子の歓声は、この廊下にまではっきりと聞こえた。
「あいつ、ほんとに声デカイな」
「珪」
母親の表情で、今日子は叱るように珪を見上げた。
「あのコたちと、何かと引き換えの約束はしちゃダメって、いつも言ってるでしょ」
「約束とは、少し違うな」
「どこが違うのよ」
「どっちかって言うと、取引」
と、よける間もなく奪われた唇に、息もつけぬ深いくちづけが繰り返される。
ようやく満足して、それでもまだ名残惜しげに今日子を離すと、
「男同士は話が早くていいな」
しれっとして言った。
「―――珪っ!」
まっ赤になって怒る今日子に、
「今日は特別な日だろ?」
額への短いキスを落とし、身軽く背を向ける。
「――特別な日って・・・何しても許されるって日じゃな―いっ!」
めちゃめちゃ上機嫌で戻ってきた珪を見て、来客者全員、すぐ、その理由にピンときたが、滅多にさせてもらえない夜更かしのお許しに、躍り上がっている桜子は何も気付かない。
無粋なツッコミは、誰もしない。
この楽しい集いをもたらしてくれた、主役の生まれた日を祝うために。
- Fin -
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