まだ、夢を見ているような気がする。
「何か、飲むか?」
「ううん。今はいい」
こうして、珪の家に居ること。
「いくらなんでも、朝早過ぎたな。眠くないか?」
もう、心を隠さなくていいこと。
「大丈夫。珪こそ、眠くないの?」
リビングのソファに、勧められるまま掛けると、
「眠りたくないんだ」
隣りに掛けた珪に、すぐに抱き寄せられた。
「まだ、夢みたいな気がするから」
「うん・・・」
珪も、同じ気持ちなんだ、と思う。
約束の場所へ、珪が迎えに来てくれたのは昨日のこと。
約束は、夢ではなくて、会いたかった誰かは、珪だった。
そうして、愛してると、ずっと、一緒にいようと言ってくれた。
もう離さないと抱きしめてくれる珪の腕の中で、今までの色んな気持ちがあふれて、子供のように泣いてしまった。
珪の胸に頬を寄せて、その早い鼓動を感じ、永遠を始める新しい約束を想う。
「なぁ、今日、どうしたい?」
珪から電話をもらって、二人で森林公園のカフェテラスで朝食を一緒にした。
時間が早すぎて、まだ、他はどこも開いていなくて、とりあえずと、一番近い珪の家に来た。
「どこか、行きたい所、あるか?」
この居場所より他に、行きたい所なんてなかった。
「・・・絵本」
「ん?」
「お話のつづき、聞かせて、珪」
「・・・そうだな。昨日はおまえ、泣いてばかりで、やっと泣きやんでも、ぼぉっとしてたからな」
いっぺんに沢山のことが明らかになった衝撃で、茫然としていた様を思い出すと、少し恥ずかしい。
帰宅して、泣き腫らした顔を見た尽に、
『卒業くらいでそこまで泣けるの、姉ちゃんくらいだぜ』
呆れられたが、涙の理由を打ち明ける気などなかった。
「待ってろ。絵本、取ってくる」
ぼぉっとしていたのは珪も同じで、あのまま渡す筈だった絵本を持ち帰ってしまっていた。
腕を解かれて、珪が離れる。
「わたしも一緒に行く」
少しの間も離れていたくなくて、そんな我がままを言うと、微笑って、手を取ってくれた。
何度か来た珪の部屋の、広い机の上に、絵本は置かれていた。
「このお話って、何語で書かれてるの?」
読めないタイトルの文字を見て、不思議に感じていたことを聞いてみた。
「ドイツ語。これは、祖父さんの本だから」
だからいつも、お話を聞かせてもらっていたのかと、手に持たせてくれた絵本を開いてみた。
「大学で、ドイツ語採ろうかな。そしたら、わたしもこのお話、読めるよね」
思いついて言うと、なぜかため息と共に、絵本を取り上げられた。
「珪?」
ベッドに腰を下ろした珪は、来い、というように、隣りの場所を叩いた。
ついさっきまで、やさしく微笑いかけてくれたのに、急に不機嫌になっている。
とりあえず隣りへ行くと、
「いつだって、おまえが聞きたい時は、俺が読んでやる」
少し怒った声で言うので、笑ってしまった。
こんな、拗ねたような表情は初めて見る。
「笑うなよ」
唇が合わされた。
二度目のくちづけ。
早朝の並木道で、やっと、好き、という言葉を伝えることが出来た時、想いを伝え合うように唇を重ねた。
ずっと求めていた居場所は、甘やかな苦しみを今日子に教えた。
「珪を好きでいていいのが、すごくうれしい」
再び感じる珪の早い鼓動が、夢ではないのだと教えてくれる。
「いいに決まってる。あたりまえのこと、言うな」
口調がまだ、拗ねている。
「あたりまえなんかじゃないよ。好きな気持ちを抑えるの、ずっと、難しかった。あんまり、うまく隠せてなかったと思うけど」
急に腕を解き、身体を離された。
近い位置で合った深い緑の瞳に、いぶかしむような感情があった。
「なぜ、抑える?隠す必要なんか、ないだろ?」
わずかに、責めるような響きを感じた。
「そう言えば、さっきも同じようなこと、言ってたな」
並木道でのことだと、すぐ、わかった。
仲良しでいるのを続けたくて、逃げていたと告げたことだと。
「・・・だって、そうでしょ?一度、ふられてるんだから」
返ってきたのは、沈黙。
「珪?」
なぜか、固まってしまった表情に反して、緑の瞳の視線だけがきつい。
「・・・誰が、誰を、ふったって?」
低い、珪の機嫌の悪さを示す、とても低い声で、一語一語、確かめるように問われた。
「珪が、わたしを」
思い出して口にしたいことではないが、珪の迫力に押されて答えた。
まばたきもせず、見開かれていた瞳が閉じられる。
また、深いため息をつかれた。
「覚えがない。そんな馬鹿な真似、俺がする筈ない」
カチンときた。
「どこでどう勘違いしたか知らないが、どうやったら、そんな有り得ない誤解が出来るんだ」
ムカッとした。
「どうしてこんなに鈍いんだと思ってたが、なるほど、通じる訳ないな。そんな馬鹿なこと考えてたんじゃ」
ものすごく、腹が立ってきた。
「誤解じゃないでしょ」
甘えるように傾けていた身体を、まっすぐに起こして目を合わせた。
「あんなにきっぱり、拒絶したじゃない」
「いつ?」
知らぬ顔で言ってのける珪に、甘やかな気分が完全に吹き飛んだ。
「一緒にスチルを撮った後!」
記憶を探るような珪の瞳が、あっ、というように見開かれた。
そして、ひどく決まり悪そうに、そっぽを向いた。
「あれは・・・違う」
「違わないでしょ。近寄るなって、空気出しまくりで、わたしのことっ」
感情的になってしまい、後の言葉が続かない。
「だから・・・違うんだ。あれは」
