左の頬に手を当てるのが、集中している時のクセ。
解答の見直しをする表情は真剣そのもので、瞬きする長い睫毛や、陶器のような桜色の頬に、見惚れる珪の視線にも気付かない。
23日の受験を目前に控えた、2月13日の日曜日。
珪の家のリビングで、二人は勉強していた。
六人掛けの広いダイニングテーブルは、テキストやノートを広げるのに丁度いい。
もっとも、珪の前にあるのは、受験科目のどれでもない。
『出来るだけ、卒業までに色々取っておいた方がいいよ』
森山仁のアドバイスで、珪はこの時期に車の免許を取得しようとしていた。
『色々』という一語の示すことが何であるか、珪はちゃんとわかっていたけれど、
「出来た。お願い、珪」
模擬テストの添削を求める今日子の瞳が、本当に真剣だったから、
(言えないよな。今は)
「見てもらってる間に、コーヒー淹れて来るね」
隣りのキッチンへ向かう今日子を、自然と目が追いかけてしまう。
もし、この想いが、今日子にとって受け入れ難いものであるならば、拒絶したことで苦しむのは目に見えていた。
自分よりも、相手のことを思いやってしまう今日子を知っていたから。
こんなに頑張っている受験の前に、傷つけることは絶対に出来なかった。
けれどもし、受け入れてくれたなら。
(俺の抑えがきかない)
『最近、綺麗になったね、明日香ちゃん。何かいいコトでもあったかな?』
珍しく、冷やかすように沢木に問いかけられた時、全く心当たりのない自分を情けなく思いながら、
『さあ』
と答えた。
『あはは。そっか。でも、きっとそうだよ。咲きかけの花の蕾みたいだからね』
なんか今、すっごいキザなコト言っちゃったねと、自分でツッコんで照れまくる沢木は、妹のアリスから何も聞かされて
いなかった為、今もって誤解したままだった。
『もうすぐ受験か。一緒の大学に行けるといいね。じゃないと、心配だろ?』
『まぁ』
曖昧な珪の態度を、沢木は余裕と捉えた。
『ま、君達なら大丈夫か。大学ってさ、高校の時みたいに同じ教室に行けば毎日会える、ってもんでもないだろ?活動の幅も選択肢もどんどん広がってくし。だから、すれ違うことが続くと余計な心配したり不安になったりして、結構しんどいんだよね。特に葉月君は、仕事もしてて忙しいしさ』
妙にリアルな沢木の描写は、今の珪には痛い刺激だった。
おまけに、この会話を聞いていたアリスが、
『高校の時から付き合ってた彼女に、大学の一年目でふられちゃったのよ。お兄ちゃん』
余計な裏付け情報を追加した。
『あと、この仕事始めた時も、忙しくてあんまり会えないでいたら、ふられてた』
兄の良さも分からず手を離してしまえる女なんか、こっちから蹴り出してやれと思っていることは言わず、アリスは無言の葉月珪を睨め付けた。
『この前、ウチの学校の男子に聞かれたんだよね。わたしがよく行ってるアルカードの女のコに、彼はいるのか?って』
威圧的な葉月珪の視線を真っ向から受け、アリスは営業用の笑みを浮かべて答えた。
『いない、って答えたわ。しょうがないわよね。ほんとのことなんだから』
濃度を増した空気が、向かい合う二人の間にドロドロと立ちこめ、気付いたスタッフによって早々に引き離された。
アリスの挑発に比べて、志筑のそれはもっと直接的だった。
『模試の会場で、明日香に一目惚れした馬鹿な男がいる』
昼食のテーブルを、一足先にと立ったところで、思いついたように爆弾を落とした。
『売約済とは言っておいたが、略奪上等の諦めの悪い奴だから、まぁ、気を付けるんだな』
固まってしまった珪に目もくれず、行ってしまう。
“略奪?やってみろよ。相手はあの、葉月珪だがな”
とっくにその男を秒殺してあることは言いもせず。
『ったく、志筑のヤツ、葉月に八つ当たりして、どうすんだ』
楠本はフォローするつもりだった。
『すまんな、葉月。あいつ、ちょっと前に、ずっと思い切れなかったコに、はずみで告って息の根止められてな』
呼吸停止しかけている珪に気付かず、楠本は続けた。
『そのコには他に好きなヤツがいてさ、これでそっちがまとまってくれりゃ、諦めもつくんだろうが、傍から見りゃ両想いのくせにグズグズしててな。おかげで蛇の生殺し状態。また、恋敵が何んも知らんと目の前ウロチョロしてるもんだから、あっ、そのコは明日香じゃないからな。安心しろ』
『もう、ジブンは黙っとき』
だんだん、この四人でつるむことの多くなった姫条が、見かねて口を挟む。
『だがな、他人事じゃないぞ。まるっきりノーマークだったヤツに、彼女の心をかっ攫われてると知った時のあいつの荒れようったら、なかったからな』
楠本は無自覚に、深々とトドメを刺した。
「どう?珪。出来てる?」
「まだ、採点中」
お湯が沸くのを待つ間も落ち着かないのか、キッチンとこちらを行ったり来たりして、手許を覗き込もうとする。
「後でまとめて講義するから。お湯、沸いてるんじゃないか?」
「え、ほんと?」
慌てて、キッチンに戻る。
つかまえないなら取り上げるぞと、四方八方からプレッシャーを掛けられている気がした。
今が続けばいいなと思うことがあっても、それはいつも、急に取り上げられた。
幼い頃、今日子と遊んだ楽しい時間が、一本の父からの電話で、突然、断ち切られたように。
期待することを一切止めてしまったのは、結構、早い時期だったように思う。
欲しいものに、どうやって手を伸ばせばいいか分からなくなったのは、たぶん、そのせいだろう。
けれど、今日子といると。
「はい、珪」
答案用紙を避けて脇に置かれたのは、直径15センチのチョコレートケーキ。
お皿には、このホールサイズで一人分なのだと主張するように、フォークが一本添えられている。
「おやつって・・・・・・これか?」
「うん」
今日はおやつも持参で来ましたと、来るなりキッチンに直行し、隠すように冷蔵庫に仕舞っていた。
「どうして、フォークが一本なんだ?」
答えを予想しつつも、訊いてみる。
「これ全部、珪のだからだよ。食べてね」
皿の縁まで一杯の、チョコレートケーキをまじまじと見つめる。
確かに、何度もリクエストして作って貰った好物の一つだが、今日は一人一個がこのサイズなのだろうか?
