たゆたうまどろみの中で、くすぐるように髪を梳く指が在るのを感じた。
しょうのない奴、と思う。
『触ってもいい?』
髪に触れようとした手を捉えてキスを落としたのは、もう、何年も前のこと。
『珪の髪って、ふわふわして気持ちいい』
クセのある髪をうれしそうにイタズラする手はもう、手の平へのキスぐらいでは、ひるんだりしない。
寝癖のついた髪を、ツンと引っ張られる。
声を立てないようにして笑っている空気が、珪をくすぐる。
もう少し、この暖かいベッドでまどろんでいたかったけれど、このイタズラな手の持ち主をつかまえたい誘惑に勝てそうもない。
「こら、今日子」
まぶたは閉じたままで、左腕で抱き寄せる。
ぽすんと、胸の上に倒れ込んだその軽さ、小ささに目を開ける。
父親譲りのふわふわとクセのある、明るい色の髪。
その頭をクシュっと撫で、名前を呼ぼうとして、
「ヴッ、」
お腹を踏まれた珪は、常にはない潰れた声を洩らした。
暴れるように腕を払って跳ね起きた娘は、その小さな足の片方が、父親のお腹の上にあると気付いていない。
「さくらこだもんっ!とーさまのバカーっ!」
目覚まし時計も敵わぬ大きな声が、珪の鼓膜をビリビリと震わせた。
「そら、葉月がアカンわ」
「桜子が怒るのも、ムリねぇんじゃ、ねぇの」
やっぱり話すんじゃなかったと、珪は後悔した。
ぶんむくれにむくれている娘の機嫌を取り結んでやるというから話したのに、姫条も鈴鹿も、味方にすらなってくれない。
この数年で恒例となった、葉月珪の誕生日を祝う会は夕方からだが、早い者は昼のうちから集まり出す。
今年の一番乗りは姫条と鈴鹿で、今はまだ、昼前だった。
「一番に“おめでとう”を、言お思うて早起きしたっちゅうのに、間違えられたら、そら、面白くないわ。なぁ、桜子」
面白がっているのが丸分かりの、ニヤニヤとしたカオで姫条が言う。
「しょうがないだろ。寝ぼすけの桜子が、こんなに早起きしてると思わなかったんだ」
「葉月っ」
二度目の失言を鈴鹿が注意した時は既に遅く。
かろうじて、同じソファの隅っこで拗ねていた娘は、明るい色の髪をひとくくりにしたピンクのリボンと共に跳ね上げて、ソファから飛び降りた。
そうして、タタッと、ローテーブルを挟んだ向かいの姫条の許へ行く。
「お、なんや、桜子」
膝の上によじ登ってくる小さな身体を、ひょいっと姫条が抱き上げると、もみじのような手を伸ばして、しっかりと首にしがみついた。
「さくらこ、きじょーのコになる」
「コォラ、“きじょー”やのうて、“ニィやん”や言うたろ?」
「きじょーは、きじょーだもん。とーさまなんかキライ。さくらこは、きじょーのトコにいく」
しゃーないなぁ、と満更でもない姫条に対し、珪はみるみるそのカオを険しくした。
「ありがちな技だが、今のは効いたな。ほら、もういいだろ、桜子。」
最初から野次馬の立ち位置で観戦していた鈴鹿だが、友人の物騒な顔つきに、ようやく仲裁に入った。
「いつまでも拗ねてっと、透に父さんを独占されっ放しになるぞ」
からかうように言われて、桜子はむくれていても可愛い顔をこちらに向けたが、その瞳は父親の膝を独り占めしてニコニコ顔の双子の弟に当てられていた。
母親似の素直な柔らかい髪と、黒目がちの大きな瞳。
二卵性とはいえ、双子にしては似てない姉弟は、今年で三つ。
おしゃべりで少しもじっとしていない桜子に対して、おとなしい透は放っておくと、いつまでも祖母のバイオリンのCDに、聞き入っている。
正反対の双子の共通点は、2人とも“とーさま”が大好きで、隙あらば、その膝を自分だけで独占しようとするところだった。
朝からずっと、父親にくっついたまま離れようとしない弟を、じーっと見ていた桜子は、プイッと髪を跳ねさせると、また姫条にギュウッとしがみついた。
「素直やないな、桜子は」
小さな身体を抱きかかえたまま、苦笑する。
「ヤキモチ焼きは、父親似か?」
「そないカワイイ表現とちゃうやろ。ほんまに独占欲強いで、この男は」
「そういや、高校の頃、明日香を誘おうとする奴、片っ端からガンつけて追っ払ってたって話、ホントか?」
「ホントも何も、有名な話やないか。今日子ちゃんをデートに誘おうとした命知らずが休みの予定聞き始めた途端、それまで机に突っ伏してグウグウ寝てた筈のこいつが、むっくり起き上がって、」
思わせぶりに言葉を切る。
「どうしたんだよ」