「違わないもん!」
想いに気付かれた途端、背中を向けられて、はじき飛ばすような強い拒絶を受けた。
「珪の傍に、居られなくなる位なら、こんな気持ち、無くしちゃおうって、わたし・・・」
泣くことも出来なかったあの時の苦しさが、リアルによみがえってきて、目の前がぼやけた。
ポタポタと落ちた水滴に気付いて、珪は抱き寄せようとしてくれたが、意地になって押し返した。
「頼むから、泣くな。ほんとに、あれは違うんだ。その、おまえがそんな風に考えてるなんて、思わなかった・・・そうか、だからか。なんか、色々わかってきた」
一人で納得している珪に、また心が荒れ出した。
「珪、ちゃんと説明して。何が違うの?あの時、どうして、」
「・・・そのうち、話す」
「そのうち !?」
珪の前で、こんなに感情的になったことがなく、そのせいか止め方がわからない。
「今は・・・まずい」
「何が、まずいの !?」
「言えるか。そんなこと」
止められない理由がわかった。
珪が、油を注いでいるのだ。
「それに、おまえが俺のこと・・・その、想ってくれてたなんて、知らなかった。知ってたら、俺だって」
聞き捨てならない台詞だった。
「知らない筈ないでしょ?スチルのあれを見て、わたしの気持ちに気付いたんじゃないの?」
「スチル?」
かみ合わない会話を重ねて、今日子はようやく一つの疑問に行き着いた。
「まさかと思うけど・・・珪、あのスチル、ポスターになったやつだからね、あれ見て、どう思った?」
「よく撮れてるな、って」
「他には?」
「それだけ」
「珪・・・」
「なんだよ」
「鈍い」
今度は、珪がカチンとくる番だった。
「他の誰に言われても、おまえにだけは言われたくない」
「だって!」
ついに立って、珪を見下ろした。
何ヶ月にも渡る苦悩と緊張の日々は、なんだったのか。
「あの写真見て、アリスにも、撮影所の皆にも、周り中の人みんなに珪への気持ち、気付かれて、」
その中には、自分自身さえ入っていた。
「なのに、どうして珪だけ気付かないの?わたしの顔に、思いっきり出てたじゃない!」
こんな説明をしなきゃいけないことが、本当に腹立たしい。
「いや、でも・・・おまえ、微笑う時、ずっとあんな感じだったぞ?」
戸惑っている珪の言葉が、最後の起爆剤だった。
「じゃあっ、ずっと珪のことが好きだったんでしょっ!」
仁王立ちになって、両手の拳を握りしめて、なんでこんなコトを珪に向かって叫んでいるのか。
呆気にとられている珪に背を向けて、沸騰した感情のまま、部屋を飛び出そうとしたのに、たった一歩で、強い力で引き戻された。
その勢いで、珪の腕の中に倒れ込む。
撥ね退けようとするのを、更に強い力で引き寄せられた。
「それでもっ、俺の方が長いっ」
ぎゅっと、腕の中に閉じ込めようとするかのように、抱き込まれる。
「おまえを想ってた時間は、俺の方が絶対に長い!」
崩れた体勢のまま、今日子は珪の背に腕を回した。
「珪、教えて。いつから?いつから、わたしのこと」
「教えない」
きっぱり、言い切られる。
「くやしいから、教えない」
それは、互いに想い合いながら、気付かず、過ごしてしまった時間のことだとわかった。
「珪」
「なんだよ」
「もう、わたしのことばっかり、鈍いなんて言えないね」
茶化すように言うと、三度目の深いため息をつかれた。
「なんか、気が抜けた」
腕の力が緩んだ隙を突いて、身体を起こした。
すぐ傍にある珪の顔はほんとに拍子抜けしたような表情で、これからはこんな風に、見たことのない色んな表情を見せてくれるのだと思ったら、嬉しくなった。
「笑うなよ、まったく」
珪の頭が、肩に預けられる。
「気が抜けたら、眠くなってきた」
もう一度、背中に手を回して、ポンポンとやさしく叩いた。
「いいよ。眠って」
「たくさん、時間を無駄にしたのにか?」
「これから、取り返せるよ」
「こんな時まで前向きだな、おまえは」
コロンと、珪は横になった。
「眠っても、おまえは消えたりしないよな」
心が敏感になっていた今日子は、もしかして、と気付いた。
「珪、寝てないの?」
「・・・・・・」
沈黙が、肯定していた。
「寝なさい」
「お話の続きはどうするんだ?」
「起きたら、聞かせてもらいます」
絵本を枕元に離す。
「ちゃんと、ここに居るから」
微笑ってくれた顔は、子供のようだったけれど、腕を引かれて、また、抱き込まれる。
「珪!」
ふざけてないでと、起き上がろうとしたが、
「抱き枕」
甘えるように言われて、抵抗を諦めた。
なんだか、これからずっと、珪のこのペースに乗せられそうな気がする。
「ここに、居ろよ」
スゥと、眠りに落ちていく珪の鼓動は早くて、これってもしかして、睡眠不足のせいなんじゃと、珪が知ったら落ち込みそうなことを今日子は思う。
あたたかい腕に抱かれて、珪の胸に顔を付けて、その鼓動を聞いている。
珪に一番近い、この幸せな居場所。
「珪・・・無駄なんかじゃないよ」
求め続けたあの長い時間があるからこそ、ここがどんなに特別な居場所かわかる。
目を閉じて、珪の鼓動に身を委ねる。
(一緒にお昼寝するのも、特別なデートだよね)
微笑んで、愛しいぬくもりにまどろみ、今日子もまた、眠りの中に落ちていった。
- Fin -
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