「あのね、珪」
夕食の後片付けも一区切りつき、食後のコーヒーを淹れようという頃。
「どうした?」
幾度目かの、この台詞を口にする珪の心の準備は、既に万端整っていた。
時折り、じっとこちらを見つめるのに問いかけても、何でもないと答える。
そのくせ、妙に上の空で、気が散漫。
これらの症状が揃うのは、大抵ちょっとしたイタズラを試みようと考えている時。
そのイタズラのタネは、誰かの入れ知恵であることが殆んどで、
「珪もよく知ってる、ある人の話なんだけど、」
(ほらな)
友人から仕事関係者まで、恋人絡みなら葉月珪の無表情を崩せるのだと知れ渡った今、何かというと、今日子を通じてちょっかいを掛けてくる。
「ほんの思いつきで、ご飯出来たよーって呼ぶのに、あることを試してみたら、」
今回は、どうやら今日子の友人ラインらしい。
(とすると、)
範囲を狭め、直近で仕入れた情報を頭の中で検索する。
「もちろん驚かせるつもりなんてなくて、ただちょっと、どんな反応するかなって、冗談半分だったんだよ?」
自分の為だけに今日子がコーヒーを淹れてくれるこのひと時は、いつもなら、ゆったりと気持ちをくつろがせてくれるのに、じわじわと緊張の度合いが高まっていく。
「すごく、びっくりしたらしくて、ちょうど保存しようとしてたファイル、“いいえ”で閉じちゃって、いっぱい謝ることになったんだって」
(・・・それか)
事象が確定出来た。
こういう時に備え、手を組んだ盟友は、素早く情報をもたらしてくれた際、
『私の油断と不覚が引き起こした事態であって、その端緒を彼女とするのは誤りではあるが、』
長い前置きの後、不意打ちに気を付けるようにと助言を寄越した。
「でね、珪ならどんな反応するかな、って話になったんだけど、わたしはそんなに驚かないと思うんだよね」
(それは違う)
晴れてその呼びかけに答えられるまで、まだ相当の年月を要する今、心の準備もなしに耳にしようものなら、ファイル保存の失敗程度で済むとは思えない。
「驚くかどうかなんて、試してみなきゃ分からないだろ」
だから、心構えの出来ている今のうちに、試してみろとけし掛ける。
「それもそうだよね」
あはは、と呑気に笑って、温かく湯気の立ち昇るをカップを取り上げる。
そして両手で差し出しながら、
「はい、あなた」
ゴトン。バシャ。
「珪っ」
フリーズした手をすり抜けたカップは、中のコーヒーをテーブルいっぱいに広げ、見る間にその範囲を拡大させていく。
「やけどしてない?大丈夫?」
珪を気遣いながらも、今日子は床に滴り落ちていくコーヒーに気を取られている。
心で、珪は深くため息をついた。
(わかってても、か)
一応、ダメージはマグカップ一杯分のコーヒーに止めることが出来た。
今日子自身も、こちらの反応を気にするどころではない。
まだましな結果と、するべきなのだろう。
『言葉の持つ威力について、再考察を要する事象といえる』
(確かにな)
かつて受けた授業より、その述懐は深く、珪の脳裏に刻まれたのだが。
“そろそろお昼にしませんか?あなた”
顔を覗き込むように、寄せられたのは綺麗な笑顔。
“はい、あなた”
楽しげに、いたずらっぽく微笑む優しい表情。
本当に弱いのは、何に対してなのか。
自覚の足りない似た者同士がいくら情報を交換し合っても、徒労でしかないのだと気付くには、この呼びかけが日常のひとコマとなるまでの月日を要しているようだった。
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