今日子の感覚を疑う珪の耳に、
「明日、学校に持って行ったら、帰るまでに溶けちゃうでしょ」
顔を上げた時には、
「コーヒー持って来るね」
背を向けている。
こんな風に、今日子と居ると、どうしてかポンと与えられる。
それも一つや二つではなく、ふんだんに。
「明日くれる筈のチョコレートケーキなのか?」
マグカップを2つ、トレイに載せて戻ってきた今日子に問いかける。
チョコレートに力を込めてしまった珪に、
「バレンタイン第一弾」
コーヒーに視線を落としたまま答える。
その頬は桜色に染まっていたけれど、さっき、答案の見直しをしていた時からなのだ。
すごく、とてもうれしいのだが、
(わかりづらい)
与えてくれるものが多すぎて、どれが特別なのか、わからない。
こんな贅沢を覚えてしまうのは、ずっと怖かった筈なのに。
「おまえの分の皿とフォーク、持ってこいよ」
「でも、これは珪のだもん」
向かいの今日子はマグカップを両手に持って、目を合わせようとしない。
聞き分けの無い子供のような口調は、照れ隠しと考えていいのだろうか。
「これ全部一人で食べたら、いくら俺でも太る」
実力行使とキッチンに向かいかけ、思いついて、付け加えた。
「一緒に食べよう。スタイル良くなるぞ」
「珪!」
見なくてもわかる。
からかわれたと、頬を赤くして、ふくれている。
(こういう反応は、わかりやすいんだけどな)
先週の日曜日、運動不足だと頭に血が回らなくなると、いい加減な口実で机に向かってばかりの今日子をプールに誘った。久しぶりに身体を動かして、いい気分転換になったと楽しそうで、連れ出して良かったと思った。
休憩の時、じっと見られてる気がして、
『どうした?』
訊くと、
『珪って、着やせするよね』
真面目な表情でしみじみと言う。
『俺、太ったか?』
増えた体重は、伸びた身長に見合う分だけの筈と思い返す。
『ちがうの!そうじゃなくて』
妙に強く否定する。
『普段、あんまり身体を動かさないのに、ちゃんと筋肉もついてるし・・・どうして?』
怠惰な日常を責められているようで、うれしくない。
『体質だろ』
話を打ち切ろうとしたが、
『いいなぁ。珪、ずるい』
不満そうな表情で食い下がってくる。
『別に、おまえだって、スタイル悪くないだろ?』
すんなり伸びた手足や、高い腰の位置、華奢なウエスト。
細身だが、つくべきところは、ほどよく丸みを帯びている。
『いいもん。気を遣ってくれなくても』
自分では納得がいってないらしく、信じようとしない。
『別に、気なんか遣ってない』
莫迦だなと可笑しくなって、
『そういうの、見るヤツによって感じ方が違うだろ。俺は・・・どっちかって言うと、今のままでいいから』
口が滑ったと、すぐに気付いた。
これでは好みの体つきだと言っているも同然で、決して決して、やましい意味ではないと釈明するのは、かえっていやらしい。
今日子はどう取ったろうと、冷や汗もので反応を見守ったのに、ふーん、と気のない返事で、別のことを考えているらしい。
(鈍すぎる・・・)
ちょっとくらい反応して、怒るなり、拗ねるなりしてくれたら、俺は嬉しいかも知れないと虚しくなった。
わざと大きめに切り分けた一片を皿に取り分け、今日子の前に置くと、
「太ったら、スタイル良くなれないじゃない」
濃い薔薇色の頬で文句を言う。
その胸元、ハイネックのボルドーのセーターの上に、乳白色のムーンストーンがある。
「最近それ、よくしてるな」
いただきますとフォークを取り上げ、何でもないことのように言った。
「うん。受験の御守りにしようと思って」
クルミがのぞく一カケを口に運んで、
「あ、おいしい」
自分が作ったくせに、うれしそうに言う。
「いいかもな。その石つけてると、直観力が鋭くなるらしいから」
「そうなの !?」
「あと、癒し効果があって、精神的に安定するらしい」
「じゃあ、絶対に試験の時、つけて行かなきゃ」
9割方、正解の答案をチラッと見て、決意を込めて言う。
「あ、ねぇ、もしかして、その為に選んでくれたの?」
「ただの偶然。後で、そう聞いた」
「ふーん。でも偶然の方が、効果が高いような気がする。うん、やっぱり御守りにしよう」