「例の無表情のまんま、じーっと見据えたもんやから、そいつ、びびって逃げ出しよってな。離れた席から一歩も動かんと、眼光だけで追っ払ったちゅうて、えらい噂になったやないか」
「全然、知らねぇ」
「いくらも経たんうちに、だーれも誘えんようになって、ほんまはまだオトモダチやった葉月が独り占め」
「おっかねぇヤツ」
本人を前にしてゲラゲラ笑う。
「もういい。せめて、その口閉じてろ」
こいつらを頼って助力を求めた俺が馬鹿だったと、珪は後悔を新たにし、自力で娘の機嫌回復に乗り出した。
「桜子、とうさまが悪かった。ごめん。許してくれたら、何でも一つ、桜子の言うこと聞くから」
教育上、あまりよろしくない交換条件は、もう、何に怒っているのか自分でもよく分からなくなっている娘の心を動かした。
「ほんと?」
そうやって首を傾げる仕草が、母親にそっくりだった。
「ああ。許してくれるか?桜子」
ますます甘く優しくなる声に、桜子は姫条の腕からスルリと抜け出しトンと下に降りると、父親の許にタタッと駆け戻った。
「じゃあ、ゆるしてあげる。そのかわり、さくらこの、おねがい1コきいてね」
「わかった」
とても分かりやすく、ほっとしたカオになるのを見て、姫条は、こみ上げる笑いをこらえた。
友人が父親として、なけなしの威厳を保つことに協力した訳ではない。
桜子のおねがいの中身に、とても興味があったのだ。
「じゃあね、」
ひどく得意そうなそのカオは、実は珪にそっくりなのだが、背を向けられている姫条には分からない。だが、
「きょうは、さくらこにしか、チューしちゃダメ」
娘のお願いに、一瞬、動揺した父親の顔はよく見えた。
盛大に噴き出した姫条と、ソファをバンバン叩いてウケまくる鈴鹿を見て、珪の膝にちょこんと居る透も、よく分からないながら足をパタパタさせて、一緒になって笑った。
「いーい?とーさま、やくそくね!」
得意満面な娘の様子に、珪は微かなため息と共に答えた。
「わかった。約束する」
ぱっと顔を明るくすると、桜子は弟を押しのけるようにして、大好きな父親の膝によじ登った。
「とーさま、おたんじょーび、おめでとー」
チュッと頬にキスをくれた娘に、うれしそうに珪もキスを返す。
負けじと、透も伸び上がって、チュッチュッとキスをする。
二人の子を両腕に抱き、微笑っている珪を見て、姫条と鈴鹿は、おかしそうに目を合わせた。
これが、あの葉月珪かね、と。
変わらない表情。
動きを表に見せることのない心。
語られることのない言葉。
容易に人を近づけようとせず、独りでいた男が、こうまで変わった様を今、目の当たりにしていても、不思議な気がした。
「大丈夫なんか?葉月。そんな約束して」
冷やかしに、珪はチラッと時計を見やり、
「別に。たかが、あと12時間14分の間のことだろ」
すましたカオで答えた。
「分て・・・」
当人はクールに決めたつもりなのだろうが、余裕などない心中そのままの返答に、明日香も苦労してんなと、鈴鹿は同情した。
「お待たせー。お昼出来たから、ごはんにしましょ」
いつも笑っているような明るい声に、跳ねるようにソファを立ったのは3人。
駆けて行くのは小さな2人だが、大きい方も早足で、
「子供かよ、葉月」
呆れた呟きに、いつものコトやでと、事もなげに姫条が応える。
「志穂と守村君も、もうすぐ着きますって。だから、席は8人分ね」
「わかった。あんまり、張り切り過ぎるなよ」
これから夜半まで続くだろうパーティーの間中、もてなしで動きづめになる妻を気遣って頬にキスをする。
大丈夫よという答えは、
「げっ、バカ!」
「ちょっ、アホか!」
鈴鹿と姫条の遅かった静止に消された。
はっとした珪が足許の娘を見ると、大きく見開いた瞳は、ごまかしようもなく、約束破りの現場をしっかと、捉えていた。
「桜子、今のは」
「とーさまのウソつき!」
タッと駆け出す娘をとらえ損ねた珪の手が、むなしく宙を掴む。
「まだ、5分も経ってないやないか」
「無意識だったよな、今の。さっすが葉月だぜ」
「何?どうしたの?」
一人、訳が分からない母親のエプロンの裾をツンと引っ張り、
「あのね、」
透がこっそり言いつける。
「とーさまのバカっ!もう、しらないもん!」
追い掛ける手を振りきり、顔をまっ赤にして怒る娘に、珪はもう一度、約束の誓いを立てた。
「悪かった。もう、桜子にしか、チューしないから」
その途端、ギュッと、ほっぺたをつままれた。
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