きっと今日子のことだから、このまま鵜呑みにして信じるのだろう。
ウソを言った訳ではないが、
“片想いが両想いになる”
そんな効果もあるのだと知ったら、どんな表情をするのだろう。
贈った後で、この石を分けてもらった工房の、馴染みの職人さんから教えられた自分は――。
「どうかした?珪。むずかしい表情になってるけど」
「・・・・・・別に。何でも」
贈ったのが、シンデレラの稽古の真っ最中だったからか、中々つけてくれなくて、意味に気付いて困ったのかと動揺した。
どうもそういう訳ではないらしいと分かっても、休日にワルツの練習で会う時も、つけてはくれなくて、どうしてだ?と不安だった。
文化祭が終わって、やっと二人で出掛けたあのはばたき山へ行く日の朝、門の前で待っていた今日子の胸に、これを見つけて、どんなにうれしかったか、言葉でなんか、言い表せない。
クリスマスパーティーで、皆が凝ったアクセサリーで身を飾る中、ムーンストーンに細いチェーンを付け替えただけのペンダントを身に着けてきた今日子を見て、どれほど幸福を覚えたかも。
「残りは冷蔵庫に仕舞っとくね。コーヒーのお替りは?」
「いる。カフェオレがいい」
「了解」
我が儘に笑って応えてくれる。
(いいのか?そんなに甘やかして)
告白は、卒業式の日と決めていた。
受験が終わっても、きっと、合格発表の後で、もっと暖かくなったら、桜が咲いたらと、ずるずる先延ばしにするに違いないのだ。
いつか何かに、誰かに、取り上げられて、永久に失ってしまうかもしれないのに。
自信は今でもなく、迷いからも抜け出せてはいなかった。
去年、今日子が風邪をこじらせた時、何もわかっていない自分に求める資格があるのかと、悩んだ。
そのくせ、失うことは仮定することさえ、出来なかった。
あの大好きな笑顔を、見ていられるだけでいいという想いが真実なら、その笑顔で、自分だけを見て欲しいという想いもまた、真実だった。
珪の部屋に、シルバーのリングを納めた小箱がある。
『わたしも一つ、欲しかったな』
夏のフリーマーケットで、殆んど売れた試しのない作品たちを、手伝いに来てくれた今日子のおかげで、すべて買い求めて貰えた。
その後で、呟かれた一言。
欲しかったなら、先に好きなものを選べばよかったのに、そんなことは考えもしない。
『いつか作ってやる。おまえに似合うの』
帰ってすぐにデザインを始めて、気持ちが先行し過ぎてちっともまとまらなくて、やっとクローバーで決めたのに、凝り過ぎて予定のクリスマスに間に合わなかった。
「ね、珪。車の免許取る試験て、難しいの?」
右手の脇に、たっぷりのカフェオレを満たした大きめのマグカップが置かれる。
「別に。たいしたことない」
おまえの心を得ることの難しさに比べたら、どれも容易いと、珪は思った。
「そうなの?なんか、今日はよく難しい表情してるから、珪でも大変なんだな、って思っちゃった」
「・・・・・・・・・」
ずっと、どんな言葉で想いを伝えたらいいだろうと、考えていた。
「集中するのに邪魔になってたら悪いから、そろそろ帰ろうかと思ってたんだけど、」
傍に居て欲しいと、心の中だけでいくら願っても、今日子には絶対に伝わらない。
「邪魔じゃない。そんなこと・・・・・・俺は思ってない」
「そしたら、わたし、もう少しここに居てもいい?」
「構わない。・・・・・・ほら、始めるぞ」
採点済みの答案用紙を手許に引き寄せると、
「じゃあ、葉月先生、よろしくお願いします」
ふざけている訳ではなく、真面目そのものの表情を向けてくる。
“好きだ。
ずっと一緒に居てくれ”
もう、この二言でいいと、珪は抱えていた悩みを放り出した。
森山も言っていたではないか。
上手く言う必要など、ないのだと。
逢いたい。
ただ、それだけの理由で逢えるように。
「おまえの弱点は、注意力が足りないことだな。例えば、この問題。もう一回、解いてみろ」
真剣な表情でノートを広げるあの手を取って、クローバーのリングを渡そう。
- Fin -
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